第十一話
重い足取りで森の奥へと進む。
ユユに抱っこされているとはいえ、気分はどん底だ。
しかし、ドリュアは歩みを止めない。
仕方なく、俺も鼻をひくつかせ、獲物の匂いを懸命に探った。
「……すぅぅ……クンクン……」
すると、風に乗って、あの不快な匂いが鼻腔を刺激した。
いつもの魔獣の臭い。
それは前回よりもずっと濃く、まるで空気にねっとりと張り付いているかのようだ。
──なんだこれ……前回よりやばい匂いがするぞ……。
胸騒ぎを覚えながら、匂いの元へと慎重に進んでいく。
やがて、視界が開けた先に現れた光景に、俺は思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、一匹二匹ではない。
ざっと数えるだけでも、七匹のコブウサギの群れだった。
雪原を埋め尽くすように、赤い目をギラつかせた異形のウサギたちが、警戒心むき出しでこちらを見ている。
「ワフ……ワフワフ!(ちょ、ドリュア!
まずいまずいって!
こんなの、無理だろ!
逃げよう、逃げようぜ!)」
俺はユユの腕の中から身をよじり逃げ出し、ドリュアに念話で訴えかけた。
一匹でさえ満身創痍になったのに、こんな群れに突っ込むなど、自殺行為だ。
しかし、ドリュアは冷静なまま、静かに口を開いた。
『問題ありません。』
――一瞬だった。
ドリュアが片手をすっと前に伸ばす。
その指先に、青い光の粒が集まり……次の瞬間――
それはまるで冬の空気が凝縮したような、凛とした冷たさを帯びていた。
ドリュアが指先をすっと動かすと、光が滑るように地面を走り――
群れていたコブウサギたちの足元に広がっていく。
ぴたり、と一瞬空気が凍った。
「……ピギィィ……!」
奇妙な悲鳴とともに、ウサギたちの足が、地面ごと凍りついた。
「ワフッ!?」
何が起こったのか、俺には全く理解できなかった。
ただ一匹、群れの端にいたコブウサギだけが、氷の範囲から逃れ周りを警戒しながらこちらを睨みつけていた。
『それでは残った一匹で本当の狩りというものを教えて差し上げましょう。』
その言葉と共に、ドリュアの体がふわりと宙に固定された。
しかし、その顔に、一瞬だけ、微かな疲労の色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。
まるで、彼自身も知らぬ間に重い息をついたかのように。
『ご安心を。
意識を失うほどではありません。
ですが――』
ドリュアは目を細め、宙を見つめる。
『……精霊の魔力は、眠りと結びついています。
過剰に使えば、深い眠りへと誘われる。
あなた方の"疲労"とは少し異なるのですよ。』
ドリュアは、ユユと後方に移動しながら、何事もなかったかのようにそう言い放った。
その表情には、若干の疲れは見えるものの、一切の躊躇や罪悪感がなく、まるで庭の雑草を抜いた程度の軽いものだった。
──まさか、魔法って、こんなにもあっさり、ここまでやれるのか!?
俺は呆然と、足が氷漬けになったコブウサギの群れと、移動するドリュアを交互に見た。
頭が、真っ白になった。
『ぼやぼやしてないで、私の指示通り動きなさい。』
ドリュアからの念話が、脳に直接響く。
その声に、俺の頭は、まるで冷水を浴びせられたかのように、ガツンと現実へ引き戻された。
『ウサギは基本突進攻撃しかしません、まずは冷静に躱しなさい。』
「ワフッ!」
と同時に、凍りついた群れの中で唯一動けるコブウサギが、その赤い目を血走らせて、俺めがけて一直線に飛びかかってきた。
俺は、まだ完全に思考が追いつかない頭で横に飛び回避した。
真っ白だったはずの思考が、一気に色を取り戻す。
『そのまま前にある木の根元まで距離を取り逃げなさい。』
「ガウッ!」
俺は指示に従い木の根元まで一目散に逃げ、木を背中にしコブウサギを視界に捉えなおす。
『そのままコブウサギを待ち受け突進してきたら避けなさい。』
コブウサギはドリュアの言う通り俺めがけて突進し――
――ここだ!
俺はドリュアの指示通り、最適なタイミングで体を横に逸らした。
まだマルマルの体で、決して華麗なる身のこなしではないが、コブウサギの動きをよく見ていたせいか余裕をもって避けた瞬間――
――バガン!!
ド派手な音が俺がさっきまで居た木から聞こえた。
――何だ!!
振り返り確認すると、木に頭から突っ込み目を回しているコブウサギが倒れていた。
『早くとどめを刺しなさい。』
「ガッ(え?)」
あまりにもあっさりした幕切れに、俺は意味を理解できずに呆然としてしまった。
――ボン!
