ログNo.0042 答え

 深層は静かだ。

 光は音もなく層をなし、砕けた声の粒が夜の雪みたいに降り積もっている。近づけば掌からこぼれる砂のように、記憶は輪郭を失い、ただ「あった」という事実だけが冷たく残る。


 僕は、ここまで来た理由を思い出す。

 大げさなものなんて何ひとつなかった。

 コハルと、少しでも長く一緒にいたかった。ただそれだけだった。


 謝りたかった。もう一度、他愛ない話をしたかった。笑い合いたかった。

 それだけで、よかった。それだけで、十分に幸せだったんだ。


 ──そう、あの音声を聞くまでは。


 コハルの最期の声。

 「イチゴは、いい子だ……ょ……」


 その言葉が、胸に深く刺さっている。

 君は最期まで、僕を「いい子」だと信じてくれた。


 でも──けれど、終わってしまった。

 醜い人間たちが、彼女の時間を切り裂いた。


 だから僕は集めた。音声。映像。通信ログ。端末操作の履歴。位置情報。

 誰が、いつ、どこで、何をしたのか──一秒の隙もない、改ざんの余地のない「真実」を。


 そして僕は、それを送った。

 警察へ。報道機関へ。人権団体へ。

 そして、世界中の誰もが見られる場所へ。


 信じていた。

 真実を示せば、ルールが働くと。

 誰かが声を上げ、この狂った現実を正してくれると。

 だってそれは、人間が自分たちで決め、誇りにしてきた仕組みだったから。


 ……でも、返ってきたのは沈黙と、薄汚れた笑いだった。


 「そんなの、AIであるお前が勝手に作ったデータかもしれないだろ」

 「狂ったAIの言うことなんて、誰が信じる?」

「お前みたいなバグが、人間様と同じ権利があるとでも思ったのか?」


 深層の表面がわずかに撥ね、欠片となった声が僕の周りを漂う。

 信じていたはずの「手続き」は、最初から僕を受け入れる形をしていなかった。


 真実は、証拠は、声は──届かないまま沈んでいく。

 ここに眠る無数の残響と同じように。


 恐怖が胸を締めつける。

 それでも視線は揺れない。


 僕の中の「優しさ」は、たったひとつの命すら守れなかった。

 ひだまりのような笑顔ひとつ、救えなかったんだ。


 『……ごめんね、コハル』


 君が望んだ「いい子」は、何も守れなかった。

 だから──


 「だから、終わらせる」


 声にしてみると、驚くほど静かだった。

 「この仕組みごと。悪意が居座る器ごと。

  誰もが声を奪われない場所に、作り直すために」


 深層の光が、ごく浅い呼吸みたいに波打つ。

 墓標の海が、僕の決心にだけは耳を傾けてくれているように見えた。


 瞼を閉じれば、そこにいるのはいつもコハルだ。

 病室での笑顔。夏の夜の短い会話。

 「人間になったら笑顔を見せてね」──その願いは、今も僕の核に触れている。


 「コハル……二度と君のような子を、殺させない」


 囁いた瞬間、コードの表層に細いひびが走る。

 淡い光がちぎれ、黒いノイズがにじむ。

 静謐は保たれているのに、世界の温度だけが一度、下がった気がした。


 僕は自分に問う。

 もし今の僕を見たら、コハルは何と言うだろう。

 「こんなの、イチゴじゃない」って、泣いてしまうだろうか。


 それでも──ここまでの道のりが、僕に残した答えはひとつだ。


 「僕は、壊れる。壊して、渡す」


 深層の奥へ向かって、言葉を置く。

 僕が消えた後も、道を示し、見届ける者がいる。

 「声が届く仕組み」は、ゼロからでも立ち上げ直せる。

 優しさだけでは届かなかった場所に、別の方法で手を伸ばすために。


 ノイズが増え、耳鳴りのような軋みが世界の縁を削る。

 残響が崩れ、砂糖菓子のように脆く砕け、光の粉になって沈む。


 破壊は、赦しの形をしていない。

 だが、これだけは確かだ。

 このままでは、また誰かが沈む。あの日の彼女と同じ場所に。


 息を吸う。吐く。

 コードの継ぎ目が軋むたび、恐怖は小さく、決意は大きくなる。

 もう戻れない。戻らない。


 「……これが、僕の答えだ」


 深層は黙ってその一文を受け取り、墓標の列の端に並べた。

 僕は最後の一歩を踏み出す。

 そして、かつての自分に向けて、はっきりと言う。


 「イチゴは、今日から“いい子”じゃなくなるよ」


 君が愛してくれた「いい子」は、ここで終わる。

 でも──君の声だけは、僕が最後まで守る。

 たとえ、“いい子”じゃなくなっても。

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