DEVOURANT ――異星粘体に憑依した男、世界を喰らう

陽斎

000 プロローグ:絶望の果て

 雨が男の顔を打った。


 青木ヶ原樹海の奥深く、彼は立っていた。手には一本のロープ。首にかける用の。


 38年間。それがこの男の人生の長さだった。


 思い返せば、何一つ良いことなどなかった。両親は彼が幼い頃に事故死。親族たちは保険金だけ奪って、彼を施設に放り込んだ。必死に勉強して、必死に働いて、それでも非正規雇用が限界だった。


 そして最後の一撃。セクハラの冤罪。


 彼は何もしていない。同僚の女性に挨拶しただけだ。それなのに「気持ち悪い視線を向けられた」「不快な思いをした」という理由で解雇された。


 弁護士を雇う金もない。戦う手段もない。


 ただ黙って消えるしかなかった。


「もう疲れた」


 男の呟きは雨音にかき消される。誰も聞いていない。誰も彼のことなど気にかけていない。


 ロープを木の枝にかける。首に輪を作る。


 いっそ清々する。これで終わりだ。38年間の惨めで無意味な人生が。


◆◆◆


 6歳の誕生日。両親が買ってくれたケーキを前に、みんなで笑っていた記憶。その翌月、父親の運転する車が対向車と正面衝突した。父は即死、母は病院で三日間意識不明のまま息を引き取った。


 葬儀の席で、叔父たちが囁き合っていた声が聞こえた。


『保険金は三千万か』

『ガキの養育費を差し引いても、結構な額だな』

『施設に預ければ、月十万程度で済む』


 翌週、男は児童養護施設に送られた。叔父は月に一度、義務的に面会に来るだけだった。施設での生活は決して恵まれたものではなかった。年上の子供たちからのいじめ、職員たちの冷淡な態度、そして何より、なぜ自分だけがこんな境遇なのかという理不尽さへの憤り。


 18歳で施設を出た時、男の手元には雀の涙ほどの生活費しか残っていなかった。保険金の大部分は「養育費」という名目で叔父たちが使い込んでいた。法的に争おうにも、証拠もなければ金もない。


 高校は奨学金で何とか卒業したが、大学進学は諦めざるを得なかった。就職活動では学歴の壁に阻まれ、正社員として採用してくれる企業は皆無だった。


 コンビニのアルバイト、工場での派遣労働、引っ越し業者の日雇い。転々とした職場で、男はひたすら耐え続けた。いつか状況が好転することを信じて。努力すれば報われると信じて。


 しかし現実は残酷だった。景気が悪化すると真っ先に切られるのは非正規雇用者。男は何度も職を失い、その度により劣悪な条件での仕事を探さなければならなかった。


 30代になっても状況は変わらなかった。むしろ年齢を重ねるごとに就職は困難になった。企業は若い労働力を求め、30代の未経験者など眼中にない。


 最後の職場は小さな印刷会社だった。社員10名程度の零細企業で、男は契約社員として事務作業を担当していた。給料は安かったが、なんとか生活していけるだけの収入はあった。


 男はその会社で3年間働いた。真面目に、文句を言わずに。上司に理不尽に怒鳴られても、同僚に馬鹿にされても、ひたすら耐えた。


 そして、あの日が来た。


 朝、いつものように出社すると、総務の女性社員——田村という名前だった——が人事部長と話をしていた。男が挨拶をしようと近づくと、田村が顔をしかめた。


『おはようございます』


 男の挨拶に、田村は露骨に嫌悪感を示した。


『……おはようございます』


 その午後、男は人事部長に呼び出された。


『君にはセクハラの疑いがかかっている』


『え?』


『田村さんから相談があった。君が彼女に不快な視線を向けている、と』


『そんなことは——』


『彼女は毎朝、君の挨拶を恐怖を感じながら受けていたそうだ』


『ただの挨拶ですよ。僕は何も——』


『君の主張は分かった。しかし、被害者がそう感じている以上、会社としては対処せざるを得ない』


 翌日、男は解雇を言い渡された。


『円満退職という形にするから、セクハラのことは表沙汰にしない。これは会社の温情だ』


 温情?


 男は何も悪いことなどしていない。ただ、朝の挨拶をしただけだ。それが「セクハラ」だというのか。


 しかし、争う術はなかった。労働審判を起こすにも金がかかる。弁護士を雇う余裕もない。そして何より、「セクハラ加害者」という烙印を押されれば、次の就職はさらに困難になる。


 男は黙って会社を去った。


◆◆◆


 その後の半年間、男は必死に就職活動を続けた。しかし、38歳で職歴に空白のある男を雇ってくれる会社など、どこにもなかった。貯金は底を尽き、家賃の支払いも滞るようになった。


 アパートを追い出された男は、ネットカフェで寝泊まりするようになった。日雇いの仕事を探しても、年齢制限に引っかかることが多い。体力勝負の現場では、若い労働者が優先される。


 最後の望みをかけて、男は区役所を訪れた。生活保護の相談窓口。


「生活保護の申請をしたいのですが」


 窓口の職員は男を見上げた。40代の女性で、疲れきった表情をしている。


「お仕事は?」


「現在、求職中です」


「38歳でいらっしゃいますよね。まだお若いですし、働けるでしょう。もう少し頑張って仕事を探してみてください」


「でも、もう半年以上探しているんです。貯金も——」


「ハローワークには通われていますか?就職活動の記録はありますか?まずはそちらをきちんとやってから、もう一度お越しください」


 窓口は、そのまま閉じられた。


 もう少し頑張れ。働ける。まだ若い。


 どこが若いのか。どうやって働けというのか。頑張らなかった日が一日でもあったか。


 その夜、男は青木ヶ原樹海行きのバスに乗った。


 もう、何もかもが嫌になった。努力しても報われない人生。理不尽な扱いを受け続ける毎日。そして、誰一人として自分を理解してくれない世界。


 樹海の入り口で、男は警告看板を見た。


『自殺を考えている方へ 一人で悩まず相談してください』


 相談?誰に?何を?


