第二十五話
北の森は依然として一面の銀世界だった。
とはいえ、日中の日差しには柔らかな温もりが感じられ、雪解けを促すかのような光が森の奥深くまで届いていた。
そんな季節の中、ユユは新たな日常を築き始めていた。
テイムの能力が生えてからは、日常的に森の動物たちと交流し、集会を開いているのだ。
雪の上にそっと腰を下ろしたユユの周りには、森の小さな住人たちが自然と集まっていた。
どこからともなくリスが姿を見せ、ふさふさの尻尾を揺らしながら寄ってくる。
ウサギは警戒心を忘れたように近寄ってきて、小さな前足で雪を踏みしめながら、ユユのそばにちょこんと座る。
頭上には、小鳥たちが舞っていた。
風に乗るようにふわりと降りてきて、小枝にとまると軽やかにさえずり始める。
そこにあるのは、白銀の森に浮かぶ小さな楽園。
まるで絵本の世界に迷い込んだかのようなファンシーでメルヘンチックな情景。
それはただの可愛らしい風景ではなく、見ているだけで心がふわりと軽くなる、
のどかで、優しくて、心の奥まであたたかくしてくれるような光景。
癒しに満ちた特別な瞬間だった。
見る者の心を解きほぐす、心和む風景。
しかし、そんな穏やかな時間の中心で、ユユが行っていたのは、あまりにも意外な活動だった。
『ウサギのうんこはコロコロうんこ』
朗らかな声と共に、ユユが大事そうに集めていたのは、まさかの動物の糞。
その無邪気な笑顔と、手元の奇妙な成果物のギャップに、俺は思わず二度見してしまった。
先ほどまでの絵本のような癒やしは霧散し、俺の心には形容しがたい感情が広がった。
俺は呆然としたまま、ユユに問いかけた。
「ワフン(ユユは何をしてるのかな?)」
ユユは、その答えを、まるで大発見でもしたかのように高らかに宣言した。
『モコオがまけないように、これでとっくんだよ!』
“特訓?”
俺は理解が及ばず、さらに尋ねる。
「ワフワフ(何を使って何を特訓するの、俺)」
ユユは、キラキラとした目で、手元のブツを指差した。
『うんちではなをつよくするよ』
「ワフ?(うんち?ハナ?何を言ってるか分からないから、そのバッチイ物は捨ててこようね。)」
俺は信じられない気持ちで、半ば命令するように言った。
だが、ユユは首を振り、断固として拒否する。
『すてるなんてとんでもない!とっくんするの』
その様子を見かねたドリュアが、冷静な声で介入した。
『ユユは臭いに耐性をつくように特訓をすると言っているのではありませんか?』
ドリュアの言葉で、ようやくユユの意図が繋がった。
嗅覚の弱点を克服するための特訓、か。
しかし、なぜよりにもよって……。
「ワンワオン(ハナって、嗅覚の事?いや。まって、いくら何でも、その排泄物を直接使うのは、俺の人としての尊厳にかかわるので絶対にやめて!)」
俺は必死に訴える。
狼としての本能以前に、元人間としての矜持がそれを許さなかった。
だが、ユユは俺の悲痛な叫びを意にも介さず、妙な自信をもって言い放った。
『だいじょうぶ、ウサギのウンチはくさくないよ!』
「ガウ!(臭くないと特訓になんないしね!いや、ウンチはやめて、臭くなくてもウンチはダメ!)」
俺の理屈は、ユユの純粋な悪意なき“善意”によって、完全に打ち砕かれそうになるが、此処は絶対に負けられない。
この羞恥プレイだけは断固として阻止しなければ。
俺は、排泄物による特訓計画を阻止すべく、次の手に出た。
「ガウワオン!(ユユ、ドリュアに勝手に動物をテイムしちゃダメって言われてるのに、こんなに動物たちを集めちゃダメでしょ)」
テイム能力を持つユユが、その力で動物たちを呼んでいると仮定し、注意を促す。
しかし、ユユの返答は俺の想定を覆した。
『うん、テイムしてないよ』
「ワフ(あれ?じゃここに集まってる小動物は?)」
俺が呆気にとられていると、ドリュアが穏やかに、しかしその言葉には確かな響きを込めて説明した。
『不思議な事ですが、一部の小動物が勝手にユユの下に集まっているようです。』
まさか、自然に集まっているというのか?
