『ナイト・クロス・インヘリタンス』ノクターン・探偵編
Paul_Cognac
第1話 彼の声を聞いた気がした
自動ドアをくぐった瞬間、熱がほどけた。
真夏の午後、灰色の街路は陽炎に揺れ、排気の匂いと蒸気のような湿気が肌に貼りつく。そこから逃げ込むようにして、俺は警察署のロビーへ足を踏み入れた。冷房は古いが、少なくとも息苦しさは引いた。蛍光灯の白が書類のエッジをくっきり際立たせ、受付のカウンターには透明の衝立が丁寧に拭かれた跡を残している。
汗で少し重くなったシャツの襟元を引き、上着を手に持ったまま、順番待ちのフロアサインに目を落とす。俺の仕事は派手じゃない。むしろ地味で、ひたすらに小さな継ぎ目を拾い集める。浮気、行方の確認、企業の身辺整理、盗聴器の発見——どれも短距離走に似ていて、感情を挟む余地は少ない。情熱というやつは、とっくに使い切ったと自分に言い聞かせていた。
「ご用件をどうぞ」
カウンターの向こうに若い女性警官が立った。マスク越しでも、事務を淡々と回す手際の良さが伝わる。俺は封筒から依頼者から預かった照会書と、盗聴器関連の報告様式を取り出し、番号順に重ねて差し出した。指先が紙の角に触れるたび、現実が妙に鮮明になる。
「盗聴器の確認ですね。こちらにサインを。……印鑑は不要です」
差し出されたボールペンは冷房の風でひんやりしていた。俺は署名をしながら、癖で周囲の音を拾う。コピー機、端末のキーボード、誰かの靴音。いつもと同じ、取り立てて語るべきもののない午後だ。そう思った矢先、空気の粒の並びが一つだけ乱れた気がした。
苛立ちを押し殺した低い声が、衝立の向こうで震える。
「何度も言ってるだろ。だから、違うって」
受付の奥、職員用の扉の近くで、若い男が警官とやり合っていた。二十代前半、くたびれたパーカーに黒のシャツ。骨ばった頬が少しこけ、目の下に薄く疲れが滲む。声は荒いが、どこか必死ではない、諦めを上塗りするような調子だ。俺はペンを止め、無意識に耳を澄ませる。
「どこの病院だって? ……ケープタウン? はあ、だから——」
ケープタウン。
鼓膜の裏で、誰でもない誰かの声が水面に触れたように波紋を広げた。胸の内側で何かがつかえて、呼吸が半拍ずれる。俺は紙面に視線を落とし直し、氏名の最後の一画をゆっくりと引いた。手がわずかに震えたのを、ペンの滑りの悪さのせいにする。
あの地名は、十五年前に一度だけ俺の生活に入り込み、そして二度と戻らないはずのものだった。熱に浮かされた夢みたいに遠く、現実から切り離して棚に上げた単語。ここで偶然耳にする理由は、どこにもない。
「大丈夫ですか?」
女性警官の声で、俺は顔を上げる。マスクの上からでも、心配そうな目がわかる。
「ああ。少し暑くてね」
そう答えながら、俺は衝立越しにさっきの青年をちらと見る。口論はまだ続いている。書類の束、何かの診断書、日付の印字。相手の警官はルールどおりの対応を崩さない。若い男は指でこめかみを押さえ、深く息をついた。その仕草に、見覚えが刺すように走る。いつの自分だろう。あの頃、俺もこんなふうに、言葉の端で世界を掴もうとしていた気がする。
カウンターに肘をつきたい衝動を抑え、俺は提出書類の控えを受け取る。淡々と仕事を終えるだけだ。そうだ、今日はこのまま事務所に戻ればいい。扇風機を強にして、残っている請求書の整理をする。床に転がしっぱなしの段ボールを片付け、古い依頼ファイルを捨てる。そう決めれば、何も揺れないはずだ。
だが、耳は勝手にあの言い争いの残滓を拾っていた。
「ケープタウンの——」
また、心拍が一つ飛ぶ。
なぜ忘れられないのか。なぜ今、ここで。理屈はない。ただ、皮膚の内側で過去の輪郭がぬるりと形を取り直していく。冷蔵庫の奥で忘れられていた瓶が、ふと手に触れたときの、あの生温い現実感。開けるか、捨てるか——そういう話じゃない。そこに確かにある、という事実だけが、呼吸の邪魔をする。
「こちら控えです。確認のハンコ、お願いします」
スタンプを押すたび、乾いたインクの匂いが立つ。俺は礼を言い、カウンターから半歩下がる。そこで視界の端に、青年の姿が動いた。警官と短く言葉を交わし、肩を落としてこちらへ歩いてくる。扉へ向かう、諦めの歩幅だ。
