第9話 嵐の前の手ほどき
朝、カーテンを開けた瞬間、湿った灰色の光が部屋に満ちた。厚い雲が低く垂れ込め、窓ガラスを細かな雨粒が叩く。ケープタウンの八月は雨期だと聞いてはいたが、これほど空気が重いとは思わなかった。
ロビーに降りると、ザンビは既に立っていた。短く「行くぞ」と言い、外に出る。
昨夜、病院に行きたいという希望はあっさり却下された。
「で、病院に着いたら、何をどう調べるつもりなんだ?」
その問いに、篠森は答えられなかった。自分でも、何を見つけたかったのか、はっきりとは分からない。ただ栞の死の真相に近づきたい一心だった。
「ほらな。無駄足になる」
ザンビの言葉は淡々としていたが、妙に納得せざるを得ない響きがあった。
街は朝から濡れていた。舗道の石畳は雨を吸い、靴底を通してじんわりと冷えが伝わってくる。傘をさす者は少なく、皆、フードや帽子を目深にかぶって足早に通りを抜けていく。
ザンビは迷いなく路地を抜け、古びた商店や市場を渡り歩いた。篠森には、その足取りの意味は分からない。店ごとに、薬草や乾燥させた根、獣の骨や削り出された角のかけら、さらに、汚れたボロ紙の束を買い込む。紙には、何かの記号や数字が鉛筆で殴り書きされている。
それらが何に使われるのか、篠森には皆目見当がつかない。呪術師の道具か、戦いの仕掛けか、あるいは全く別の何かなのか――問いただしても、ザンビは短く「必要なものだ」とだけ答え、次の店へ向かう。
市場の匂いは、湿った海風と混じり合い、鼻の奥にねっとりと残った。香辛料の刺激臭、魚の生臭さ、焚き火の煙、そして乾いた土の匂い。それらが一度に押し寄せ、篠森は思わず息を浅くする。
途中、衣料品店の前を通りかかったとき、昨晩の寒さが脳裏によみがえった。ホテルの薄い毛布では、夜の湿気に勝てなかった。
「コートを買う」
そう言って足を止めると、ザンビも立ち止まり、珍しく品定めに加わった。
「内ポケットは多い方がいい」
「……何を入れるんだ?」
「まだ聞くな。後で分かる」
淡々とした口調だが、その一言に何か含みを感じた。
濡れた通りを歩きながら、篠森はポケットの多い厚手のコートの感触を確かめた。左胸の奥に、小さな物ならいくつも隠せそうな仕切りがある。何を仕舞う日が来るのか、自分でも分からない。
ザンビは荷物を抱え、次の目的地へと足を速めた。雨は相変わらず細く降り続き、遠くのテーブルマウンテンは、霧の向こうにぼんやりと溶けていた。
昼前、ザンビは路地裏の食堂へ篠森を案内した。狭い室内は木の柱が煤で黒ずみ、壁には古びた写真が無造作に掛けられている。湯気の立つ煮込みの香りが、湿った雨期の空気に溶けていた。
運ばれてきたのは、香辛料を効かせた魚のスープと焼きたてのパン。酸味と辛みが舌を刺激し、温かさが胃に染み渡る。
「食っとけ。午後は動く」
ザンビはパンをちぎってスープに浸し、無造作に口へ運んだ。
食後、裏手の空き地に出ると、そこには古タイヤや木の棒が転がっていた。
「お前にできることは限られるが、やらないよりはましだ」
ザンビは短く言い、体の捌き方や急所を守る構え、腕を取られた時の外し方など、実戦的な護身の型を繰り返させた。
篠森は黙々と動きをなぞる。刑事時代、犯人制圧のために叩き込まれた体術が、まだ体に染み付いている。反応は早く、無駄な力も抜けていた。
「……ほう」
ザンビは腕を組み、目を細める。「お前、意外と役に立ちそうだな」
午後、二人はザンビの家へ戻った。質素な平屋の扉を開けると、内部は整然としている。棚には乾燥した薬草、動物の骨、瓶詰めの液体がぎっしり並び、複雑な香りが鼻をくすぐった。
ザンビは昼間買った品々を机に広げ、骨を形ごとに分け、薬草を束ねて袋に入れ、紙片には印を描き込んでいく。
「これだ」
彼が差し出したのは、小袋を結びつけた木の棒。中には粉末状の薬草と砕いた鉱石が入っている。
「敵の目にぶつけろ。数秒は動きが止まる」
次に渡されたのは、小さな金属製のリング。内側に鋭い突起が並び、手首や首に絡ませれば抜け出すには骨を折る覚悟がいるという。
篠森が革袋を懐にしまったそのとき、玄関の方から軽い足音が響いた。
「Ek’s terug.」
聞き慣れない響きの声がドア越しに届く。柔らかく、それでいて活き活きとした抑揚。次の瞬間、背の高い女性が部屋に入ってきた。
深みのあるダークブラウンの肌が生粋のアフリカ系ではないことを主張している。短いシルバーの髪が室内光を柔らかく反射し、アーモンド形の大きな瞳がまっすぐこちらを射抜く。
身長は180センチ。細く長い手足、10頭身のモデル体型。それでいて胸元は豊かで、立ち姿は自然と人目を引く。
ザンビが当然のように言う。
「娘だ」
—娘?結婚していたのか?
