第11.5話 黒壁の前夜

 玄関の扉が軋む音とともに、ザンビが重い足取りで戻ってきた。外はすでに夜の帳が降り、湿った海風が靴底に絡みついてくるような、ケープタウン特有の重たい空気が室内にも入り込む。


「おかえり、父さん」

 台所から顔を出したナユタは、短いシルバーの髪を耳にかけ、鍋の蓋を片手で押さえていた。香ばしい香りが部屋に満ちている。


「……悪くない日だった」

 ザンビはそう言いながら、外套を椅子に投げかける。卓上には昼間の調査で描き足した地図と、書き殴られたメモが置かれた。ナユタは手を拭き、その紙に目を通す。


「明日、行くんだね。……ノクターン」

 低く抑えた声。彼女は地図の一点を指先で叩いた。


「ああ」

「危険だよ。しかも、あの日本人も一緒に……」

 ザンビは眉をひそめ、短く笑う。

「それが俺たちの役目だ」


 ナユタは唇を結び、視線を落とした。父の背中は大きく、揺るぎない。だが、その頑丈さの裏で、何度も血と痛みをくぐり抜けてきたことを彼女は知っている。


「……もしもの時は?」

 ナユタの問いに、ザンビは振り返らず地図を指で押さえる。

「お前は後方に回れ。動きがあれば煙路を使って援護しろ。ただし、突っ込みはするな」

「後方って……私が行かない前提なの?」

「必要なら呼ぶ。だが今は、あいつを無事に動かす方が先だ」


 短く断言された言葉に、ナユタはため息をついた。理解はしている。けれど、胸の奥に渦巻く不安は消えない。


 夕食は簡素なものだった。鍋から取り分けたスープと、焼き立てのパン、干し肉。食卓には余計な会話はなく、スプーンと器が触れ合う乾いた音だけが続く。

 やがてザンビは椅子から立ち上がり、時計を一瞥する。

「……行ってくる」

「ホテル?」

「ああ。明日の段取りを詰める」


 ナユタは黙って皿を重ね、台所に運んだ。背中越しに父の外套の匂いがかすかに漂う。潮と土と、少しの煙の匂い──それはいつだって、戦いの前の匂いだった。


 玄関口で靴を履きながら、ザンビはふと娘を見た。

「無茶はするな」

「そっちこそ」

 一瞬だけ交わった視線に、父娘の間の強い絆と、互いに譲れない覚悟が滲む。


 扉が閉まり、夜の街のざわめきが二人を別つ。ナユタはランタンの火を見つめ、ほんの少しだけ長く息を吐いた。明日は、きっと長い一日になる。


──夜更け。

 父が出かけてから数時間が経ち、家の中はひどく静かだった。

 ランタンの火は小さく揺れ、壁に映る影が長く伸びている。


 ベッドに横たわったナユタは、天井の木目を指先でなぞるように見つめていた。

 篠森──あの日本人。

 父があんなふうに気を配る相手は珍しい。戦場で命を預けるほどの信頼を、あっさり渡すなんて。


 (……母の国の人、だから?)

 理由を探そうとして、首を振った。そんな単純な話じゃない。

 あの男は、ただの依頼人にしては、目の奥に“戦士の匂い”があった。

 父もきっと、それを嗅ぎ取った。


 (でも……なんか、面白くない)

 胸の奥で、得体の知れない感情が小さく泡立つ。

 父と並んで歩く姿を想像すると、知らない誰かに父を取られたみたいで、妙に落ち着かない。


 窓の外では、港の方角から低い波音が響く。

 目を閉じると、インペポの香りが鼻腔をかすめた気がして、思わず深呼吸した。

 明日、何が起こるのかは分からない。でも、もし本当に危なくなったら──

 (私が助ける)


 そう、父が何と言おうと。

 ナユタはまぶたを閉じ、静かな闇の中でその決意を反芻した。

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