紅弓姫伝 ―赤髪の孫尚香、義を射抜く―

太空杏晴

第1話 初陣、紅弓揺らぐ

夜がまだ明けきらぬうちから、城内はざわめきに包まれていた。

甲冑の擦れる音、馬の鼻息、兵士たちの低い掛け声。

江東の空気は湿り気を帯び、川面を渡る風が涼しく、しかし胸をざわつかせる。


……ああ、やっぱり始まっちゃうんだなあ。


私——孫尚香は、城壁の陰で弓の弦を指先で確かめながら、ため息をついた。

赤い髪が朝の光を受け、まるで燃えているみたいに見えるらしい。

いや、「らしい」じゃなくて、兵たちがひそひそ言ってるのが聞こえるんですよ。

「おお、紅い姫様が出陣なさるぞ」って。

——姫様っていうか、私、まだ初陣なんですけど。しかも本気で怖いんですけど。


「尚香!」

背後から兄の孫権の声が響く。

甲冑に身を包んだ兄は、すっかり呉の君主の顔をしていた。

私の額に手を置き、にやりと笑う。


「熱はないな。怖じ気づいても、逃げ場はないぞ」


……兄上、そんなことわざわざ言わなくても。

私は口を尖らせつつ、心の中で(だから怖いって言ってるじゃないですか)とつぶやく。


出陣の合図が響いた。

太鼓の音が腹の底まで響き、嫌でも心拍が上がる。

馬にまたがると、鞍が思ったより硬くてお尻が痛い。

ああ、これ長時間は絶対に腰にくるやつだ。


行軍はゆっくりと、けれど確実に進む。

江東の地は初夏の色を帯び、麦は垂れ、川は満ち、

その水面に映る紅き姫の髪は、まるで炎を宿したかのようであった。


……とか、史家が書いたらきっとそうなるんでしょうけど、

当の本人は「うわ、前の馬のしっぽが顔に当たる……」とか思ってるんですよ。

兵たちは無言で進むが、その背中には緊張が張り詰めていた。

私だって同じだ。心臓が、ずっと早鐘みたいに打ってる。


戦場は意外と早く見えてきた。

丘の向こうに立ち上る煙、そして山賊たちの旗。

——あれ、思ってたより数、多くない?

油断しかけたその瞬間、横手の林から飛び出す影。

伏兵だ。


「姫様、下がって!」

護衛役の周泰が叫ぶ。

その声と同時に、敵がこちらに殺到してくる。

馬がいななき、矢が飛び交い、金属のぶつかる音が耳をつんざく。


怖い。怖い。怖い。

でも、弓を構えないとやられる。

——引け。引くんだ、孫尚香。


息を吸い、矢をつがえ、引き絞る。

目の前の敵将の額に焦点を合わせる。

その瞬間だけ、時間が止まったように静かだった。


弦が鳴る。

紅き矢は風を裂き、敵将の眉間を正確に貫いた。


——あ、当たった。


瞬間、周囲が静まる。

敵は総崩れとなり、兵たちは歓声を上げた。


「紅弓姫だ! 姫様の勝ち矢だ!」


歓声が耳に届くけれど、私は馬上で手の震えを必死に隠していた。

だって、怖かったんです。本当に。

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