第6話 桃子と琴子

「今日の夕飯は、出前を頼んだから。あと少ししたら来る。その前に、風呂に入りな。食って寝て、明日には忘れなさい」

「あの……あの子にも、新しい浴衣をあげてください。風呂にも入れさせてください。あれじゃ、可哀そうです」

 岡見はしばらく考え、

「確かにね。客間が臭くなる。残り湯だったらいいよ。夜、二階の浴室を使いなさい。そのまま、桃子の隣の女中部屋で、寝させなさい」

「はい……」

 二人はそのまま裏口から入り、溜場に入る。その時、廊下から男の威勢のいい声が聞こえた。

「すみません。出前を持ってきました」

「はい。ここの机に置いて行ってください」

 岡見さんは振り返り、いつものように元気よく返事をした。

「失礼します」

 男は出前の品を、溜場の机の上に置いていく。

「ありがとうございます。こちらに置いておいてください。あとは私がやっておきますので」

「はいどうも。しかし、今日は何かあったのですか? 一度にこんなに頼むなんて、珍しいですね」

「たまにはね、楽をしようと思いまして」

 反射的に、桃子も手伝おうと、机の方に向かったが、岡見に止められた。

「風呂に入りなさい。後はやっておくから」

「すみません」

 桃子は言われた通り、溜場から出ようとした。出前を持って来た男が、裏口から出て行く。入れ替わり、女が入ってきた。女も同じように、机の上に置いていく。

 その時、女と目が合った。

 桃子の顔を見た途端、女は目を丸くし、じっと見ている。

 出前の女性の顔は、とても美しかった。やや、丸み帯びた輪郭で、大きな目をしていた。鼻は細く、整っている。ふっくらとした唇は、男だったら吸い寄せられてしまう。

「あら、知り合いなの?」

 岡見が言った。

「いえ」

 桃子は静かに首を横に振る。もう一度、会釈をする。その時、桃子は動けなくなった。

「お久しぶりです。卒業して以来ですよね」

 出前の女が言った。

「ほら、同じ学校の組で。一緒に遊んでいました」

 女が軽やかに言った。桃子の背中がゾクゾクする。歯を食いしばり、笑顔を出す。

「ええ、そうです」

 岡見はじっと桃子を見ている。桃子は、

「はい、そうです」

 と、言った。桃子は三度目の会釈をし、すぐに溜場から出て行く。二階の浴室に向かうと、急いで浴衣を脱いだ。誰かが水を入れてくれていた。桃子は桶を両手で持つと、頭から水を被った。間髪入れず、三回もした。すぐに石鹸で全身を洗う。再び、頭から水を浴びた。湯船の水は、半分にまで減っている。だが、桃子は入った。一気に目が覚めていく。

「ちくしょう」

 唸り声のように言った。脱衣所の戸が開く音がした。

「桃子。ここに浴衣を置いておくから」

 岡見の声。

「ありがとうございます」

 桃子は大きな声で言い、戸が閉まると同時に、浴室を出て、脱衣所へ出た。

 さっきまで着ていた浴衣はなくなっていた。置いてあったのは、二人分の浴衣。桃子はすぐに着替えた。脱衣所から出ると、一階の食堂へ。そこには天丼が一つ残っていた。自分の名前が書かれてある紙があった。

 桃子は勢いよく、口にかき込んでいった。

 


 夜、机の前に向かう。鉛筆をもち、置いてある紙に書き出した。

「お父さん、お母さん」

 だが、すぐに破る。部屋を出ると一階に向かった。

 一枚の浴衣を持ったまま、客間へと向かう。辺りには、誰もいないのを確認し、中に入る。

 部屋は真っ暗だった。僅かな月明り。少女はさっきと同じように、窓辺に膝を抱えて、じっと座っていた。桃子は音をたてないように、中に入る。少女は起きていた。部屋の隅でじっと座っている。近づくと、汗臭さが増している。少女の所から放たれていた。桃子は少女の前で、正座をした。

