ひと夏のサナトリウム

一途貫

第一話 帰郷

 電車に揺さぶられて、宇津保うつほ 夢美ゆめみは重い瞼を開ける。ワンマンの私鉄の中は、もはや降りる人はいない。ただ一人まどろむ少女だけだ。少女は目を擦り、窓から外を見た。少女が見慣れたビル群は消え、緑が辺り一面に広がる。平地一面に広がる畑を、ビルより遥かに高い山々が見下ろしていた。行き交う車の群れは消え、懐中電灯を持った人が、時折あぜ道を歩いている。遠い記憶。少女の頭の片隅にある朧げな記憶の中に、その光景はあった。少女は流れゆく田舎の原風景を、ただじっと見ている。


 夢美は三歳の頃、東京に移り住んだ。両親が大荷物を抱え、自分の手を引いて電車に乗り込んだ事を、夢美は今でも覚えている。悲しげな両親の顔。物心つかない少女には、故郷を離れるという感覚が分からなかった。ただの旅行としか感じることができない。たとえそれが永久に故郷を離れることを意味しても。夢美が車窓から顔を覗かせると、村の人達が自分達を見送っている。その人達の顔は、夢美がもはや思い出せないほど遠ざかっていた。

 それからの十年の記憶で、夢美の記憶は塗り潰されていた。病気の治療の為に東京に移り住んだ夢美だったが、そこで見てきたのは異常なほど白い病室と、毎日の問診の連続だ。夢美は生まれつき心臓が弱い。まるでガラスケースに入った割れ物のように、夢美はこの十年を過ごしてきたのだ。クラスの同級生達と話を弾ませる事も、休み時間にグラウンドへ遊びに行くことも出来ない。だが、夢美はそんな生活に疑問を持つことなく、毎日の検査を受けている。病状は良くなる事はなく、夢美は駆け回る自由への憧れは消えていた。そんな中、夢美は療養の為に、十年ぶりの故郷に帰ってきたのだ。もはや忘れ去った故郷に戻れる事は、心躍るものではない。だが、過ぎ去りし故郷の面影が、夢美を離さないのだ。


「まもなくぅー、神流かんな駅ー。神流かんな駅ー。終点です。どなた様もお忘れものの無いようにお降りくださーい」


威勢の良い車掌の声に、夢美はゆっくり瞼を開けた。夕闇が空を覆う頃、電車は終点で止まる。ドアが開き、夢美は下車の準備をした。重いキャリーバッグを掴み、夢美は顔を歪めながら電車を降りる。両手でキャリーバッグを引きずり、よろめきながら、夢美は車両を降りた。


「あんれまぁ、夢美ちゃん。まぁ来たんべ」


ウェーブのかかった白髪の老婆が、駅のホームまで来ている。老婆は嬉々として、夢美のキャリーバッグを受け取った。馴染みの無い、訛りが入った言葉で、老婆は夢美を歓迎する。夢美の頭の片隅には、その老婆の姿があった。彼女は夢美の祖母、倉賀野くらがの千代ちよだ。野良仕事帰りの汚れた割烹着かっぽうぎの袖をたくし上げ、千代は夢美の肩を支える。土の香りが、僅かに割烹着から漂った。


「東京はなっから暑かっただんべ? ばぁちゃん家来ぇ」


千代は片腕でキャリーバッグを抱えながら、夢美の手を引く。後ろからは発車の警笛が鳴り響いた。電車の揺れる音が遠くなると、夢美の足どりも重くなる。けたたましく鳴る踏切も、ざわめく稲穂も、全てが夢美の不安を掻き立てていた。夢美はされるがまま、千代の軽トラックの助手席に乗せられる。知っているはずの祖母であるのに、夢美は落ち着かなかった。砂利道を跳ねるように、軽トラックは進む。暗くなりつつある道は、蛙と虫の声が覆っていた。


 ひぐらしの鳴き声が暗い森に響く頃、夢美は千代の軽トラックの荷台からキャリーバッグを下ろしていた。長旅で、新品のように白いバッグは、灰色にくすんでいる。千代は手を震わせる夢美の手からバッグを取る。歳を重ねた手だが、その腕は畑仕事で鍛え上げられたがっしりとしたものだ。


「大事けぇ? 夢美ちゃん。うんめぇもんちゃんと食わんと、体壊すだんべ」


千代は夢美の代わりに家の引き戸を開ける。夢美は申し訳なさそうに俯いた。夕暮れとはいえ、残暑が夢美の体の中で燻る。屋内で過ごすことの多い夢美には、立つことさえままならない暑さだ。千代は居間に夢美を座らせる。乳瓶に植わったポトスが、所狭しと夢美に手を伸ばす。部屋中に線香の匂いが漂っていた。部屋の隅にある夢美の祖父の仏壇は、盆用に装飾されており、迎え火が揺らぐ。白黒写真の祖父の遺影を、夢美はしばらくぼんやりと見ていた。洗い立ての茄子と胡瓜の飾りが、遺影の前に置かれている。夢見は落ち着かない様子で、掘り炬燵の上で足をぶらぶらさせた。


「婆ちゃんの畑で西瓜取れたんべ、んまいから、夢美ちゃん食えな」


千代が夢美の前に西瓜を出す。小さく切り分けられた西瓜はまだ瑞々しく、皿の底が汁で満ちていた。夢美は皿に添えられたフォークを取ろうともしない。緊張と違和感で過度に引き絞られた胃は、西瓜を受け付けなかった。青白い顔で、夢美は首を振り続ける。 


「大事けぇ? どっか具合悪いんか?」


「ううん、ちょっと疲れただけ。ありがとう、おばあちゃん」


心配そうに顔を覗き込む千代を避けるように、夢美は立ち上がった。表面が渇き始めた西瓜が目につく。

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