ユユは俺の驚きなどまるで気にせず、動物たちに優しい視線を向ける。
『えへへー、ねー、みんななかよしだよねー』
テイムせずとも動物が集まる……なんという天然チートだ。
このままだと、俺の存在意義が薄れ、この物語は“北国の雪原で紡がれる、もこもこ動物と精霊と純真な幼女の癒やし成長物語”に成ってしまう。
俺は主役の一角だ!
せめて、ユユにとって唯一無二の“兄貴分”としてのポジションは確保しなければ……いや、違う!
今はそんな妄想をしている場合ではない!
この排泄物特訓は、俺の人としての尊厳に関わる問題だ。
何としてでも回避策を見つけなければ。
俺は、ユユの注意をそらすべく、頭をフル回転させた。
「ガウガウ(ユユにはもっと特別な使命に任命します。)」
『なに?ウンチよりだいじ?』
まさかの“ウンチ”基準に、俺は思わず言葉を詰まらせる。
しかし、ここで引けばアウトだ。
「ガウワオン(もちろん大事です。俺の弱点克服の修行に欠かせない重要な使命です。)」
俺は必死に言葉を選び、その“使命”の重要性を強調した。
ユユはキラキラとした瞳で俺を見つめる。
『なにするの』
ユユの真っ直ぐな問いに、俺は焦った。
まだ具体的な内容が思いついていない。
このままでは、せっかく引き離したはずの関心が、また排泄物特訓へと舞い戻ってしまう!
くっ。何か、何か適当な仕事をでっちあげて排泄物特訓を回避しなければ……。
『何するの?』
「ガ、ガァウ(そ、それは……ぁ……い……)」
苦し紛れに絞り出した言葉は“イ”。
ユユはそれを繰り返した。
『い?』
「ガ、ガァウァ(い……ぁ…)」
『い…いたいの?』
その問いかけが、俺に一筋の光明をもたらした。
そうか、イタチだ!
「ワンワン(イタチと仲良くなるお仕事です!)」
俺の言葉に、ユユは興味津々といった様子で身を乗り出した。
『イタチとなかよく?』
「ガウワオン(そう!イタチと仲良くなって修行に協力して貰おう!)」
俺は畳みかける。
何としてでも排泄物からユユの関心を遠ざけたい一心だった。
しかし、すぐにドリュアの冷静な声が飛んできた。
『モコオ、安易にテイムの能力を使うのは許可できません。』
くっ、やはりそう来たか。だが、ちゃんと考えてある。
「ガウガウアオン(いや、テイムじゃない、さっきの小動物たちの様に、自然と仲良くなって協力して貰いたいんだ!)」
ユユがテイムせずとも動物が集まる現象を例に出し、俺は純粋な“交流”であることを強調する。
ドリュアは深く頷き、熟考する姿勢を見せた。
『ふむ、テイムを使わずに自然にですか……』
これは好感触!さらに念を押す。
「ワンワン(もちろんドリュアが危険だと思ったら直ぐに止めるし、無理はさせない!)」
頼むドリュア、俺の人としての尊厳のため、どうか許可してくれと心の中で念じた。
俺の必死の懇願が通じたのか、ドリュアはフッと息を吐いて、
呆れたような、しかしどこか納得したような表情で頷いた。
『うむ、まぁ、動物の排泄物で遊び始めるよりは良いですか……』
よし!見事、許可が下りた!
