「出ていくのはお前だろ?(笑)」

志乃原七海

第1話。私のプリン!



元のテキストの「気だるげな雰囲気」は残しつつ、夫婦喧嘩を完全に「駆除作業」へと昇華させたバージョンです。


***


**タイトル:第四〇二区画の掃除屋**


 早坂美咲は、このマンション四階の管理者(ルーター)であり、同時に侵入者を排除する掃除屋である。

 三十歳、既婚。このセクターを制圧して五万年が経過した。


 リビングのテーブルに鎮座するのは、空になったプラスチック容器の残骸。

 かつて「プレミアム濃厚プリン」と呼ばれていたその資源は、すでに私の胃袋という焼却炉でエネルギーへと変換済みだ。


 ガチャリ、と玄関のロックが解除される音が響く。

 敵性存在(ホスタイル)の接近を確認。

 私はソファの定位置から動くことなく、手元のスマホで時刻を確認する。一九時四二分。定刻通りの襲来だ。


「ただいま。……それ、食べたの?」


 リビングに入ってくるなり、ターゲット――通称『パパ』は、プリンの残骸に視線を固定した。

 眉間に刻まれた深い皺。呼吸の乱れ。瞳孔の揺らぎ。

 典型的な「癇癪(バーサーク)」の前兆パターンである。


「おかえり。うん、冷蔵庫にあったから処理した。美味しかったよ」

「処理したって……あれ、二つとも俺のだったんだけど」


 ターゲットが放ったのは「所有権の主張」という、極めて幼稚な精神攻撃だ。

 子供が玩具を取り上げられた際に発動するスキルと同質のもので、威力は皆無。だが、放置すれば増長してエリア全体にストレス毒を散布する厄介な性質を持つ。


「共有ストレージ(冷蔵庫)に入っていたアイテムは、パーティ共有資産と見なされる。基本ルールでしょ?」

「自分ルールだろそれ! なんで自分のことしか考えられないんだ!」


 咆哮と共に、ターゲットが赤面して距離を詰めてくる。

 過去の旅行の不手際、日頃の不満、人格否定。手垢のついたフレーズの乱れ打ち。

 私はスマホの画面をスクロールしながら、飛来する雑言を右から左へと受け流す。


 ダメージ判定、なし。

 この程度の攻撃は、三年の結婚生活で抗体ができている。


 ターゲットの興奮レベルが閾値(スレッショルド)を超えた。

 顔を真っ赤にし、腕を振り上げ、彼はこのエリアで最も禁忌とされるコマンドを入力した。


「もういい! お前とはやってられない! 出ていけ! この家から出ていけ!」


 リビングに静寂が落ちる。

 彼は荒い息を吐きながら、勝利を確信したような顔で仁王立ちしている。

 哀れなものだ。彼は自分がフィールドのボスだと思っているが、実態はリスポーン地点すら確保できていない野良モンスターに過ぎない。


 私はスマホを置き、ゆっくりと視線を上げた。

 感情をオフにする。業務モードへ移行。


「……は?」


 低く唸ると、ターゲットが怯んだように肩を震わせた。

 私は虚空から、重たい鈍器を引きずり出すイメージを構築する。

 それは鉄筋などという生易しいものではない。『不動産登記簿』と『頭金負担証明書』を束ねて鍛え上げた、法的拘束力を持つ特級呪具だ。


「聞こえなかった? 出ていくのは、お前だろ?」


 鈍器をフルスイングする。

 ドゴォ、という衝撃音が聞こえた気がした。

 ターゲットの思考回路が断絶し、表情が凍り付く。


「このセクター(マンション)の所有権は、五割が私。残りの五割も私の親族というスポンサーが握っている。お前の占有率はゼロだ」


 追撃。

 地面に這いつくばった相手の頭を踏みつけるように、事実を淡々と羅列する。


「加えて、先ほどの『出ていけ』発言。これはモラルハラスメントという状態異常攻撃に該当する。ログ(録音)は取った。慰謝料請求のコンボが確定したけど、まだやる?」


 私はスマホを取り出し、最寄りの隔離施設(ウィークリーマンション)のマップデータを表示して、彼の鼻先に突きつけた。


「退去ルートは確保済みだ。荷物をまとめて即時撤退(ログアウト)しろ。所要時間は十分を与える」


 ターゲットは口をパクパクと開閉させた後、糸が切れた人形のように崩れ落ち、よろめきながら寝室へと消えていった。

 衣擦れと、バッグに物を詰め込む音だけが響く。


 やがて玄関のドアが閉まる音がした。

 エリア内の静寂が回復する。


「夫、一」


 私は小さく呟き、手元の「プレミアム濃厚プリン(二個目)」の蓋を開けた。

 これは戦利品だ。

 甘いカラメルの香りが漂う。スプーンで掬い、口に運ぶ。

 実に濃厚で、平穏な味がした。


 早坂美咲は、家庭の掃除屋である。

 今日もまた、勘違いした侵入者を排除し、日常を守り抜いた。


***


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