019 第18話:襲撃の聖夜

 12月24日正午。冬の陽光が差し込む葬儀場は、線香の香りに包まれていた。


 鰐淵美桜の葬儀。14歳という若さで命を絶たれた少女を悼む人々が、静粛な空間に集っている。遺影の中の美桜は、生前の美しさをそのまま留めていた。しかし、デヴォラントにはその微笑みが虚ろに見えていた。


(手間をかけて仕上げた手駒を奪われたな)


 美桜への感情ではない。単純に、計算された投資を無駄にされたことへの苛立ちだった。


 デヴォラントは神崎優として参列者の間に立ち、冷静に観察を続けていた。会場には約80名程度の参列者が集まっている。美桜の両親、親族、そして同級生たち。誰もが沈痛な表情を浮かべ、若すぎる死を悼んでいた。


 鰐淵夫妻は憔悴し切った様子だった。父親は小さな建設会社の経営者で、普段は寡黙だが実直な人物として知られている。今日は黒いスーツに身を包み、時折肩を震わせていた。母親は専業主婦で、美桜を溺愛していた。赤く腫れた目で遺影を見つめ、時折小さくすすり泣いている。


(両親の悲しみは本物だ。愛情も本物だった。ならばなぜ、美桜はあのような歪んだ人格に育ったのか)


 デヴォラントは趙の心理学知識を駆使して分析する。愛情はあったが、それは盲目的な溺愛だった。美桜の問題行動を見過ごし、他者への残酷さを注意することもなかった。結果として、彼女は他人を見下すことでしか自己肯定感を得られない人間に成長していった。


 同級生たちの反応も興味深かった。


 龍牙とつるんでいた男子生徒たちは、明らかに動揺している。いじめグループの一員だった美桜の死により、自分たちの行為が社会問題として注目される可能性を恐れているのだろう。特に、SNS炎上事件の詳細を知る生徒たちは、内心で罪悪感を抱いているはずだった。


 女子生徒たちの反応はより複雑だった。美桜にいじめられていた生徒たちは複雑な表情を見せている。死を悼む気持ちと、これまでの恨みが混在した、整理のつかない感情を抱えているようだった。


 そして、教師たち。


 担任教諭は明らかに責任を感じている様子だった。SNS炎上後の美桜の変化を把握していたが、適切な対応を取れなかった。自分の指導不足が美桜の死に繋がったのではないかという自責の念に苛まれているのだろう。


 校長は保身を最優先に考えているようだった。美桜の死が学校の責任問題に発展することを恐れ、マスコミ対策や教育委員会への報告について頭を悩ませている。生徒の死よりも、学校の評判を心配しているのが見て取れた。


 デヴォラントは参列者の中に、不自然に緊張している人物を見つけた。


 30代の男性で、時折参列者の顔を観察するような視線を送っている。恐らく警察関係者かマスコミの人間だろう。


 美桜の死因について、公式には「刃物による刺殺」として発表されているが、犯人は未だ特定されていない。中学生が深夜の路地裏で殺害される事件として、社会的な関心も高い。捜査機関も本格的な捜査を展開しているはずだった。


(殺害手法から犯人像を推測する必要がある)


 デヴォラントは内心で分析を続ける。刃物による刺殺という事実から、いくつかの可能性が浮上する。


 第一の可能性は通り魔犯罪だった。深夜の路地裏という場所、14歳の少女という標的。無差別的な犯行として処理される可能性がある。だが、この場合はなぜ美桜が深夜の路地裏などという場所へ足を運んだのか疑問が残る。


 第二の可能性は、美桜に恨みを持つ者による犯行だった。SNS炎上により多くの人間から憎悪を向けられていた美桜。同級生、教師、近隣住民の中に、彼女へ恨みを抱いた人物がいても不思議ではない。だが、殺害に至るほどの理由には少し弱い気もする。


