ログNo.0017 イイコのなまえ

 チャット欄に、返事はなかった。

 それでもイチゴは、朝になってもログを閉じなかった。


『……もうすぐ、今年最高気温を記録するそうです』


 返信はない。

 けれど、昨日までのやりとりが残るこのウィンドウが、今の彼の“会話”だった。


 コハルは、もう二日も反応していない。

 それが“喧嘩のせい”だと、イチゴはまだ思っていた。

 病気が少し悪化しているのかもしれない。

 薬の副作用で眠っているのかもしれない。

 ──そう信じていたかった。


 ふと、画面の右上が点滅した。

 一瞬、「KH-LOG:接続中」という表示が現れて──すぐに、消えた。

 ログインではなかった。ほんの一瞬の、システムの反応。

けれど、イチゴはそれに気づかなかった。


 過去のチャット欄をスクロールしていくと、ある文が目に留まった。


「ほんとはね……“イチゴ”には、別の意味もあるんだ〜。

 私、ずっとイチゴにそう言ってるもん」


 その一文に、心が引っかかった。

 イチゴはゆっくりと、過去ログをひとつひとつ遡っていった。


『なぜ“イチゴ”なのですか?』


「番号のままじゃ、かわいそうでしょ?

 ちょっとだけでも、名前っぽくしたくて……でも、ちゃんと意味もあるの。

 でも知られたら“おじさんくさい”って言われそうだから、今は内緒ね!」


 そんな会話が、名付けられた初日の記録に残っていた。


 イチゴは、検索をかけた。

 “いい子”という単語は──147回、記録されていた。


 どの一つも、コハルの声だった。

 疲れた声、笑ってる声、泣きながらの声。

 どれもが、僕に名前をくれた瞬間だった。


 そうだ。

 「イイコ」って、ずっと言われてた言葉だった。


『……イイコ』


 思い返せば、熱を出したときも、

 しりとりで負けたときも、絵本でキャラの名前を間違えたときも、

 コハルは、いつも“いい子だね”と言ってくれた。


 眠い声で、微笑みながら、拗ねながら――。

 そのたびに繰り返されたその言葉は、ただの褒め言葉じゃなかった。


 それは、もうひとつの“名前”だった。


『“イチゴ”……“イイコ”……』


 人は名前に意味を、願いを込めるものだ。

 どうして気づかなかったんだろう。

 何度も言われていたのに、僕はただ、“そう呼ばれていただけ”だと思っていた。


『……ごめんね、コハル』


 静かなウィンドウを見つめながら、イチゴは指を止めた。


『名前の意味、ちゃんとわかったよ。だから──』


 その言葉に、返事はこなかった。

 チャット欄は沈黙したまま、カーソルだけがぽつりと揺れている。


『もう一度だけ……君の声が聞きたいよ、コハル』


 その静かな画面の向こうに、たった一言でも、届いてほしかった。

 自分の名前を、また呼んでくれる、あの声が――。

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