「風呂に入るよ」

 少女はぼんやりと、月を見つめながら、

「殺されるから、嫌だ」

「殺すのだったら、とっくに殺している」

「殺す価値すらないか……」

 少女は独り言のように呟いた。

「あなたの仲間、燃やされた」

「奈加さんを?」

「朝、私と岡見さんで焼いた。遺骨は取り出せなかったけど……」

 胸元から出したのは、真鍮のタバコケースと履物を取り出した。それを、少女に渡した。少女はすぐに、月明りに当てると、口元が震え始めた。

 一瞬にして瞳が輝くと、ギュッと瞑り、一筋の涙がこぼれた。口は真一文字になり、二つの物を、抱きしめる。

「母親なの?」

 少女は鼻をすすりながら、ゆっくりと首を横に振る。

「共に戦った……」

 言葉の意味が分からなかった。目の前にいる少女は、食事をしていないせいか、他の女性よりも貧相である。

「どうやって?」

 少女の手が、桃子に見えやすいように月明かりに当てる。そして銃の形に変えると、バンと言った。

「誰に教わったの?」

「奈加さん」

 桃子は少女に近寄り、彼女の手を、自分の手で優しく包み込む。

「名前は?」

「琴子」

「とりあえず湯が冷める前に、風呂に入ろう。新しい浴衣をもらったからさ」

 琴子の前に、新品の浴衣を置いた。琴子は初めて、頷いた。

 二人は風呂場に行く。脱衣所で、琴子は着ていた浴衣を脱ぎ、すぐに風呂に入った。桃子は脱衣所で、座って待っていた。

「湯加減はどう?」

「ちょうどいい」

「ねえ。あの日、何があったの?」

「そんなに知りたいの?」

 桃子は後ろの戸口を気にしながら、話を聞く。

「浅草の旅館で、大姐を人質に、ドンパチした」

「あなたと奈加さんの二人で、ここの男たちと、戦ったわけ?」

「まあ、ね」

 未だに、琴子の言っている事が信じられなかった。

「旅館の人とか、客はどうしたの?」

「客は、旅館の女将が、別の旅館移した。で、旅館の女将と若い仲居が最後まで残ったけど、奈加さんが追い出した。奈加さんが、出て行くように脅した」

「警察は来なかったの?」

「来なかったよ」

「近隣の人達は? あそこって、夜から店が開くよね」

「やけに静かだった」

「ねえ、車に乗っていた人は、琴子と奈加。運転手だけ?」

「あと、水野という男と、旅館の女将」

「大姐は?」

「……乗らなかった。そろそろ上がるから」

 桃子は脱衣所から出る。琴子は着替え終えると、戸が開いた。さっぱりした琴子の姿を見ると、桃子には、やはり十代のあどけない少女にしか見えなかった。

「腹減った」

 琴子は笑った。幼い顔が可愛らしく見えた。二人は浴室から出る。桃子はすぐ隣の部屋の戸を開けた。

「今日からここを使って」

「いつまで、生かしてくれるの?」

「私には決められないよ。布団は敷いてあるから」

 琴子は、敷かれた布団に入っていく。

「ねえ、こういう事には慣れているの?」

 琴子の質問に桃子は、

「知らないよ。私はつい最近入ってきたし」

「ずっとここで働くの?」

「そういう事になった」

 何か言おうとした時、廊下から物音が聞こえた。すぐに振り返える。何も聞こえない。

「また明日」

「ねえ……」

「どんくさいね。見張られているのが、わからない? もう少ししたら、男が入り込んでくるよ」

 ゆっくりと、振り返る。この部屋も、廊下も暗闇でわからない。琴子は桃子の手を離す。

「おやすみ」

 そう言って、琴子は布団へと潜り込んだ。桃子はあきらめ、部屋を出る。廊下の明かりは消えている。人の気配は、わからない。緊張感が増してくる。すぐ隣の、自分の部屋に入った。

 明かりは点けられなかった。鉛筆を取り出す勇気もなく、この日はそのまま眠りについた。

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