桃子が勤めた屋敷では……

あしかや 与太郎

第1話 勤める屋敷

 夏の日差しが濃い、大正十一年。

 二十ぐらいの浴衣を着た女性は、その場に立ち止まる。雲一つない日本晴れ。少し先に、洋風の二階建ての家が見える。目の前には門があり、その先は石畳みになっている。門口は広かった。

「大丈夫、きっと上手くいく」

 八月後半の日差しは強く、女の額にうっすらと汗が滲んでいた。浴衣の胸元から、手ぬぐいを取り出し、拭う。

 そこに車がやって来た。ゆっくりと止まる。運転席の窓が開いた。

「お嬢さん、ここに用があるの?」

 男だった。スーツは着ているものの、頬の辺りに、刃物で切られたような傷がある。

「はい。今日からここで、女中をやらせてもらう者です」

「わかった。今、岡見さんに言ってくるから、中に入りな」

「ありがとうございます」

 さりげなく車中を見る。その男、一人だけ。車が先に行き、その後に女は入っていく。

 車はゆっくりと右から左へ、円を描くように曲がっていった。女も後に続いた。男が降り、玄関へと入る。

 二階にはバルコニーがある。窓の大きさは自分の背よりも、はるかに高い。

「おい、入りな」

 先ほどの男が、玄関から大きな声を出す。女は入ろうとするが、奥から会話が聞こえたので、立ち止る。

「本当にありがとうございました」

 女性の声が聞こえた。

「いいですよ。大姐さんには、子供の頃からお世話になっていますから。水洗式の便所を直しましたが、また不具合が起こりますかもしれません。何しろ、関東大震災から、一年ぐらいですから」

「ええ。うちは突貫工事でなんとか、直してくれましたから。他の所はまだ、復旧はしていないのでしょ?」

「ええ。特に貧乏な所はね。まあ、いつでも呼んでください」

 作業着の男が、長い木箱を肩に置き、出てくる。交代に女が中に入った。

「どちら様?」 

 初老の女性が立っていた。

「あの、今日から女中として働かせてもらいます……」

「あー、はいはい。そしたら下駄を脱いで、私についてきて」



 初老の女性は、左の部屋へと向かう。若い女性も下駄を脱ぎ、揃えて付いて行こうとした。まず、あまりの天井の高さに驚いた。少し奥に、大きな柱が二本、この家を支えている。その柱には模様が彫られているが、それが何なのか、わからない。

 柱の後ろには階段があった。八段昇ると踊り場があり、また八段程、二階に向かって延びている。床には絨毯が隅から隅まで敷かれていた。中年の女性は、ドアノブに手をかける。

「この部屋で面接をしましょう」

 初老の女性が中に入る。若い女性も中に入る。

 そこは洋風の部屋だった。八畳か十畳ほどの広さ。真ん中に木製の丸いテーブルが置いてあり、四つの椅子があった。白い布が敷かれている。対面で座ると、若い女は風呂敷から書類を出し、両手で初老の女性に渡した。

「お願いします」

「成田桃子。二十歳。女子高等学校を卒業ね」

 テーブルを挟んで、二十台の女性の履歴書を読みながら、初老の女性は、そう言った。

「はい」

「ふーん・・・・・・」

 初老の女性が履歴書を読んでいる時、部屋の中をざっと見回した。左側には柱時計があり、カチカチといっている。

 他に目に入るのは、白い壁。壁に掛けられている絵画。そして、この屋敷の見取り図。

「で、口入屋で知ったのね。でも早かったわね。お願いしたのは一昨日よ」

 女性は桃子に視線を合わせにきた。

「運が良かったので。紹介してくれた方も、お勧めしてくれましたし」

「失礼だけど、両親は何の仕事を?」

「群馬で農業です」

「あなたもさっきの男の顔を見たと思うけど、うちは芸能関係の仕事をしているの。  他の所とは違うわ。すぐに辞められては困るの。覚悟はある?」

 桃子は姿勢を正したが、視線はテーブルだった。

「あ、あります」

「うちも助かるのよ。最近じゃあ、女中より女工の方が良いって言われて。なかなかなり手がいなくてね。あと一人欲しいけど、来てくれないの。 話は変わるけど、桃子さんは結婚の予定は?」

「ないと思います」

 自分で笑いながら言ったものの、女性は軽く流した。

「じゃあ、採用しましょう。もちろん、住み込みで働いてもらうから。給料は、一月十三円。毎月、十五日に払うわ。それと、盆と正月は、帰省してもよし。その時、おこづかいをあげるから」

「ありがとうございます」

「じゃあ、簡単に説明するわね。ここは、大姐さんと水野(みずの)武(たけ)統(のり)さんのお屋敷。水野商事の社長さん。で、父親はいません。ここの屋敷に住んでいるのは、大姐さんと武統さん。私と、数名の使用人。計八人。で、大姐さんはここ数日、仕事で家を空けているわ」