 そして最も警戒すべき第三の可能性——神崎優の関係者を狙った犯行だった。美桜がデヴォラントの支配下にあることを知っている何者かが、こちらの動揺を狙って美桜を殺害した可能性。もしこの仮説が正しければ、敵は既にデヴォラントの正体に迫っているかもしれない。


(最悪のケースを想定して行動すべきだ)


 デヴォラントは参列者を再度観察した。怪しい人物、不自然な行動、隠された意図。しかし、明らかに敵対的な人物は見当たらない。全員が一般的な参列者として振る舞っていた。


 葬儀が進行する中、デヴォラントは美桜の死について改めて考察していた。


 美桜は確実にデヴォラントの支配下に入っていた。依存関係は完璧に構築され、長期的な手駒として活用できる状態だった。それが何者かによって奪われた。単なる偶然の死ではなく、明確な意図を持った殺害だった。


(敵が存在するならば、次の標的は優の家族の可能性が高い)


 正午過ぎ、葬儀が終了した。


 参列者が三々五々と会場を後にする中、デヴォラントは最後まで残っていた。美桜の遺影を見つめながら、失った手駒への苛立ちを噛み締めている。


(次は失敗しない)


 葬儀場を出る際、デヴォラントは振り返った。美桜の死を契機として、より慎重で確実な戦略を練る必要がある。敵の存在を前提とした、新たな計画の立案が急務だった。


◆◆◆


 12月24日正午。


 蛇島龍牙は雑居ビル3階の薄暗い部屋で、復讐の機会を待っていた。


「ウルフ・イベント企画」の看板を掲げたこの場所は、半グレ集団BLACK WOLVESの本拠地だった。革張りのソファに座った龍牙の目には、憎悪の炎が宿っている。


「神崎……絶対に許ねぇ……」


 父親の建設会社の破綻、学校からの事実上の追放、社会的地位の完全な失墜。すべての原因が神崎優にあると龍牙は確信していた。根拠の乏しい思い込みだったが、追い詰められた14歳の少年にとって、それは絶対的な真実だった。


「おい、龍牙」


 構成員の一人が龍牙に声をかけた。山下という30代の男で、組織の実務を仕切っている人物だった。がっしりした体格で、顔には古い刀傷が残っている。元暴走族という経歴を持ち、現在は様々な違法行為に手を染めている。


「はい」


 龍牙は緊張した声で答えた。この1ヶ月弱の期間、BLACK WOLVESの末端メンバーとして危険な仕事をこなしてきた。麻薬の運搬、賭博場の見張り、借金取りの付き添い。14歳の少年には過酷すぎる現実だったが、他に行き場のない龍牙には選択肢がなかった。


「お前が恨んでるって言ってた神崎とかいうガキの件だが」


 山下の言葉に、龍牙の体が震えた。ついに復讐の機会が訪れるのか。


「社長が調べさせたところ、蛇島建設の破綻に神崎優が直接関わった証拠は見つからなかった」


 龍牙の顔が落胆の色に染まった。


「でも、な」


 山下が続けた。


「ここ最近、そのガキの様子が著しく変わってるって話だ。学校での態度、クラスでの立場、全てが以前とは別人のようになってる」


 龍牙も心当たりがあった。最後に学校で見た神崎優は、確かに以前の弱々しい姿とは大きく異なっていた。


「社長の直感だが、神崎優は蛇島建設破綻の件について何かを知ってる可能性がある。少なくとも、何らかの形で関わってるかもしれない」


 山下が龍牙を見つめた。


「だから今夜、神崎家を襲撃する。目的は神崎優の拉致と、ついでに金品の強奪だ」


「襲撃……」


「ただし、殺しはなしだ。あくまで情報を聞き出すのが目的だからな」


 龍牙は複雑な表情を見せた。神崎優への復讐を望んでいたが、殺害まではさすがに躊躇いがある。しかし、拉致して恐怖を与えることは可能だ。


「具体的にはどうするんです?」


「俺たち6人で神崎家に押し入る。家族全員を押さえつけて、金庫から現金と貴重品を奪う。そして、神崎だけを連れて行く」


 山下がメンバーの顔を見回した。


「相手は一般家庭だ。抵抗される心配はない。手早く済ませて撤収する」


「神崎をどうするんです?」


 龍牙が震え声で尋ねた。


「数日間どこかに監禁して、蛇島建設の件について知ってることを全部吐かせる。その後の処理は社長が決める」


 山下の説明は現実的だった。BLACK WOLVESにとって、この作戦は比較的リスクの低い情報収集の手段でしかない。龍牙の復讐心は、その過程で利用されるに過ぎなかった。


