第十五話

 この時期の冬は、日差しこそ時折暖かさを届けるものの、 空を渡る風は確実に冷たさを増していた。

 森を吹き抜ける風の匂いにも、冬の深まりが色濃く感じられるようになってきた。


 日中の冷え込みが日ごとに厳しさを増していく中で、それでも雪が降らない穏やかな午後には、ユユとふたり、白い雪原を所狭しと駆けまわることが日課となっていた。


 まるで運動会のように、全身で冬を楽しみながらじゃれ合うのだ。

 

 白い吐息が混じり合うほど近くで、甘噛みをしたり、肉球と小さな拳で軽くパンチを繰り出したり。

 森の中には、俺たちの楽しげな笑い声と朗らかな鳴き声がこだまし、凍てつく空気を震わせる。


 体の芯からぽかぽかと温まり、厳しい寒さもどこかへ吹き飛んでしまう。

 この、ユユとの無邪気な時間が、深まる冬の森で何よりの温もりを与えてくれた。


 そんな日々の中で、狩りの腕も少しずつ上達していた。


 中でも、ベビーホーンラビット、略してベビラビとの実戦形式の訓練は、その真価を発揮している。

 その俊敏な突進を、俺はもはや寸前のところでいとも簡単に回避できるようになっていた。


 それは、単なる反射神経の向上ではなかった。

 体が、俺の意識が判断を下すよりも一瞬早く、完璧な動きを紡ぎ出すような感覚なのだ。

 回避から反撃への流れるような連携、一撃を叩き込む最適なタイミング。

 そのすべてが、練習を重ねるごとに鮮明になり、確かなものとなっていく。


 この目覚ましい成長こそが、俺の修行への飽くなき情熱に火をつけ、さらに過酷な鍛錬へと駆り立ててやまなかった。


 ――風は冷たくとも、心は不思議とあたたかい。そんな日々だった。


 その日も俺は、いつも通りユユと雪の森を駆け回っていた。

 ドリュアは、そんな俺たちの様子をいつもの定位置から口髭を整え静かに眺めている。

 ふと、一本の太い木の陰、雪をかぶった倒木の隙間から、もぞもぞと動く普段はあまり見かけない動物の姿を見つけた。

 本格的な冬に備えるためだろうか、小さな木の実を抱え込んでいる。

 あれはリス……いや、リスにしては体が大きく、何より長い。

 フェレットか、それともイタチの仲間だろうか? 昔、人間だった頃に動物園で見たような記憶がおぼろげにあるものの、正確に判別することはできなかった。


 だが、珍しい動物を見たことで、俺の子いぬ……子狼としての好奇心が一気に爆発した。

 考えるよりも早く、そのイタチらしき動物目指して全速力で駆け出していた。

 背後からはユユの「まってー!」という声が聞こえてくるが、もう止まらない。いや、止められない。

 そんな俺の姿に気づいたイタチは、獲物を守るように身構える。


 俺は躊躇せず、狙いを定めた。

 この勢いのまま、衝撃のファースト肉球パンチをぶちかましてやろうと、歯を食いしばり、鼻から大きく息を吸い込んだ。


「すーっ」


 その瞬間、イタチは器用に振り返りざまに、プリッと尻を突き上げた。


「――ぷすーーーーーっ」


……ぅ、ぐ、っ、くさっ……!?


 鼻を直撃する臭気。目がしみる、脳が震える。

 尋常ではない異臭はまるで、踏みつぶした銀杏の実と不衛生なおっさんの靴下を煮しめた様な激臭が、一瞬にして俺の鼻腔を容赦なく襲う。

 あまりの衝撃に、俺は思わずその場にへたり込んだ。


「ギャオーーーーーン!!」


 意識が遠のく直前、俺の視界に映ったのは、後ろ足で立ち上がり、両手を高々と挙げたイタチの勝利のポーズだった。


 次に俺が意識を取り戻したとき、俺はユユの小さな腕に抱えられ、大樹の寝床へと搬送されている最中だった。


 全身の脱力感と、まだ鼻腔に残る劇臭に意識が朦朧とする中、さらなる追い打ちがかかる。

 横では、ドリュアがいつもの優雅な浮遊姿勢を保ちながら自慢の口髭をいじり、その口からは容赦ない説教&説教の嵐が降り注いでいた。


『あなたは馬鹿なのですね。』

 まるで幼子を諭すかのように、彼は冷徹な声で言い放つ。


『あれほど相手のこと自身のことを学べといったのに。嗅覚が強いということは、逆に弱点にもなりえる。あれほど自分の能力を把握しろと言ったでしょう。』

 俺の失態をこれでもかとばかりに指摘され、まるで頭が真っ白になるようだ。だが、それだけでは終わらない。


『戦闘は、力や速さだけではないのです。知識と判断が伴って初めて勝利へと至る。感覚任せの突撃など、ただの自滅行為。』


『それに、近距離に持ち込んで有利になる相手と、そうでない相手の違いくらい、そろそろ学んでください。尻を向けた相手がすべて逃げ腰とは限らないのです。』


『どんなに技術が上がっても、突発的な好奇心に負けたら意味がない。 』


『ユユとの遊びも同じです。じゃれつくばかりで、自分の体力配分を考えていますか? 直前まで全力で転げ回っておいて、戦闘時に足がもつれるなど言語道断。』


『無邪気なのは良いですが、度が過ぎると怪我のもと。あなたにとっては何気ない甘噛みでも、ユユにとっては力の加減を覚える真剣な稽古になりえます。彼女の成長のためにも、もっと思慮深く行動すべきです。』


『そして、生活全体に言えることですが、あなたは効率というものを理解していません。食料の貯蔵方法、居住空間の整備、どれをとっても改善の余地がある。この極寒の地で生き抜くためには、無駄をなくし、常に最善を尽くす必要があります。あなたの能力は素晴らしい。ですが、それを活かすも殺すも、あなたの知恵と自覚次第なのですよ。』


『最近調子に乗りすぎです。』


『ちなみに、最近また体重が増え気味ですね。注意が必要です。』

 今回のしくじりとは全く関係ない、日常の小言までが加わり、俺はひたすら耐えるしかなかった。


『うんうん、いたちつよかった!』

 最悪なことに、ユユまでもが、ドリュアの言葉に合わせて楽しげに頷いているではないか。


 完全にボロ負けだった。イタチに、ドリュアに、ユユに……俺は三重の敗北を喫した。


 まったく、さんざんだ。まだ鼻がおかしくなっている気がする。


 今回の屈辱的な経験で、俺の嗅覚無双が強すぎる臭いには弱点になるという、学びたくもない教訓を、よりにもよってイタチのすかしっ屁で学ばされてしまったのだった。

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