第25話 朝の残響
吐息が浅く、乱れた呼吸が夜気に白く滲んで消えていく。
篠森は、胸の奥を指で掴まれたような虚脱感に膝を折りそうになりながら、辛うじて立っていた。肩は細かく震え、血の気が引いた頬に、汗だけがじっとりと残っている。
彼の前で、栞は動かなかった。ナユタに抱きしめられたまま、痙攣するように肩を揺らしている。唇の端にわずかな赤が滲み、その赤は、わずかな呼吸とともに艶を帯びて消えていく。
血の味――それは、契約の証として体内を巡るマナと共に、彼女を確実に異なる存在へと押しやっていた。
クラウディアは、その様を何の感情も浮かべずに見下ろしていた。
わずかな風が乱れた銀糸のような髪を揺らすたび、光のない瞳の底に、契約を見届ける冷たい確信が沈んでいる。
レニは篠森の側に膝をつき、布片を引き裂いて首筋を押さえた。傷口からじわりと滲む熱は、篠森の意識をかろうじて現実に繋ぎとめる。
足元の床には、先ほどまで明滅していた魔法陣の輪郭が黒い焦げ跡として残り、そこからかすかに焦げた薬草と鉄の匂いが立ち上っていた。儀式の奔流が残した、熱と匂いと虚無。
それらが静まり、ようやく場の空気が一つに収束する。
「……儀は果たされた。」
その声は、耳元で囁かれたわけでもないのに、やけに近く感じられた。クラウディアの口調には感情の揺れがなく、淡々としたその響きが、かえってこの場の不可逆さを際立たせる。
ナユタが腕に力を込めると、栞は小さく息を呑み、ようやく動いた。
振り返ることはせず、ただ篠森の方を一瞬だけ横目で見て――その瞳の奥に宿った、言葉にならない何かが、篠森の胸の奥を焼いた。
栞は静かに立ち上がった。
足元の砂利の一粒一粒が、足裏を通じて脳まで響く。
吐く息の湿り気、石壁に反射する自分の心音──すべてが鮮明にすぎて、落ち着くという行為そのものが遠ざかっていた。
彼女の視線がゆらぎ、やがて遠くを凝視する。それは目に映る全てが、ひどく細かく、そして鋭く迫ってくるからだった。
篠森はその変化を、黙って見つめていた。
さきほどまで自分の血を吸っていた相手。
その吐息がまだ肌に残っている気がする。
それでも彼は、声が震えないよう努めて口を開いた。
「……歩けそうか」
その響きは、思った以上にか細く、掠れていた。
クラウディアは一歩進み、栞を頭から足元まで視線でなぞる。
「……安定しているわね」
その声は冷ややかに聞こえるが、実際にはわずかな安堵が混ざっている。
続けざまに、彼女は隣に控えるレニへ身を寄せ、低く何事かを囁いた。
レニは軽く片眉を上げ、短く「了解」と答える。
クラウディアはそのまま、白磁のような顔にうっすらと笑みを浮かべた。
「──朝は苦手なのよ」
軽口とも、別れの合図とも取れる一言を残し、彼女は足元の空間を割いた。
裂け目の向こうから流れ込む冷たい闇に、その身を滑らせるように消える。
ザンビはすぐさま周囲に目を配った。
朝の淡い光が、崩れたノクターンの内部に細い筋を描いている。
遠くで瓦礫が崩れる音──敵の残滓か、それともただの余波か。
「……油断はできん。残り火がどこに潜んでいるかわからない」
低い声が場を引き締めた。
レニが小さく手を叩いた。
「さて、お開きにしましょうか。俺、これ以上は土埃で顔が台無しになっちゃう」
言葉の軽さとは裏腹に、その視線は一瞬たりとも仲間から外れない。
彼は栞に視線を送り、次いで篠森、そしてザンビを順に見回しながら、
「──行こう。ここから先は俺が案内する」
そう言って、崩れかけた廊下へと歩みを進めた。
朝の光が、ゆっくりと足元の血溜まりを薄めていく。
しかしその匂いだけは、まだ誰の鼻からも離れなかった。
***
目を開けた瞬間、白い天井がぼんやりと視界を覆った。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
潮の匂いも、焦げた埃の匂いも、血の鉄臭さも――何一つ漂っていない。
静かすぎる。
重たい体をわずかに横へ傾けると、すぐ近くに栞が座っていた。
膝を抱え、ベッドの縁に背を預けている。
髪は昨夜よりも艶やかで、肌は透き通るように白い。
それでも、その眼差しにはどこか幼い迷いが宿っていた。
「……起きた?」
栞が声をかけた。囁くような、小さな声だった。
「……ああ」
篠森は息を整えながら、上体をゆっくり起こす。
体の芯に残る倦怠感は、昨日の戦いのせいだけではない。
首筋に残る鈍い疼きが、昨夜の出来事を思い出させる。
「無理……させたな」
言葉を探すように吐き出すと、栞はかすかに首を振った。
「私のほうこそ……。あんなこと、したくなかった」
その言葉の途中で、彼女の視線が伏せられる。
篠森はしばし言葉を失い、その横顔を見つめた。
港の倉庫での光景が脳裏をよぎる。
渦巻くマナ、血環の輝き、そして最後に襲ったあの渇き――。
「もう……落ち着いたのか」
問いかけると、栞は一拍置いてから答えた。
「……たぶん。でも、完全じゃない。あの時……自分が自分じゃなくなる感じがして……怖かった」
篠森は小さく笑った。
「そりゃ、俺も怖かったさ」
自嘲の響きが混じる。それを聞いて、栞はふっと口元を緩めた。
沈黙が落ちる。
窓の外では、薄い雲がゆっくりと流れていた。
遠くで船の汽笛が鳴る。ここが海辺の街であることをようやく実感する。
「……ありがとう」
唐突に栞が呟いた。
「昨日……私、あのままだったら……」
声が震える。そこには、篠森が与えた安堵と、別れの予感がにじんでいた。
篠森は一瞬、言葉を探すように彼女を見つめた。
あの場で背中を押したことは、彼女を生かすためだった。
それでも今、その選択が正しかったのかと胸の奥で問い返す。
「……これでよかったのかは、分からない。でも……」
短いが、重みのある言葉だった。
栞はわずかに笑みを浮かべ、今にも崩れそうな声で「……うん」と返した。
その言葉に、栞はわずかに肩を震わせた。
長い間、何かをこらえるように沈黙していたが、やがて目を閉じ、静かに息を吐く。
部屋の空気は、夜明けの海のように冷たく澄んでいた。
二人の間に、言葉よりも確かな何かが流れているように思えた。
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