背を向けるその瞬間、口の中で何かが勝手に形を持つ。
「……諦めるなよ」
自分の声が、思いのほか鮮明に空気を震わせた。衝立の縁がびくりと揺れた気がする。青年が足を止め、振り返る。目と目が一瞬だけ重なった。問いも怒りもない、ただ確認するような視線。すぐに逸れて、彼は扉のバーを押した。外気が切れ込み、夏の白い光が斜めに差し込む。
いまのは——俺の声だったのか。俺はそんなことを言うつもりだったのか。誰に向けて。あの青年に? それとも、十五年前の俺に。
(馬鹿げてる)
胸の奥で乾いた笑いが転がる。思考は自分を追い越し、さらに戻っていく。ケープタウン。心臓移植。書面で届いた死亡。そこにあった、拭いきれない違和感。紙の向こう側に滲む灰色のしみ——あれは何だったのか。警察にいた頃の俺は、それを“案件外”に分類して、見て見ぬふりを覚えた。そうしなければ、毎日は回らない。生きるために、忘れる技術を身につけた。はずだった。
「——篠森さん?」
近くで名を呼ばれ、現実が戻る。受付の女性警官が控えのクリップを手渡しながら、首をかしげていた。
「手続き、済みましたよ。こちらで全部です」
「……ああ、ありがとう」
声が少しだけ掠れた。俺は咳払いでごまかし、受け取った紙束を封筒に戻す。指先がまだ微かに震えている。緊張ではない。熱でもない。もっと鈍い、古い痛みの場所が、ずれて触れた感覚。
「外、暑いですから。お気をつけて」
彼女の言葉に、俺は曖昧に頷く。自動ドアが開き、熱が押し寄せる。歩道に出た瞬間、蝉の声がこちらの鼓動と重なった。さっきの青年はもういない。人の流れはいつもの午後に戻り、交差点の先では工事のビニールが風に鳴っている。
諦めるなよ。
あれは誰のための言葉だった。
人に向けて発した言葉が、遅れて自分の胸に刺さることがある。刺さったまま取り出せず、やがて棘の存在だけが生き残る。そういうものを、俺は仕事の手際で回避してきた。感情を包んで、取扱注意のラベルを貼り、倉庫の奥に積み上げる。箱は増え続け、俺は鍵の場所を忘れる。忘れたふりを、覚える。
信号が青に変わる。横断歩道の白が熱で淡く揺れている。財布の中の小銭が汗でくっつき、取り出しにくい。自販機の水はすぐにぬるくなり、喉の渇きは収まらない。紙コップの縁に触れた唇が、ふと冷える。冷たいのは水じゃない。ここに入ってきたとき、確かにひやりとしたもの。建物の空気か、蛍光灯の青か、それとも——
受付の奥から、さっきの警官の抑えた声が微かに聞こえた。仕事に戻ろう。そう思うのに、足はまだ舗道の上で迷っている。ケープタウン。言葉はもう、頭のどこにも収まらない。ここではないどこかに置き忘れた答えを、誰かがこっそりと拾い上げ、俺の足元に落としたみたいだ。
諦めるなよ。
笑ってしまいそうになる。俺に向けた言葉だなんて。だが、笑えない。喉の奥に引っかかった小石は、思いのほか重い。ポケットの中の携帯が震え、現実が再びこちらに引き寄せられる。依頼者からの確認のメッセージ。淡々とした文面。仕事は待ってくれる。俺が現実に戻るまで、いくらでも。
それでも、耳の奥では、あの音がまだ消えない。誰かがこの街のどこかで、しずかに扉を開けているような音。十五年前、閉じたままにしたはずの扉と同じ蝶番の軋み。
俺は封筒を脇に抱え、ゆっくりと歩き出した。汗はもうどうでもよかった。外気の熱の方が、むしろ落ち着く。自分が熱の側にいると錯覚できるからだ。冷たさのほうが、よほど怖い。あの冷たさは、紙の上でだけ完結する死の温度に似ている。
青が点滅を始め、俺は足を速めた。
諦めるなよ。
歩道橋の欄干に乗った日差しが、金属の匂いを立てた。胸の中の小さな棘は、まだそこにある。たぶん、ずっと前から。気づかなかったふりをやめる準備だけが、今、少しずつ整っていく。
そしてなぜか、俺は確信していた。
この夏は、終わり方を変える。
何かが、ここから始まる。
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