第8話 エラーコード

夜が明けてから、白石陽は「いつも通り」に戻っていた。

いや、戻ったというより、完璧なまでに「いつも通り」を演じている。


朝、陽は以前と変わらない快活な声で友人に挨拶をし、クラスメイトと談笑し、蓮が眉をひそめるような、中身のないゴシップで盛り上がる。その姿は、どこからどう見ても、悩みなど何一つない人気者の高校生そのものだった。


しかし、部屋に戻り、二人きりになると、陽は蓮をいないものとして扱った。一切の会話も、視線すらも交わさない。部屋には、以前よりもずっと高く、冷たい壁がそびえ立っていた。

蓮は、デスクのPC画面に集中しようとして、無意識に舌打ちをした。


(……集中できない)


目の前のディスプレイには、Elysion Gamesのサーバー構造を示す文字列が並んでいる。敵の懐に潜るための、重要な情報だ。普段の彼ならば、数時間もあれば内部構造の7割は把握できるはずだった。だが、今は、一行も頭に入ってこない。


原因は、わかっている。

この、異常なまでの静寂だ。

いつもなら、部屋の右側からは、陽の趣味の悪いポップソングが、遠慮なく蓮の耳を汚染していたはずだ。あるいは、スピーカーで最新の映画を観ながら、大袈裟な独り言を呟いているか。それが、今はどうだ。しん、と静まり返った部屋。聞こえるのは、自分のPCの冷却ファンが立てる、単調なノイズだけ。


(……非合理なノイズが消えて、思考がクリアになるはずだ)


そう、自分に言い聞かせる。だが、現実は、真逆だった。

陽というノイズが消えた世界は、ただ、ひどく空虚で、居心地が悪い。ゲームのコントローラーが、ただのプラスチックの塊に見える。一人でプレイする気など、到底起きなかった。


昨夜、陽が叩きつけた言葉が、棘のように思考の回路に突き刺さって抜けない。


『あの男も、お前も、同じだ』


俺が、あの男と。

理解不能なエラーコード。俺は、陽を助けるために、この状況を打開するために、最も正しいと信じる方法を提示しただけだ。そこに、あの男のような悪意も、娯楽性もない。純粋な、問題解決のためのロジックがあるだけのはずだった。


だが、あの時の、陽の絶望に満ちた瞳が、その完璧なはずのロジックに「ノー」を突きつけていた。


結局、陽の家庭環境という、最も重要な「侵入口(エントリーポイント)」を失った今、調査は行き詰まっていた。あの男、「作者」の名刺にあった名前という手がかりも、あらゆるデータベースを検索したが、該当者はいない。偽名だろう。


蓮は、画面から視線を外し、部屋の左側――陽の世界へと、目を向けた。


ヘッドホンで何かを聴いているのか、ソファの隅で膝を抱えている。その横顔は、学校で見せる快活なそれとは程遠く、時折、何かに耐えるように、ぐっと唇を噛み締めているのが見えた。


完璧な演技。

完璧すぎて、反吐が出る。

そして、その完璧な仮面の下にある剥き出しの脆さを、蓮は、一度、見てしまった。

見てしまったから、もうただの「気に食わない同室の男」として、切り捨てることができなくなっていた。


ふと脳裏に、あのVRゲームの光景が蘇る。

古びた子供部屋。声を殺して泣く、半透明の少女の亡霊。

あの時、蓮は少女の心を『解析』しようとして拒絶され、陽は、ただ寄り添うことで『救って』みせた。

『君の心はさ、宝箱みたいなものなんだ』

あの、非合理だが、圧倒的に正しかった陽の姿と、昨夜、陽の心を『侵入口』と呼び、土足で踏み荒らした自分の姿が重なる。


『あの男も、お前も、同じだ』


陽の言葉が、棘のように思考に突き刺さる。蓮の脳裏に、かつての大切な存在が過ぎった。


(結局俺のロジックでは、いつもたった一つの心を救うことすらできない)


このままでは、駄目だ。

俺は変わらないといけない。

蓮は、深く、息を吸った。彼の辞書に、ほとんど存在しない単語を実行するために。


「……陽」


いつものように、ぶっきらぼうに呼びかける。

陽の肩が、微かに震えた。だが、彼は顔を上げない。徹底した、無視。


蓮は、一度、言葉に詰まった。何を、どう言えばいい。謝罪の言葉など、彼の思考のデータベースには、インストールされていない。

だが、言わなければ、何も始まらない。


蓮は、固く、拳を握りしめた。その爪が、掌に食い込む痛みで、くだらないプライドを無理やりねじ伏せる。


「……悪かった。昨夜の、俺の言葉は、撤回する」


絞り出すような、声だった。


「俺の提示した手順は、非効率的で、間違っていた。お前の感情という変数を、考慮に入れていなかった、俺のロジックのミスだ」


それは、謝罪というには、あまりにも回りくどく、蓮らしい言葉だった。

だが、その言葉には、確かに、彼の誠意が込められていた。


陽が、ゆっくりと顔を上げる。

その瞳は、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれていた。

蓮が、自分に、頭を下げている。

その、ありえない光景を前に、陽は、ただ、言葉を失っていた。

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