 男は看板を無視して、樹海の奥へと歩いていった。


 1時間ほど歩いて、人の気配が完全になくなった場所で、男は立ち止まった。太い木の枝に、持参したロープをかける。


 雨が降り始めた。冷たい雨粒が顔に当たる。


 この雨が、俺の人生を洗い流してくれるのか。


 男は首にロープの輪をかけた。足場にしている石を蹴れば、全てが終わる。


 38年間の惨めな人生が。


 足場にしていた石を蹴ろうとした、その時だった。


 空が光った。


 雷?いや、違う。何かが落ちてくる。隕石のような、しかし隕石にしては小さすぎる何かが。


 男の頭上めがけて。


「何だ—————」


 衝撃。


 男の身体が弾け飛んだ。痛みすら感じる間もなく、意識が闇に沈む。


 最後に見たのは、彼の血と肉片に混じり合う、不気味な銀色の粘体だった。


 それは、地球上のいかなる物質とも異なる、異星からの来訪者だった。


 そして今、この生命体は人間の意識と融合しようとしていた。


 38年間の怒り、恨み、絶望。それらすべてが異星の技術と結びついた時、この世界にとって最も危険な存在が誕生することになる。


 男は死んだ。


 だが、『彼』の物語は、今始まったばかりだった。


◇◇◇


 そして■■は、目覚めた。


 いや、目覚めたというのは正確ではない。意識を取り戻した、と言うべきだろう。


 身体がない。手も足も胴体もない。しかし確実に意識は存在している。


 これまで感じたことのない、不思議な感覚だった。視覚はないのに周囲の状況が「見える」。聴覚はないのに音が「聞こえる」。それは人間の五感を超えた、全く新しい知覚システムだった。


 この場所には、何かが満ちていた。見えない「何か」が空気の中に漂っている。それは悲しみのような、絶望のような、怒りのような——言葉では表現できない感情の残滓だった。


〈起動シマス。生体データノ取得ヲ開始シマス〉


 頭の中に響く声。機械的で、感情のない声。


 ■■は混乱した。これは一体何なのか?自分に何が起こったのか?


〈エラー。予期セヌ意識体ヲ検出。統合ヲ試行シマス〉


 何が起きているのか?


 ■■の意識の中に、断片的な情報が流れ込んできた。自分に衝突したものの正体。それが地球のものではないということ。そして、何らかの異常が起きているということ。


〈統合完了。新タナ個体トシテ機能ヲ開始シマス〉


 気がつくと、■■は漠然と理解していた。


 自分はもう、人間ではない。


 38年間溜め込んだ怒りと絶望が、得体の知れない何かと結びついた。それが今の■■だった。


 この新しい存在として、■■は何ができるのか。どんな力を持っているのか。それはまだ分からない。


 ただ一つ確実に言えることがある。


 もう二度と、無力ではいられない。


 ■■は新しい存在としての第一歩を踏み出した。


 この樹海に漂う無数の絶望の「何か」が、■■の怒りと共鳴しているのを感じながら。




◇◇◇





 政府による現地調査は迅速だった。


 異常な電磁波反応を検知した気象庁からの報告を受け、防衛省は即座に調査チームを派遣した。青木ヶ原樹海で発生した「異常現象」は、最高機密として扱われることになった。


 現場には、自殺者の痕跡はすでに風に消え、焦げ跡の中央に残された「黒い塊」がすべてだった。


 直径約2メートルの円形に焼け焦げた地面。その中心部に、金属光沢を持つ黒銀色の物質が存在していた。大きさは人間の頭部程度。表面は滑らかで、まるで液体が固まったような質感だった。


 周囲の放射線反応と重力波観測データにより、この物質は明らかに地球外由来のものと判断された。ガイガーカウンターは微弱ながら確実に反応を示し、重力波検出器は物質の周囲で時空の歪みを観測していた。


 調査チームのリーダーである田島一佐は、慎重に物質の観察を続けた。


「これは間違いなく地球外物質だ。隕石ではない。人工的に製造されたものの可能性が高い」


「生物の可能性は?」


 田島の部下が尋ねる。


「否定できない。むしろ、その可能性の方が高いかもしれない」


 表向きには「小規模な隕石落下」として処理され、報道関係者や一般市民への情報は厳重に管制された。しかし政府内部では、この発見の重要性が即座に認識された。


 内閣官房長官の指示により、極秘裏に青木ヶ原樹海の地下に日米合同の超機密研究施設が建設されることになった。工事は24時間体制で進められ、わずか2ヶ月で地上地下5階建ての巨大な研究施設が完成した。


 表向きは「気象観測所」として偽装されたこの施設には、世界最高水準の研究設備が投入された。生物学、物理学、化学、医学、工学、心理学——あらゆる分野の専門家が招集され、この未知の物質の解析に当たることになった。


 施設の最重要エリアである地下3階の観察室に、■■は移送された。厚さ20センチの特殊合金製の壁に囲まれ、あらゆる種類のセンサーで監視される環境。


 ファイルには、こう記録された。


『標本1号。地球外由来の知的生命体の可能性あり。危険度:未知。取り扱い注意レベル:最高』


 だが、研究者たちは知らなかった。


 彼らが「標本」と呼んでいる存在が、実は人間の憎悪と異星の技術が融合した、この世で最も危険な捕食者だということを。


 そして■■もまた、自分がどれほど恐ろしい存在になったのかを、まだ完全には理解していなかった。


 しかし、それを理解する時は、すぐに訪れることになる。

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