その事実に篠森は思考が一瞬止まる。
彼女は篠森に気づくと、にこりと笑った。
「初めまして、ナユタです。父がお世話になってます」
驚いたのは、その日本語が東京育ちの人間と変わらぬほど流暢だったことだ。
「……日本語?」
思わず声が漏れる。
ナユタは買い物袋を片手に答える。
「母が日本人なんです」
さらりとした口調。動きも自然で、どこか洗練されている。
ザ ンビはそんな二人を横目に、「こいつにお前からも教えてやれ」とだけ言い残し、別室へ移動する。ドアが閉まる直前、室内に香の匂いがふっと流れ込み、低い呟き声がかすかに聞こえた。
ザンビが何かの儀式を始めたのだと篠森は察する。
ナユタは椅子を引き、篠森の正面に座ると、にやりと笑った。
「じゃ、父の代わりに、少しは役に立つことを教えてあげますか」
***
「まずは構えを見せて」
ナユタは椅子から立ち上がると、床の中央に移動し、長い手足をゆったりと構えに収めた。軽く膝を曲げ、重心は低く、背筋は伸びている。見た目は静止しているのに、全身がしなやかに動き出せそうな気配を放っていた。
篠森も向き合い、腰を落とす。元刑事としての構えを無意識に取るが、ナユタは首をかしげた。
「悪くないけど、それだと相手に“これから動きますよ”って教えてるようなもん」
次の瞬間、彼女の長い腕がしなり、指先が篠森の肩に触れる。
反応する間もなく距離を詰められたことに、篠森は小さく息を呑んだ。
「力より間合いとタイミング。父から何も聞いてない?」
「聞く暇もなかった」
「じゃ、私が叩き込む」
言葉通り、ナユタの指導は容赦がなかった。
長い脚が篠森の足首を絡め取り、重心を崩す。手の甲で視界を遮りながら肘で脇腹を押し込む。攻撃というより、“捕らえる”動きが連続する。篠森は受け流しながらも、要所で反撃を試みる。だが、そのたびにナユタの瞳が鋭く光り、次の瞬間には体勢を奪われている。
「……あんた、父に似てる。力よりも先に動きを読むタイプ」
不意にそう言われ、篠森は返事に詰まった。褒め言葉なのか、ただの観察なのか判断がつかない。
訓練の合間、ふと別室から低く響く声が耳に入った。ザンビが儀式を続けているのだろう。草木を焼く香りと、鉄のような匂いがかすかに漂い、空気の温度がわずかに変わる。背筋にうすら寒さが走るが、ナユタは全く気にしていない様子だった。
「気にしなくていい。父はよくこういうことをする」
そう言って笑う顔は、日常の明るさと戦闘時の鋭さを同時に宿していた。
夕方近く、訓練を終えた二人はテーブルに戻った。ナユタは水の入ったコップを差し出しながら、
「明日からもっと動くことになる。そのための準備よ。……あんた、本気でここで生き延びたいなら、私の言うことは全部飲み込んで」
とだけ告げた。
篠森はコップを受け取り、一口水を飲んだ。喉を通る冷たさが、いつになく重く感じられた。
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