「お前の個人的な恨みも、その間に晴らせるだろうな」


「ありがとうございます」


 龍牙は頭を下げた。ついに神崎優に直接の復讐を果たせる。これまでの屈辱を全て返すことができる。


「作戦の詳細を説明する」


 山下が地図を広げた。


「神崎家は世田谷区の住宅街にある。2階建ての一戸建てで、周囲は他の住宅に囲まれている。セキュリティシステムは一般的なもので、俺たちの技術なら無力化は容易だ」


「侵入ルートは?」


「正面玄関からの強行突入。今夜はクリスマスイブで、家族全員が揃ってる可能性が高い。その隙を突いて一気に制圧する」


 構成員の一人が質問し山下がそれに答えていく。


「武器はナイフとバールが中心だ。拳銃は騒ぎが大きくなりすぎる」


 作戦会議が続く中、龍牙の心は復讐への期待で満たされていた。神崎優の恐怖に歪んだ顔、命乞いの声、そして完全な屈服。それらを想像するだけで、これまでの屈辱が少しずつ癒されていく感覚があった。


「作戦実行は今夜8時だ」


 山下が最終的な指示を出した。


 「全員、準備を整えろ。手早く済ませて、証拠を残さずに撤収する」


 龍牙は拳を握り締めた。復讐の夜がついに始まろうとしていた。


 あの忌々しい神崎優を完全に屈服させてやる。そうすれば、失ったものすべてを取り戻せるような気がしていた。




◆◆◆



 12月24日夕方。


 デヴォラントは葬儀から帰宅し、クリスマスディナーの準備が進む神崎家のリビングで、偽りの平和な時間を過ごしていた。


 暖炉には火が灯り、部屋全体を暖かなオレンジ色に染めている。大きなクリスマスツリーには色とりどりのオーナメントが飾られ、その下にはプレゼントの包みが並んでいた。ジャズのクリスマスソングが静かに流れ、聖夜にふさわしい穏やかな雰囲気を演出している。


「優、今日はお疲れさま」


 恵美が珍しく優しい声をかけてきた。葬儀に参列した優への配慮を示している。


「お友達を亡くすのは辛いことね。でも、きちんとお別れができて良かったわ」


 デヴォラントは適切に反応した。


「はい。美桜のことは忘れません」


(内心では何の感情も湧かないが、神崎優として期待される反応を演じなければならない)


 家族の前では、普通の14歳少年として振る舞う必要がある。


 正樹が仕事から帰宅し、家族全員が揃った。


「今日はクリスマスだからな。みんなでゆっくり過ごそう」


 正樹は普段よりも穏やかな表情だった。仕事の多忙さから解放され、家族との時間を大切にしようとしている。


 美沙がスマートフォンから顔を上げた。


「今日のディナー、インスタに投稿していい?」


「もちろん」


 恵美が微笑む。


「素敵な写真を撮ってね」


 花音がデヴォラントの隣に座った。


「お兄ちゃん、今日は大変だったね」


「大丈夫だよ」


 デヴォラントは花音の頭を軽く撫でた。この何気ない動作にも、計算が込められている。家族内での「優しい兄」という立場を維持するための演技。


 花音は他の家族と同様に、ごく普通の12歳の少女として振る舞っていた。美桜の死について悲しそうな表情を見せ、クリスマスプレゼントに対しても年相応の興味を示している。


