閉じない迷宮──メトロポリス──

6月流雨空

第1話 呪いの箱

 【一年前】

 イッキの首筋にそっと指を這わせながら、カオリが囁く。その声は熱を含んでいながら、どこか冷えていた。


「……ねえ、イッキ。呪いの箱って、知ってる?」


 白い肌を撫でる手を止めずに、イッキは眉をひそめる。


「聞いたことない。どうせエログッズでもないんだろ」


 カオリは小さく笑った。でも、それ以上は何も言わなかった。声も、動きも、どこか遠かった。

 珍しい。いつもならもっと、息が荒くなるのに。


 カオリは最初に会ったときから、野良猫みたいに警戒心が強かった。身体を許しても、心の奥は見せない。

 そんな彼女の態度が、今夜はどうにも変だ。


 ──呪いの箱?


 その言葉だけが、じわりと胸に引っかかっていた。


 無視したつもりの言葉が、身体の奥に冷たい爪を立てる。


 カオリはシーツの中に身を沈め、背を向ける。そのまま、濡れた黒髪の隙間からこちらを振り返った。


 その眼差しは、まるで街灯の下でこちらを見つめ返す黒猫のようで──どこか、予兆を含んでいた。


「……カザミの家に代々伝わる呪物よ」


 低く告げられたその声は、温度を一度下げた。


「平安時代からあるって言われてる。本物の呪い。

 ……少しでも、乱したり、騒がしくしたら、殺される」


 そのときの声は、どこか甘えるようでいて、切実だった。


 イッキは思った。もしかしてカオリは、それを恐れているから……今夜は、自分を抑えていたのか?


 カザミ──風見茂。カオリの婚約者らしい。聞けば名家の御曹司で、偉そうにしてるとか……正直、よく知らない。


 イッキは呼吸の中に、鈍い違和感を感じて問い返す。


「……で? それがどうしたって言うんだ。……セックス中に出す話題とは思えないな」


 カオリはゆっくり瞬きをして、またこちらを見た。


 その視線には、まっすぐな意思が宿っていた。


「──あたし、たぶんカザミに呪い殺されると思うの」


 ゾクリ、と背筋が波打つ。それは寒さのせいじゃなかった。


 “殺される”という言葉。その響きが、どこか甘やかな棘となって心の奥を引っ掻いた。


 まるで自分の中の何か、理性の皮をかぶった獣が、ゆっくりと目を覚ますような感覚だった。胸が高鳴る。呼吸が浅くなる。なのに、肌の表面はひどく冷えていた。


 ──どうして、こんなふうに反応してる?


 快感に近い。ぞっとするほど、生々しい高揚。


 誰かが“殺される”。しかもそれが、自分の腕の中にいる女。


 想像したくないはずなのに、脳裏に描かれたその絵は、どこか美しさすら孕んでいた。


 違う、違う、俺は狂ってなんかいない。この異常が、カオリに伝わってしまう前に……。


 イッキは荒れた呼吸を隠すように、ベッドサイドのミネラルウォーターを掴んだ。


 手が汗ばんでいる。プラスチックの感触が滑る。


 無理やりキャップを開けると、ポキ、かすかに指先がきしんだ。


 冷たい水が喉を通る。その一瞬で、自分がまだ“正常”の側にいると信じたかった。


 けれど、内側では確かに何かが蠢いていた。静かに、けれど着実に――嗤っている。


 唇を濡らしながら、熱と冷えがせめぎ合う喉で、やっとのことで言葉を吐き出す。

 

「……は?」


「だから呪いの噂を広めたいの。この学園に、じわじわと。少しずつ……。

 もしもあたしが死んだら、誰かが気づいてくれるように」


 カオリの瞳がきらりと光を含む。


 よかった。彼女はイッキの異常な反応には気付いていない。しかし──


 自分の命を“物語の導火線”にしようとしている彼女に、イッキは言葉を失った。


「……おまえ、それ……」


「イッキ、手伝って。あなたならできる。噂を操ることも誰かを動かすことも得意でしょう?」


 耳元で囁く声は、甘い毒のようだった。カオリの瞳には、消えることのない影が宿っていた。これは、ただの怯えではない。運命に抗う者だけが持つ、冷たく研ぎ澄まされた意志だ。足の怪我は偶然ではない。自ら落とした価値、転校という逃避。


──そのすべてを飲み込んでもなお、彼女は生き残ろうとしている。イッキは息を止めてカオリを見つめた。


 彼女はここにいる。熱もある。けれど、すでに遠い。


 ──この女は、生きるために“死”を仕掛けている。


 だが、それはあくまで“呪い”と呼ばれる見えない暴力に抗うための、一時しのぎに過ぎない。


「呪いの噂を広めるのは協力する。でも……殺されない手段を考える方が先だろ?」


 イッキはそれが正論だと思っていた。だが。


 カオリは、ふっと笑った。懐かない野良猫のように、薄く、どこか皮肉げに。


 そしてまた耳元へと顔を寄せ、吐息まじりに言う──声の温度が、ひどく冷たい。


「あたしが死んだら……それが“呪い”のせいだって、みんなが気づく。きっと、誰かが真相を暴いてくれる。だからね、イッキ。──もしもあたしが、血を吐いて倒れても。──爪を剥がされ、目を潰され、何も言えなくなっても。その時は、“呪い”が始まったって、あなたに証明してほしいの。そして、もしも、あたしが──」


「殺させない。そのためにまず噂を一度だけ流す——カオリの名前を隠して」







☆☆☆

始めまして!もしくはお久しぶりです( *´艸`)


ちょうどいいコンテストがありましたので学園ミステリーコンテストに参加中でございます♪


少しでも面白いと感じてもらえましたら、ハートや☆で応援してくださると嬉しいです(*´▽`*)


毎日、朝の10時、夕方17時、夜の21時の三回更新していきますので、夏休みにホラーミステリーで納涼してくださいませ♪

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