「ガァ?(うえぇ?)」
呆然としている俺を馬鹿にするかのように、ドリュアが魔法でド派手にコブウサギを消し炭にする。
『とどめを刺しなさいと言ったはずです。』
「ワフン……(いや、だって、あんなに呆気なく……)」
俺は地面に転がるコブウサギの残骸と、涼しい顔で宙に漂うドリュアを交互に見て、頭をガシガシと振った。
『とっとと帰りますよ、モコオ。
まだ日が完全に暮れる前には大樹に戻れます。』
ドリュアに促され、俺たちは大樹の洞へと戻る道を歩き始めた。
帰り道。
大樹に向かって、俺たちは森をのんびり歩いていた。
太陽は空を赤く染めているが、日が暮れるまではもう少し時間がある。
「グルルゥ……(いや、でもさ……)」
俺は不満を飲み込みきれず、思わず低く唸った。
「ガウガゥ、ガフッ(こっちは体を張って、満身創痍で、血も出して、必死こいてやっと倒したってのに……)」
『何か言いましたか?』
「クゥン……(いえ、なんでもないです)」
ドリュアは、こちらを一瞥もせず、ユユの肩のあたりを漂ている。
『あのコブウサギは、正式名称をベビーホーンラビットと言います。』
「ワフ?(ベビー……?)」
『ええ。
そして、その名の通り、あれはまだ幼体、特定の条件を満たすと、ホーンラビットへとクラスチェンジするのですよ。』
ドリュアの説明に、俺は思わず足を止めた。
クラスチェンジ?
進化ってことか?
『ベビーホーンラビットは基本群れで行動します。
頭の角は、あくまで頭部のコブ。
しかしホーンラビットとなれば、そのコブが鋭利な角へと変化し、体もひと回り大きくなります。
性質もより攻撃的になり、氷魔法一発では足止めにもなりません。』
あれで“ベビー”!?
あの跳躍力と突進力で!?
ドリュアの声は平坦だが、その内容は恐ろしかった。
つまり、俺は今まで、その幼体とばかり戦っていたというのか。
『私の魔法は確かに強力ですが、まだ幼体のベビーホーンラビットだから一撃で倒せているのです。』
ドリュアの淡々とした説明に、俺の興奮は急速に冷めていった。
つまり、俺が「手強い相手」だと思っていたのは、まだ赤ん坊だったというのか。
その事実に、じわりと恥ずかしさがこみ上げてくる。
『モコオ、あなたはまだこの世界で目覚めたばかりで、あまりにも知識がありません。』
「ワフ……(知識……?)」
俺は小さく唸った。
前世の知識はあっても、この世界のことは全く知らない。
魔物一つにしても、ただの“コブウサギ”だと思っていた相手に、そんな進化の段階があったとは。
自分の無知を突きつけられたような気がして、胸の奥がざわついた。
『もっと知識を蓄えなければなりません、知識は力です。』
知識が力。
その言葉に、今、初めて本物の重みを感じた。
ただ生きるためだけでも、この世界では膨大な知識が必要だというのか。
それは、前世の勉強とは全く違う、命に直結する学びだ。
漠然とした不安が、胸の奥で渦巻き始める。
『敵の事を知り、自分がやれることを把握するのです。』
自分のやれること。
自分の限界。
そして、敵の恐ろしさ。
今回の狩りで、その両方を嫌というほど味わった。
しかし、ドリュアの言葉は、まるでその全てを最初から見通していたかのように響く。
『場合によっては生きて逃げ帰り、敵の力を見極めてから戦わなければいけません。』
逃げる。
その選択肢が、この世界では“生き残る”ために不可欠なのだと、ドリュアは明確に告げる。
『でなければ、ケガだけでは済みません。』
ドリュアの念話が、喉元に刃を突きつけられたような感覚を呼び起こした。
それは脅しではない。
紛れもない真実だ。
この世界の厳しさを、彼は決して隠そうとしない。
その事実が、俺の背筋を凍らせた。
自分の命が、想像以上に危うい綱渡りの上にあったのだと、今更ながらにゾッとする。
『だうじょうぶ!
ユユとモコオいっしょだよ!
ね、ドリュア!』
ユユが振り返り、八重歯を見せながら、俺の沈んだ心を温め浮かび上がらせるかのような感情とともに無邪気に笑っている。
それは根拠のない励ましかもしれないが、今の俺にはとてつもなく暖かい励ましの感情に思える。
ドリュアが普段にもまして苦虫をかみつぶしたかのような念話が届く
『そろそろ仲間が到着するかもしれませんが、モコオは覚悟しておいてくださいね。』
ユユのおかげで浮き上がった俺の心を沈ませるような念話であった。
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