 食事が始まると、家族の会話が弾んだ。


「優、最近学校ではどうだ?」


 正樹が久しぶりに優に関心を示した。


「以前よりも友達が増えました」


「それは良いことだ」


 恵美が嬉しそうに続けた。


「先生からも連絡があったのよ。最近、授業態度も良くなって、成績も上がってるって」


(実際、神崎優としての学校での地位は大幅に向上している。いじめグループの解体により、これまでの被害者という立場から脱却し、クラスメイトたちとの関係も改善している)


 正樹が感心したように頷いた。


「そうか。努力が実を結んでいるんだな」


「体育の時間も、以前よりずっと積極的になったって聞いたわ」


 恵美が優しく言った。


「何か始めたの? トレーニングとか?」


「少し体を鍛えるようにしました」


 デヴォラントは当たり障りない回答をした。


「優って、最近本当に変わったよね。前より自信があるみたい」


 美沙が興味深そうに聞いた。


(家族からの評価が変化していることを確認できた。これまでの内気で自信のない優から、より積極的で自立した印象へと変わっている)


「人は変わるものよ」


 恵美が優をフォローした。


「優も成長してるのね。私たちも、もっと優のこと見てあげるべきだったかもしれない」


 正樹も同意するように頷いた。


「そうだな。お前ががんばってることに、もっと気づいてやるべきだった」


 花音が小さく笑った。


「お兄ちゃん、最近本当に変わったよね。前よりもずっと頼りがいがあるみたい」


 家族の優への歩み寄りを感じながら、デヴォラントは内心で満足していた。神崎優としてのカモフラージュは順調に進行している。


「ありがとうございます。皆さんに心配をかけないよう、もっとがんばります」


 デヴォラントは話題を変えることにした。


「今日はプレゼント交換をするんでしたね」


「そうそう」


 美沙が嬉しそうに言った。


「私、今年は特に良いプレゼントを用意したのよ」


 家族それぞれがプレゼントを交換し始めた。正樹から恵美へは高級な腕時計、恵美から正樹へはオーダーメイドのネクタイ。美沙から花音へは可愛いぬいぐるみ、花音から美沙へは手作りのアクセサリー。


 そして、優へのプレゼントも用意されていた。


「優お兄ちゃんには、これ!」


 花音から優へのプレゼントは、手作りの写真立てだった。家族の写真が入る大きさで、丁寧に装飾が施されている。


「ありがとう、花音」


 デヴォラントは素直に感謝した。


 午後7時59分。家族団欒の時間は穏やかに過ぎていく。


 しかし、デヴォラントの超感覚が、微かな異変を察知していた。


(複数の人間が家の敷地内に侵入。武装確認。敵意あり)


 デヴォラントは表情を変えることなく、分子レベルの感知を拡張した。6名の男性。武装している。明らかに敵対的な意図を持っている。


 午後8時ちょうど。


 リビングの照明が一瞬点滅した。


「あれ? 電気の調子が悪いかしら」


 恵美が不思議そうに呟く。


 その時、玄関から微かな金属音が聞こえた。鍵を操作するような、かすかな音。


 デヴォラントは瞬時に状況を理解した。


「お父さん、今の音……」


 花音が不安そうに呟いた瞬間、玄関のドアが静かに開いた。


 6名の武装した男たちが、音もなくリビングに侵入してきた。


 先頭はがっしりした体格の男で、手にはバールを握っている。その後ろに続く5名も、ナイフや金属バットなどの武器を持っていた。全員が黒いジャンパーを着込み、顔の一部をマスクで隠している。明らかに友好的な訪問者ではなかった。


