第三話 渦巻く不安

 二人が帰ると、千代は首の関節を鳴らしながら、キャベツを両脇に抱える。まだ瑞々しいキャベツは、千代の白い割烹着を濡らした。キャベツを両脇に抱えたまま、千代は夢美の手を握る。


「夢美ちゃん、お腹空いたろ? ばあちゃんが今

煮物持ってくるからね」


夢美は再び居間に座らされた。すっかり表面が干からびた西瓜が、夢美の目の前にある。夢美はゆっくりと、西瓜を口に運んだ。干からびた西瓜は水分が抜けており、甘みもなく美味しくなかった。夢美は無言のまま西瓜を置く。


「ほら、これ全部ばあちゃんの畑で採れた野菜だべ」


千代が大皿を夢美の目の前に出す。鍋から取り出したばかりなのか、煮物は僅かに湯気が漂っていた。たい焼きを模した箸置きには、漆塗りの箸が置かれている。汁気たっぷりの里芋と人参が、大皿の中にあった。夢美は恐る恐る、煮物を口に運ぶ。熱い煮物が歯に当たり、夢美はしばらくハフハフと口の中で煮物を転がしていた。醤油と味醂みりんが混じった煮物の熱い汁が、喉を通っていく。煮物をゆっくりと齧りながら、夢美は喉に運んで行った。塩気のある食べ物に、夢美の食欲が僅かに動く。時間をかけながらも、夢美は煮物を一つ一つ口に運んだ。夢美が食べ終わった頃には、風呂が炊き上がり、汗ばんだ千代が居間に入ってきた。


「あら、煮物うまかったんべか? ちょうど風呂も沸いたんべ、夢美ちゃん先入りよ」


千代の言葉に、夢美は自信なさげにうなづく。キャリーバッグからお風呂セットを取り出し、夢美は長い廊下を歩いた。橙色の薄暗い電灯に照らされ、廊下はどこか不気味だ。ペタペタとスリッパの湿った音だけが響く。持って来たバスタオルに身を包ませ、夢美は風呂場へと向かった。


 東京でのユニットバスとは違い、こぢんまりとした五右衛門風呂の中で、夢美は小さく縮こまっていた。沸き立つ湯が夢美を包み、蒸されるような暑さが部屋中に漂う。夢美はしばらく、ぼうっとした様子で窓を眺めていた。網戸越しに、蛙の大合唱が聞こえてくる。嗅ぎ慣れない草の匂いに、夢美の中で不安が渦巻いた。私はここに、果たして馴染むことができるのだろうか? 病気が治らないのと一緒で、ここに来ても何も変わらないのではないか? 肥大化する不安から逃れるように、夢美は鼻まで湯船に浸かった。水面に、朧げな自分の顔が浮かぶ。影を落としたその顔は、不安に満ちていた。


 風呂上がりに、夢美は千代に自分の部屋まで案内された。二階の一室。かつて幼少の頃に夢美が使っていた部屋だ。夢美が電灯を付けると、手入れが行き届いた部屋が広がる。乾燥機にかけたての香りがする羽毛布団。布団を囲むように吊るされた蚊帳。枕の側にある扇風機は、既に部屋を冷やしていた。生まれ育ったはずの部屋であるはずなのに、夢美は自分の部屋のように思えない。まるで全て塗り替えられてしまったようだ。寝巻きに着替えていた夢美は、長旅のせいか微睡み始めている。


「もう今日は遅いから、早く寝るだんべ」


千代はキャリーバッグを押入れに入れる。布団に寝転がる夢美に、千代はそっと毛布をかけた。柔軟剤の甘い香りにつつまれ、夢美はしきりに瞬きをする。千代は電灯を豆電球に切り替え、部屋の扉をゆっくり閉じた。


 暗い部屋の中、夢美はしばらく物思いに耽る。眩いほどの都会の光は、今や豆電球に変わっていた。電球の裏側に、黒点のように張り付く虫。蠢く虫の姿は、夢美の不安を駆り立てた。ぼんやりと浮かぶ電球の光に、夢美は忠治の顔を思い浮かべる。夕方の忠治のこちらを見る顔。あれはよそ者をよく思っていないような顔だった。私は歓迎されていないのだろうか。蚊帳に包まれた布団も、病室のベッドのようだ。まるで、ここでも腫れ物のように扱われているような思いに駆られ、夢美の胸は苦しくなる。頭に吹き付ける扇風機の風も、嫌に生暖かい。不安を拭い去るように、夢美は枕に顔を埋める。目を閉じようとするが、目を閉じても眼球が暗闇の中で動くだけだ。長い長い夏休み。その初日で夢美の中は、不安で満たされていた。

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