参 緋紅ーひべにー
◯
目を覚ますと、畳の上で寝ていたようだった。硬い木枕の冷えた感触が肌に心地よい。随分と酷い悪夢を見ていたような気もするが、思い出せない。まぁ、思い出した所で悪夢だ。良い思いなどあるはずも、きっと無いんだろうけれど。
それに、脳に直接冷水をかけられたみたく頭がキンキンと痛む。寝起きに、突如襲った痛みに
「これはまた随分と早い目覚めだね。その様子、恐怖は夢の中にまで迫ってきたみたいだ。」
先の畦道で聞いた女性のような、男性のような低い落ち着いた声。魅惑的だ。この人が、此処まで運んでくれたのだろう事は想像に固くなかった。部屋の中は廊下も含め薄暗く、電灯らしいものは見えない。
周囲を照らすのは、寝ていた畳間の四ツ端に置かれた蝋燭の火と帳台に置かれた
周囲を見回した所、小屋のような建物らしく広さはあまり無く、そして寂れている。そんな偉く古風なその様相に、なんだか不思議な気分になった。
身を起こすと少し
「おや、もう行くのかい?君に読んでほしいと袖を引いた物語を取り出してきた次第なんだが。まぁ本来なら君の
その声は、何処か嬉しそうだ。
部屋の薄暗さに目が慣れてきたのか、部屋の…いや店の全体を目が映す。廊下の両側。鎮座する本棚に、積まれ並ぶ巻物。一風変わってはいるけれど多分書店か何かなのだろう。乏しい頭でひねり出した憶測に過ぎないが。そして、1つの巻物を抱えて
帳台に置かれた行燈の奥、ゆったりと歩いて来るその人の姿が明りに照らされ足元から影が剥がれ落ちていく。黒く細身のスキニーと股下まである白いオーバーなYシャツ。両の腿当たりで靡いているのは黒鳳蝶が数多彫られたカーディガン。
そして、顔まで見えたその人は線の細い中性的な白銀の美人だった。美少年と言っても通るだろう。カランと下駄を脱ぐ音が微かになり、黒く薄い足袋が畳を擦る。
帳台に1つの巻物を置く。
その巻物は、それ自体が光っているように見てた。凄く綺麗な色だった。黄色い淡い光を放つ巻物の質感は重い。まるで鉄を薄く伸ばして巻いたような質感だ。
見惚れて、凝視していた私の姿は、光に群がる虫のようにその店主らしき人物には見えたのだろう。巻物を置いて此方に手招きをした。
「その色はね
そう言って店主が帳台に絵巻を広げる。そこには一人の人間を囲み叩く人々や、面を被った化物。縛る鎖に、地を叩く豪雨と荒れる河川。
闇夜に数多浮かび、光を放つ鬼灯などが描かれていた。見るに堪えない、趣味の悪い絵ばかり続く絵巻だったが、最後の絵に描かれていた人物に私は見覚え、というより見慣れたものを感じていた。
見入っていると、雨の音が激しさを増して私の耳を打つ。夕刻の小雨が、今になって豪雨に変わったようだった。
「うわ、雨脚が強くなってきましたね。どうしよう、無事帰れるか不安だな。」
そう思わず口をついて、不安を漏らすと、店主が言う。
「そうだね。恐らくあの子が徘徊しているためだろう。繋がっている血筋の糸を引き、誘き寄せられた君だ。今、外を歩くことはあまりお勧めしない。繋げてあげよう。」
一瞬なにを言っているのかわからなかった。けれどあんな獣が本当にいる程だ。
にしても”徘徊しているあの子”と言うのが先の。巷で噂されているそして私の袖と目を
それに先程は雰囲気に呑まれ、不気味に流され、気にも止めなかった、気にする余裕も無かったがこの店主、祖母の存在のみならず私の家系。阿久津家の歴史を初め今に至る経緯の殆どを知っている風な口ぶりだった。
本当に、何者なのだろう。欺瞞や疑念が沸々と湧いてきてはいるけれど、聞く余裕も、勇気も今の私には無い。店主に対して意識を、興味を向けることはやめたほうが良いと心底にある理由のない怯えが激しく警笛を鳴らしていた。それはもう本能に近い恐怖だった。
本来、失礼な邪推だと言われても否定は出来ない身勝手な思考に拍車がかかっていた私ではあったけれど、それを知ってか知らずか。されど無事帰してくれるなら是非もないと思い素直に提案に従った。
此処、恐らく古書店の店主にも言われたように元は、私の家系に深く関わりのある物語が綴られたこの巻物は本来祖母が取りに来る予定だったらしいから変わりに巻物を手に取り、店主に付いて廊下を歩き硝子戸の前に行く。
毛先が銀色に光を纏う、狼を思わせる髪は艶があり綺麗だ。歩くたびに微かに揺れる黒髪から覗く項と後ろ姿は妖艶の言葉をあててまだ足りぬ程の魅力があった。すると店主は、真横に吊り下げられていた特別古い巻物を手にとって、硝子戸の上に掛け、スルスルと地面まで垂らす。
中はなにも描かれていない。まっさらだ。質感は紙、というより羊皮紙のような
其処に、いつ持っていたのかわからない。左手に高価そうな硝子ペンが握られていた。その硝子ペンを徐ろに持ち上げた先、一匹の黒鳳蝶が硝子戸に止まっていた。その黒鳳蝶の羽にペン先を付けた途端。
黒鳳蝶がペンに吸い取られるように溶けて消えた。硝子ペンの月が彫られた球の部分が黒い
古語なのだろうか、なんと書いてあるかはまるで読めなかったが、偉く達筆で綺麗な字だと見惚れた、私はお気楽者なのだろうか。
すると、扉の奥で硝子を叩いていた雨が止み、一面がどす黒い闇を写す。店主が硝子戸を引いた。
「少し恐ろしく感じるだろうけれど、大丈夫。
本来、人が歩く道ではない。と怪しい一言が付け加えられたが、店主本人、いやこのお店自体充分怪しいのでもう言う事も、思う事も無い。
にしても、そうは言われても恐ろしい。尻込みして足を前に進める決意が決まらないでいると側から甘い紫煙が漂ってくる。
その匂いに誘われ一度深呼吸をした。甘い匂いが頭を包み謎の安心感が心を満たす。少し痺れるような感覚が頭と感覚を麻痺させる。
流れのまま足を踏み出し、蠢く闇に身を投げた瞬間。私は雨に打たれ、家の玄関の前に立っていた。
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