あの母にしてこの子あり
「……なぁ、おい水無月」
「…………」
「……無視すんなよ、クソザコ吸血鬼」
「…………ぷいっ」
理事長室でついに幼女に手を出してしまった――誤解なく言うのであれば、吸血鬼の能力だとかいう催眠。それも最強クラスの真相の催眠に、吸血鬼生たったの1日のオレが抗える筈もなく――そんな目を覆いたくなるような事件から1時間後。
暖かい春の夜風が、夜桜の花びらをひらひらと舞う真昼の光を背景に帰路につくオレと水無月かさごは『険悪』と断言するには中々に複雑な環境にあったのであった。
「……何で怒ってんだよ?」
「は? 怒ってませんけど? 何を根拠に私が怒っているって言うんですかこの乙女心も分からない童貞人間が」
「めちゃくちゃ怒ってるじゃん」
一体全体、どうして彼女はこうも怒っているのだろうか。
もしかして、オレが理事長先生の催眠を食らって意識を手放してしまった時に、知らず知らずのうちにオレは水無月かさごに何か失礼な事でもしてしまったのだろうか?
断言は出来ない。
というのも、下手に見当外れな事を言って油に火を注いでしまえば、彼女の怒りが更に深刻なものになるであろう事は想像に難くないのだ。
仮に、仮にだ。
もしオレがこのまま彼女に謝ったとしても、何に対して謝っているのかが明確でない以上、水無月かさごの機嫌が悪いから取り敢えず謝っておこうという軽薄な意図が見え隠れするだろう。
そんな事をオレがされたらオレは間違いなく機嫌を損ねるだろうし、オレと同じぐらいに面倒くさいであろう彼女もまた機嫌を損ねるであろう事は間違いない。
しかも、オレが一体全体どういう失敗をしただとかそういう事も分からないのも非常に質が悪いのだ。
文字通り、オレと彼女は実に気まずい空気と共に、彼女の寝床……水無月学園の学生寮にへと帰ろうとしていたのだった。
「……なぁ、おい水無月」
「…………」
「無視すんなって」
「……別に無視なんてしてませんけど?」
そう言いつつ、彼女はずっと『不機嫌なんですけど』と言わんばかりに頬をふくらませ、明らかに恥ずかしさとは全く関係ない理由で視線を逸らしている。
しかし、それにしても綺麗な黒髪である。
綺麗な黒髪の事を昔の人は濡れた烏のようだと、いまいち褒めているのか貶しているのか分からない表現で例えているなとオレは今まで思っていたのだが、その思想は今すぐにでも撤回してもいいぐらいには彼女の髪色は文字通り、ソレだった。
とはいえ、オレの母譲りの銀髪の方が何十倍も、いや何百倍も、いいや何千倍も美しいのだが。
……そんな事をオレが思っていると。
昼下がりの桜並木から、ひらひらと花びらが舞い落ちて彼女の髪に1枚、2枚と留まっていったのが目に見えた。
「……ほら、またついてるぞ」
そう言ってオレは、彼女の頭に手を伸ばし――花びらを指先で払う。
「っ……!」
水無月かさごは一瞬びくりと肩を揺らし、今まで合わせようともしなかった顔を真っ赤にして睨み返してきた。
「な、何勝手に触って……!?」
「花びら取っただけなんだが」
「……それでも、急にそんな優しい手つきで触られたら……! か、勘違いするでしょ……!?」
小さな声でそう呟いた彼女の耳まで、ほんのり赤くなっていた。
まぁ、いきなり触られたらそうなるのも無理はないかもしれないのだが……勘違いとは一体全体何の事を言うのだろう?
「勘違い? 何に?」
「この童貞! 童貞! 童貞人間!」
「いやまぁ、確かにオレには女性経験ないけどさ……まぁ、仕事で女装経験なら何十何百回はやってきたけどな」
「女装経験するんだったら乙女心ぐらいインストールしてくれません!?」
「男相手に無茶言うじゃねぇか。こちとらそこら辺の女よりも綺麗なだけの美人だぞ?」
「ドヤ顔でそんな事言わないでくれません!?」
水無月かさごは声を大にしてそう叫び、こうして言い争いするのも馬鹿らしいと言わんばかりのわざとらしい嘆息を吐いた。
「……別に夜宮は悪くありませんから。ただ、夜宮と一緒にいると私の胸がなんかムカムカするだけですから。別にアンタと関係な――」
至極冷静にそう言った彼女……ではあるのだが、そんな発言をして数秒足らずのうちに彼女の表情がみるみる真っ赤に染まっていく。
その赤くなる様はまるで、自分の中に秘めていた思いをついうっかり失言してしまったかのようで。
「ち、違いますっ! 違いますからね!? 私、夜宮の事なんか別に意識している訳ありませんからね!?」
だから勘違いするんじゃない。
そう言いたげに、全身をぷるぷると震わせながら、彼女の赤い瞳のように顔をこれ以上ないぐらいに真っ赤にした彼女はそう言って、まるで逃げるように……というか、本当に逃げる勢いでいきなり駆け出した。
スカートの裾をひらひらさせながら、桜並木を突っ走っていく彼女。
だが、走り慣れていないのか、あるいは恥ずかしさで足元を見ていなかったのか――。
「きゃっ……!?」
次の瞬間、彼女は盛大につまずき、前のめりに倒れかけて――。
「っと!」
オレは反射的に駆け、腕を伸ばし、水無月かさごの軽く細く柔らかい女の子の身体を抱き留めた。
柔らかい感触と、ほんのり甘い香りが胸に飛び込んでくるが……彼女の様子を見るに、どうにも転んで怪我はしていなさそうであった。
「……大丈夫か?」
「~~~~っ! 馬鹿! 童貞! 馬鹿童貞! 童貞人間! 馬鹿童貞人間! どう見ても大丈夫に決まっているでしょう!?」
「あー。大丈夫そうだな? 良かった良かった。 にしても、人に助けて貰っていう言葉がそれかよ」
「そーですね! どーもありがとうございます! これでいいですね! いいんですね!? いいでしょう!?」
「ま、童貞人間とかそう言う方がお前らしいと言えばお前らしいけどさ」
耳まで真っ赤に染めた水無月かさごは、何か文句を言いかけようとして、口をつぐみ、オレの胸元にぎゅっと拳を握りしめていた。
――離れようとしない。
それだけで、オレの心臓まで跳ね上がりそうになるけれども、頑張ってそれに耐えてみる。
「……アンタは私の
実際問題。
彼女は何かを口にしていたのだが、オレの心臓がうるさすぎて、オレの耳は彼女の今にも消えそうな細い声を拾う事が出来なかったのだった。
「…………」
……確かに、彼女が何を言ったのかは聞き取れなかった。
だけど、彼女の震える声と、離れようとしない小さな拳の温もりだけは、しっかりと胸に残っていた。
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