「動くな! 全員その場に座れ!」


 リーダー格の男が怒鳴った。


 家族は恐怖で硬直していた。正樹が咄嗟に家族の前に立とうとしたが、構成員の一人に肩を掴まれて押し戻された。


「余計な真似はするな」


 構成員のナイフが正樹の首筋に向けられる。


「か……か、金が欲しいなら……」


 正樹が震え声で言いかけた時、リーダ格がバールで応接テーブルを叩いた。ガラステーブルが粉々に砕け散る。


「黙れ! こちらの指示に従えば、誰も怪我はしない」


 恵美と美沙は抱き合って震えていた。花音も他の家族と同様に恐怖に怯えており、涙を浮かべながら優の袖を掴んでいた。


 デヴォラントは冷静だった。


(6人。リーダーは元軍人、もしくはそれに準ずる者の可能性が高い。動きに訓練された者の特徴がある)


 王の戦術知識により、敵の戦力と配置を瞬時に分析する。


(武器はナイフとバールが中心。拳銃は持っていない。この人数と装備なら、制圧は困難ではない)


 しかし、家族の安全を考慮する必要がある。


(とはいえ、それは今後の利用価値を考えてのことだ。神崎家のリソースを失うわけにはいかない)


「神崎優はどいつだ?」


 リーダー格が家族を見回した。


 その時、龍牙がリーダーたちの後ろから姿を現した。


「あいつです」


 龍牙がデヴォラントを指差す。その顔には憎悪と歓喜が混じった醜悪な表情が浮かんでいた。


「お前が神崎優か」


 リーダー格がデヴォラントに近づく。


「俺たちに恨まれる覚えはあるだろうな」


 デヴォラントは龍牙を見つめた。


「蛇島龍牙……馬鹿な真似を」


「うるせえ!」


 龍牙が金切り声を上げた。


「お前が俺の人生を滅茶苦茶にしたんだ! お前のせいで父さんの会社は潰れて、俺は学校にもいられなくなった!」


 根拠のない逆恨み――ではないが、龍牙にとっては絶対的な真実だった。


「全部てめぇのせいだ! だから今度は、お前の家族を滅茶苦茶にしてやる!」


 山下が手を挙げて龍牙を制した。


「個人的な恨みは後だ。まずは仕事を片付ける」


 山下は正樹に向き直った。


「神崎正樹。金庫の在り処を教えろ。それと貴重品も全部出してもらう」


 正樹の顔が青ざめた。


「分かった……家族に怪我だけはさせないでくれ」


「それと、この神崎も一緒に連れて行く」


 デヴォラントを指差す。


「俺を? 身代金目的か?」


「それが最初の予定だったんだが……」


 山下が他のメンバーと視線を交わした。


「やっぱり誘拐はリスクが高すぎる。警察の捜査も厳しくなるし、隠れ場所の確保も面倒だ」


 構成員の一人が頷く。


「龍牙の馬鹿が顔さらしちまったからな。後で証言されたらヤバい」


 リーダー格が冷酷な笑みを浮かべた。


「方針変更だ。全員始末する。死人に口なしってやつだ」


 その言葉に、家族全員の顔が青ざめた。


「や、やめてくれ……」


 正樹が震え声で懇願した。


「金は払う……いくらでも払うから……」


「うるせぇ」


 リーダー格がナイフを取り出した。


「悪く思うなよ」


 恵美が悲鳴を上げ、美沙が泣き崩れる。花音も恐怖で震えながら、優の袖を強く掴んでいた。


 デヴォラントの中で、計算が瞬時に完了した。

 このままでは神崎家のリソースが完全に失われる。それは絶対に避けなければならない。


(やむを得ないか)


〈状況ヲ設定。エネルギーリソースヲ5%消費シ、身体能力ノ一時向上を実行〉


 デヴォラントの身体能力が人間の限界を遥かに超えて向上し始めた。筋力は人間の10倍、反射速度は20倍に強化される。


「じゃあパパさん、まずはお前からだ」


 リーダー格が正樹に向かってナイフを振り上げた瞬間――


 デヴォラントが動いた。


 人間の目には完全に見えないスピードで背後に回り込み、手刀で首筋を打つ。リーダ格の男は何が起きたかも理解できないまま、床に崩れ落ちた。


(家族の前だ。殺害は避ける。無力化に留めよう)