「はい」

「ここの屋敷は、二つの館に分かれているの。南館と、北館」

 岡見は椅子から立ち上がり、壁に掛けてある見取り図を指しながら、説明をしていく。

「一階の南館は主に、お客さんをお迎えする、部屋ね。北館は食堂と行商の人が来る、溜場になっているわ」

「はい」

「二階は主に暮らす部屋になっているわ。南館は、武統さんと大姐さん。北館は、私たちの部屋」

「食事は一階の北館の大食堂。そこで、朝と昼、合計七、八人料理の支度をしなくてはいけないの」

「……大変ですね」

「私たちの仕事は、料理の支度と、掃除などをしてもらいます。それじゃあ、あなたの部屋を教えるわ」

 桃子は立ち上がる。岡見は桃子よりも、少し背が低かった。だが、背筋はピンと伸びている。



 部屋から出ると、階段大広間へ。階段を昇っていく。柱の後ろに、テーブルが一つ、椅子が二つあった。二階の階段大広間へ着くと、そこには四つのドアがあった。

「ここは主に、武統さんと大姐さんの部屋ね。書斎に、次の間。寝室に浴室もある」

 そう言って、階段大広間から、北の館へ続く廊下を歩いていく。

「ここが北の館。南の館と部屋の構造は違うわ」

 広間の中央に二人は立つ。左右に四つの戸があった。

「私たちが住んでいるのは、ここ。この左右の四つの戸が、女中の部屋ね。あなたは、ここを使ってちょうだい」

 右手前に向かい、戸を開ける。そこは畳の部屋だった。六畳で押し入れがある。窓は一つで、カーテンは付いていなかった。他にも、机と座布団がある。想像していたよりも、ちゃんとしていた部屋なので、少し驚いた。

「私は、左の部屋を使っているわ。女中の部屋は今の所、私とあなただけ。他の人達は、離れの平屋に住んでいる。布団は押し入れの中にあるから。それと、他に見せたい部屋があるの」

 桃子の部屋から出ると、次に奥の部屋へと向かった。女中部屋の戸とは違い、そこはドアノブとなっていた。部屋に入る。

「ここは、洗濯室になっているわ。ここで服などを洗濯します。その後、近くの階段を使って一階に下り、裏口から外に出て干します。それと、ここからさらに奥に、浴室があるわ。そこは、私たち専用」

「えっ、私たち専用ですか。銭湯に行かなくても、いいのですか」

 岡見は笑いながら、

「そうね。行かなくていいの」

 部屋を出ると、今度は反対側の部屋に入る。そこもドアノブだった。洗濯部屋と同じ、十畳ほどの部屋。座布団に湯飲み。裁縫道具が置いてある。

「ここは、私たちの仕事部屋かな。行事の準備をするのもここ。お茶出しの準備もここ」

「わかりました」

 二人は、桃子の部屋へと向かった。

「もう少ししたら、働いてもらうから。少し、自分の部屋で待ってなさい」

「これから、どうぞよろしくお願いします」

 桃子は腰から頭を下げた。岡見も少し頭を下げ、戸を閉める。閉めた後を確認し、その場に大の字になった。大きく息を吐き、心を落ち着かせた。

「これから、これから」

 天井を見上げながら、腕を組んだ。しばらく考え込むと、すぐに胸元から、鉛筆と紙を取り出す。そこに、この館の見取り図をスラスラと描いていった。

 南と北に館がある。一階は主に来客用。二階に自分の部屋がある。北の館、右手前。岡見さんは反対側。なんと、風呂もあり。部屋は大きくて、快適。

 書き終えると、鉛筆と紙を机の引き出しにしまった。窓を開け、外を眺める。

 脇道が見える。これか昼食の準備をするのだろか。主婦達が、買い物かごをもって、歩いているのが見える。それを、頬杖をつきながら見ていた。



 しばらくして、桃子は岡見に呼ばれた。これから、昼食の用意に入ると言われた。

「これが、今日の献立」

 全部で八人分を作る。献立は、サバの塩焼き、みそ汁、おしんこ。それを岡見と使用人、桃子を入れての三人で作る。

 一階に降りて、地下の階段を案内された。降りていくと、そこは調理場だった。十畳ほどの広さ。中央に大きな机が置かれ、調理器具が置かれている。ザルの中に、野菜が置かれてあり、まな板もある。一般の家庭と、あまり変わりがないように思えた。

 そこに使用人が調理を始めていた。岡見を見るなり、頭を下げる。

 ふと、見た事がない器具を見つけた。

「これ、なんですか?」

 それは、部屋の壁側にあった。長方形に型取りされた鉄が七本。円を描きながら、縦向きに置かれている。その中央には、穴の開いた球体があった。

「それはガスコンロ。ここのコックを捻るとね」

 火が付いた。驚く桃子。

「その炊飯器も、ガスよ。ところで桃子さん。包丁は扱った事はある?」

 岡見さんは鍋を用意しながら、聞いてきた。

「授業で少々……」

「じゃあ、そこにあるほうれん草をざく切り。ニンジンは皮を剥いてから、いちょう切りにして。後はお味噌。入れる量は、そこの人に聞いて」

 緊張した面持ちで、包丁を握る桃子。サンマのように光っている。使用人からは、冷たい視線が注がれる。

 桃子は意を決して、ほうれん草を掴むと、ヘタのほうから切っていく。ゆっくり一振りずつ丁寧に。

「お姉ちゃん。悪いけど忙しいから、もっと早く切ってくれ」

 と、使用人に言われ、

「はい……」

 と、答える。続いて、ニンジンの皮むき。ヘタを切る。刃先を自分の方に向け、薄く切ろうとした。

 次の瞬間、桃子は短い悲鳴を出した。

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