Ep.20. 消毒液の匂い

 青空があった。空の高い位置を雲が流れていた。ゆっくりとした流れだ。綺麗だと思った。あの中を飛べたらどれほどに気持ちが良いだろう。


 状況をつかめず、しばらくずっと空ばかりを見ていた。次第に、まわりの雑踏が聞こえるようになった。


「どんどん水を掛けろ!」

「冷やしてから町の外に運び出すんだ!」


 そんな声が響いている。


 冷やす? なにをそんなに慌てているのだろう?


 身体が重い。首を動かす気力すらない。周囲の状況が全く飲み込めなかった。しかし、状況がわからないことすら、どうでも良いと思えて、ずっと空ばかり見ていた。空には、あてもなく流れている雲がいる。


 頭がぐるぐると回っているようで、何も考えることが出来ない。しかし、身体に力が入らないのに、頭は全く回らないのに、とても心地よかった。


 何も考えないというのは、これほど楽なことなのかと思った。

 

 リザはもう一度眠ろうと思って、目をつむった。


 *


 そして、すぐに目を開けた。知らない天井があった。自分の身体から消毒液の匂いがした。


 リザは何が起こったのか理解できずにとりあえず身体を起こしたとき、左腕に痛みと違和感を覚え、全てを思い出した。

「起きたか」

「……起きたよ」


 ゴラフが椅子に座っていた。


「ここは病院だ。もうすぐ夜になる。身体の具合はどうだ」


 リザは不満げな声を漏らした。


「左腕がまだ治らない」

「……恐ろしい」

「どういう意味よ」

「満身創痍も良いところだったはずだ。死にかけてたんだぞお前は」

「どうして怒られてるのよ私は」

「怒ってねえさ」

「まったく。私は傷の治りも早いのよ」

「ルシアって子の言ってた体質のおかげってやつか?」

「そうよ。たいていの傷なら、一晩二晩ですぐに治っちゃうから」

「そうかいそうかい。そりゃあよかったよ」

「それで、ルシアはどうなったの?」

「そこで寝てんだろ……」


 ゴラフが指さした先は、リザの隣のベッドだった。リザが視線をやると、ルシアはそこで丸まって眠っていた。


「よっぽど疲れたんだろうな。お前さんをここまで運んだ後、誰の制止も聞かずにお前さんの看病をしていたんだ」

「そうなんだ」

「で、自分の風邪が悪化して寝込んじまったんだよ」

「……悪いことしたかな」

「してねえよ。でもまあ、感謝しとくんだな」

「自分もしんどいはずなのに、私の看病してくれたんだもんね」

「それもあるが、それ以上にもう一つあってな」

「……なに?」

「やっぱり覚えてねえか」

「なんなの?」

「お前さんがあの怪物に一撃くれてやった後だよ」

「……確かに記憶ないや」

「あの時、お前さんは怪物のほぼ真下に落下したんだよ。そのときにはもう、怪物は死んでたんだ」

「もしかして……」

「そうさ。あの時、この嬢ちゃんが咄嗟にお前さんを移動させたんだ。そうでなきゃお前さんは、潰されるか焼かれるかして、死んでたんだよ」

「……そうだったんだ。お礼言わなきゃ」

「ああ、起きたら言ってやんな。お前さんの服が燃え尽きる前に、自分のローブまで被せてやってたからな。風邪が悪化したのは、その時に冷えちまったのもあるんだろうな」


 リザは思わず胸を右腕で隠したが、着替えた覚えもないのに、違う服を着ていた。知らない服だった。


「その服は、嫁さんのだ。慌てて準備してたよ」

「迷惑かけちゃったな」

「いいんだよ。お前さん達は、この町を守ったんだ」

「……あの魔物は、私を追ってきたのかもしてないのに?」

「どういうことだ?」

「雪山で、黒い地層から出てこようとしていた何かが居たの。出てきていた部分は破壊したんだけど、どうやらそのあとに残りの部分が出てきたみたい」


 リザは、自分の考えを説明した。あの怪物は、自分を追いかけてきた可能性が高い。


 説明中、ゴラフはひと言も口を挟まなかった。


「……でもな、証拠も確証もねえ。あの魔物がどこから現れたのかなんて、誰にも知ることは出来ねえんだよ」

「でも、私はそう思ってる」


 だから、もうこの町にいられない。リザの顔はそう言っている。


 ゴラフはそれを感じ取りつつも、会話を続けた。


「……どうするつもりだ?」

「学生だからさ……。わからないんだよね。勝手に動けないから」

「お前さんが聡くてよかった。お前さんが我を通すようなことを無理矢理するような女じゃなくて良かった」

「でもね、この我は通すよ」

「いつかな」

「うん、いつかは……」

「この町を出る気なら、卒業するまでやめとけ」

「うん。とりあえず、あと一年くらいはこの町にいないといけないんだよね」

「……そうだな。お前さんの生き方を否定するつもりはねえ。だがな、もっと賢く生きるんだ。正直に生きることだけが、賢い生き方じゃないんだよ」

「……私はずるいから。……綺麗な生き方なんか出来ないから。すぐに町を出るって言えないんだよ……!」


 リザはあふれ出る涙をぬぐった。涙が止まらない。


「いいんだよ、それで。お前はまだ子供だ。それに俺から言わせりゃ、お前は町を出る必要なんかねえ」

「……どうして」

「魔物被害は災害だからだ」


 ゴラフは目を見開いてそういった。


「わかるか? 魔物の行動を理解できる人間はいねえんだ。だからこそ、対策が必要なんだ」

「……でも」


 ゴラフは立ち上がって壁を殴りつけた。感情の槌のおろしどころがないのだ。


「でもじゃねえ! 魔物被害の対策は、町が行うべきことだ。あの魔物はお前さんについて来ちまったかもしれねえ。それでも町が対策していればここまでの被害は出なかったんだよ! 町の被害は町の責任だ。町を作っている大人の責任なんだよ。お前のような子供に責任をなすりつけようってんなら、それはこの町が間違ってるんだよ。そのときはこんな町に留まる理由なんてねえ。堂々と町を出て行けば良い」


 ゴラフの握りしめた拳から、血が流れ落ちる。


 その後しばらくの間、リザは俯いて嗚咽を漏らし続けていた。


 *


 リザの呼吸がある程度落ち着いたとき、ゴラフは転がった椅子を元に戻して座り直していた。


「どうしてお前だけがここまで思い詰める必要があるんだ」

「……私は、感情のコントロールが下手だから。ストレスすら自分で解消できなくて、こうやって戦うことでしか自分を保てなくなった……」

「それの何が悪い……」

「だって、暴力だもの」

「お前は災害を防いでくれているんだ。感謝されこそすれ、非難されるいわれはねえ」


 ゴラフは続けざまに言った。


「いいか、何度でも言ってやる。魔物は災害だ。人間が勝手に利用しているだけなんだよ。魔物は魔物だ。人間の敵だ。人間が科学の世界で魔物を利用できているってだけで、人間と魔物が実際に歩み寄れたわけじゃねえんだよ。人間が一方的に魔物のことを知っていっただけだ。魔物にとって人間は人間なんだ。そこに変わりはねえ。最近、そのあたりのことを勘違いしてやがる奴が多いんだ」


 ゴラフは血まみれになった拳を再び握りしめた。


「お前を責める奴が居たら、そのときは俺がそいつを殴ってやるよ」


 そう言ってゴラフは、病室を去っていった。

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