「山下さん――!?」


 他のメンバーが反応する前に、デヴォラントは既に次の標的に移動していた。


 構成員のナイフを握る手首を掴み、人間の握力を遥かに超える力で締め上げる。骨が軋む音と共に、男が苦悶の表情で武器を落とした。意識を奪うのではなく、戦闘不能にするだけに留める。


「なんだこいつ……」


 3人目のメンバーがデヴォラントに金属バットを振り下ろしたが、バットは空を切る。デヴォラントは既にその場にはおらず、男の背後に立っていた。


 趙の解剖学知識に基づいて神経を軽く圧迫し、一時的に動きを封じる。完全に意識を奪うのではなく、数分間の麻痺状態にするだけだ。


 残る3名のメンバーは完全にパニック状態だった。


「こいつ素人じゃねぇ!」


 デヴォラントにとって残りの3名は既に無力な存在だった。戦術知識により、最適な制圧ルートが瞬時に計算されている。


(家族が見ている。あまり残酷な光景は避けるべきか)


 1分後、6名全員が床に倒れていた。


 全員が生きているが戦闘不能状態。デヴォラントが神経と関節を正確に攻撃し、家族の精神衛生に配慮して殺害ではなく無力化を選んだ結果だった。


 家族は呆然とその光景を見つめていた。


「優……」


 正樹が震え声で呟いた。


「お前、いつからそんな……一体どうして……」


 つい先ほどまで、家族みんなで優の成長を喜び合っていた。体を鍛えていること、成績が上がったこと、友達ができたこと。それがまさかこんな……。


 デヴォラントは振り返った。もはや神崎優らしいおどおどした態度は微塵もない。


「最近、色々と変わったんです」


 その口調は冷静で、14歳の少年のものとは思えない威圧感を含んでいた。


「あなた、本当に優なの? さっきの動き……普通じゃない……」


 恵美が震えながら呟く。

 美沙も恐怖に震えていた。


「優……一体どうしちゃったの……こんなの初めて見た……」


 さっきまでの家族団欒の温かさと、目の前の息子の異常な戦闘力。その落差に、家族は完全に混乱していた。


 家族の恐怖反応を見て、デヴォラントは内心で「やりすぎたか」と感じていた。


 その時、気絶していたリーダー格――山下が意識を取り戻し、最後の力を振り絞って立ち上がった。


「この化け物め……」


 山下が隠し持っていた小型ナイフを取り出し、近くにいた花音に向かって飛びかかる。


「花音!」


 デヴォラントが反射的に動いたが、山下は花音の腕を掴んで人質にしていた。


(やはり殺しておくべきだったか。家族への配慮が判断を甘くした)


 デヴォラントの脳裏に後悔が走る。家族の精神衛生を考慮して無力化に留めたことが、この結果を招いた。


「動くな! 動いたらこいつを殺す!」


 山下がナイフを花音の首に向けてデヴォラントを牽制している間、他の構成員たちも意識を取り戻し始める。


「そうだ! こいつを人質に取れば――」


 構成員の一人が立ち上がり、花音を抱きかかえた。


「ガキを連れて撤収だ!」


 花音は恐怖で震えながら、男に抱きかかえられていた。


「お兄ちゃん! 助けて!」


 純粋な恐怖の叫び声だった。


 デヴォラントは一瞬躊躇した。花音を救うためには、より大胆な能力使用が必要になる。しかし、それは正体発覚のリスクを格段に高めることになるだろう。


「動くんじゃねぇ!」


 龍牙が興奮した声を上げる。


「このガキに何かされたくなけりゃ、大人しくしてろ!」


 構成員たちは花音を盾にして、出口に向かって移動し始めた。


「お前らも、変な真似はするなよ」


 山下が正樹たちを威嚇する。


「この子の命が惜しければな」


 デヴォラントは計算を続けていた。


(花音を人質に取られた状態では、能力を使うリスクが高すぎる)