後はユユの興味をウンチからイタチへと完全に向けさせるだけだ。
「ワンワフゥン(でも、ユユにはイタチと仲良くなるのは難しいかなぁ……)」
俺はユユの顔色を窺いながら、わざと挑発するように呟いた。
案の定、ユユの闘争心に火が付いた。
『むずかしくない!イタチとなかよくなる!』
「がう!(じゃあ、早速イタチを探そう!)」
『おー!ユユのほんきをみせるときだ!』
ユユはやる気に満ち溢れ、まるで新しい冒険が始まるかのように目を輝かせた。
ドリュアは、そんなユユの様子に苦笑しながらも、優しい声で注意を促した。
『あまりはしゃぎ過ぎてはいけませんよ。』
ユユの興奮とドリュアの穏やかな制止を背に、俺は即座に周囲の匂いを嗅ぎ始めた。
まだ冷たさの残る春の森の空気が、肺の奥まで染み渡る。
「……スゥゥ……クンクン……」
俺の鼻は、まるで匂いの地図を描くように、周囲の情報を正確に捉えていく。
頭上の木々にいる小鳥の、ふわふわとした羽根の匂い。
雪面を駆け抜ける小動物の、ほんのりとした土の香り。
そして、春の訪れを告げるように流れる小川の、澄んだ水の匂い。
あらゆる情報が、俺の意識の中で鮮やかに結びついていく。
その中で、獣の匂いが、俺の注意を引きつけた。
倒木の奥に身を潜めている、この匂いは……ひょっとしてキツネか?
まだ完全に特定できないが、間違いなく小動物とは違う、ある程度の大きさを持つ獣だ。
俺たちは、その匂いの出所へ向けて、慎重に、音を立てないように接近する。
視界の端に、その姿が捉えられた。
よし!イタチだ!!
幸運にも、目的のイタチを発見することができた。
ここからは、ユユの真価が問われる。
テイムの力に頼らず、その心をどれだけ動物に届けられるか。
俺は祈るような気持ちで、ユユに問いかけた。
「ァォゥ(ユユ、無理しなくて良いからな、仲良くなれるか?)」
ユユは、俺の不安などまるで感じていないかのように、自信に満ちた表情で答えた。
『ユユ、なかよくなってくる!』
迷いのないその言葉と共に、ユユはまっすぐにイタチへと歩み寄る。
野生のイタチは、すぐにユユの存在に気づき、体を低くして警戒態勢に入った。
しかし、ユユもまた、その小さな体で慎重に、静かに距離を詰めていく。
イタチは、周囲の気配をさらに警戒し、かすかに体を震わせた。
ユユは、その緊迫した空気を察したのか、そっと立ち止まり、警戒心を解くように雪の上に膝をついた。
その無垢な姿に、イタチの鋭い瞳が、わずかに興味を帯びてユユを捉える。
ユユは、その小さな変化を見逃さなかった。
さらにゆっくりと、一歩ずつイタチに近づいていく。
俺は、息をすることさえ忘れ、固く体を固め、その奇跡のような瞬間を見守る。
傍らのドリュアは、口髭を丁寧に撫でながら、温かい眼差しで、全てをユユに委ねていた。
新しい絆が生まれようとしている、そんな静かな期待が、森の空気に満ちていた。
ユユの小さな腕が、もう間もなくイタチに届こうとしていた。
その奇跡的な瞬間に、俺は思わず声を絞り出す。
「ガウアオン!(がんばれユユ!!)」
俺の応援が届いたのか、それとも届きすぎたのか。
俺の声を耳にしたイタチは、予測不能な動きを見せた。
ユユが伸ばしたその腕を、瞬時に踏み台にして跳躍し、見事にユユの頭上を飛び越えていったのだ。
俺はただ、その理解不能な光景を呆然と見つめていた。
イタチは、そのまま俺の目の前へと着地し、何食わぬ顔でこちらに尻を向けたかと思うと――
「ぷすぅーー」
信じられないほどの、強烈な悪臭が鼻腔を突き抜けた。
それは、嗅覚が弱点である俺にとって、まさに致命的な一撃だった。
「ギャン(鼻がーーー)」
意識が遠のき、視界が歪む。
ユユは、突然の出来事に何が起こったのか分からないといった様子で、ただ呆然と振り返り、その光景を見つめていた。
「キャンキャン(目がーーー)」
薄れゆく俺の意識の中で、悪臭の元凶であるイタチが、まるで勝利を確信したかのように両腕を上げ、勝ち誇っていた。
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