 しかし、花音を見捨てることはできない。神崎優としての立場上、義妹を見殺しにはできない。花音は神崎家の重要なリソースの一つだった。


「待て」


 デヴォラントが声をかけた。


「花音を離せ。俺が代わりに行く」


「優しい兄貴だな」


 山下が冷笑する。


「だが、この子の方が扱いやすい。大人しく諦めろ」


 構成員たちは花音を抱えたまま、玄関に向かって後退していく。


「お兄ちゃん!」


 花音の叫び声が響く中、デヴォラントは苦渋の決断を強いられていた。

 この場で能力を全開にすれば、花音を救うことは可能だ。しかし、家族の前で人間離れした戦闘を展開すれば、神崎優としての立場は完全に破綻する。


 (長期的な戦略を優先すべきか、花音の安全を優先すべきか)


 デヴォラントは冷酷に計算を続けていた。花音は神崎家において重要なポジションにいる。家族内で最も愛され、将来的にも大きな影響力を持つ可能性がある人材だ。この貴重なリソースを失うわけにはいかない。


「くそ……」


 デヴォラントが呟いた瞬間、構成員たちは玄関を出て行った。


 花音の叫び声が徐々に遠ざかっていく。


 リビングには沈黙が訪れた。


 正樹、恵美、美沙は呆然とその光景を見つめていた。息子の異常な戦闘能力、そして娘の拉致。あまりにも非現実的な出来事に、思考が追いついていない。


「け、警察に……」


 最初に我に返ったのは父親である正樹だった。


「警察に通報するのは、やめておけ」


 デヴォラントの声に、有無を言わさぬ威圧感が込められていた。


「な、なぜ……?」


「警察が動けば花音の身に危険が及ぶかもしれない」


「それはそうだが……しかし」


「俺が花音を取り戻す」


 デヴォラントの声には、確固たる意志が込められていた。


「お前たちは朝まで待て。俺たちが戻らなかった場合のみ、警察に通報しろ」


「そんな、危険すぎる……」


 恵美が震え声で反対しようとした時、デヴォラントが冷たい視線を向けた。


「俺がどれだけの力を持っているか、さっき見ただろう。6人の武装した男を一人で倒した」


 その事実を突きつけられ、家族は言葉を失った。


「俺に任せろ。それが一番確実だ」


 美沙が泣きながら言った。


「でも……もし何かあったら……」


「心配するな」


 デヴォラントは振り返ることなく玄関に向かった。


「俺は、もう昔の優じゃない。何があっても生きて帰ってくる」


 その言葉には、深い意味が込められていた。


 神崎優ではなく、デヴォラントとしての絶対的な自信。


「お前たちは俺が帰るまで、誰にも何も話すな。特に警察には絶対に連絡するな」


 家族は完全に服従していた。デヴォラントはあえて今までの優としての口調を捨てることで、混乱した家族を支配したのだ。


「理解したか?」


「わ、分かった……」


 正樹がかろうじて答えた。


 デヴォラントは玄関を出て、夜の闇に消えていった。


 家族は放心状態でリビングに取り残された。息子の正体への疑問と恐怖、そして娘の安否への不安。誰も口を開くことができなかった。


〈感覚ヲ最大限ニ拡張。追跡開始〉


 デヴォラントの感覚が人間の限界を遥かに超えて拡張される。6人の男性、1人の少女。金属の匂い、恐怖の匂い。


 痕跡は住宅街から市街に向かって続いていた。


(車両を使っている。移動速度が速い)


 しかし、デヴォラントにとって追跡は困難ではない。分子レベルでの感知により、数キロメートル先まで痕跡を辿ることができる。


 12月24日、午後9時。


 聖なる夜は、血塗られた追跡劇の始まりとなった。


 デヴォラントは夜の街を駆け抜けながら、内心で誓っていた。


(俺の計画を邪魔するものは、誰であろうと許さない)


 もはや神崎優としての体面を保つ必要はない。


 怪物デヴォラントとしての本性を解放し、敵を完全に殲滅する。


 狩りが始まった。

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