第2話 兵学の才

 山田市之丞、十四歳。彼が松下村塾に入塾してから数カ月が経った。この塾では塾生同士が交流、議論を重ねることで知見を深める教育方針だった。彼は入塾して早々衝撃を受けることになる。

 議論は書物や筆が飛び交うほどに白熱しており、それを塾の主宰者、吉田松陰がにこやかに見守っている。なかなかに奇妙な光景である。尤も元来気が弱い市之丞はこれに圧倒されてばかりだ。


「最早時間は残されていない! 即刻天皇陛下を国家の中心に据え、一君万民の体制で異国と相対するべきでは!」

「先行して夷狄いてきを排すべきであろう! 内部に敵ありて戦に勝った例はない!」


 特にこの時代、日本の主要な課題になっていたのは続々と来航する外国勢力との付き合いだ。日本の統一政権たる幕府は制限的に外交を行っていた、世に言う「鎖国」体制を大きく転換させて、各国に港を開き開放的な外交政策を執り行うようになった。

 しかしながら、それを拒む者達が現れる。各地でこれらの外国勢力を排斥せよ、と幕府に抗議する人々が出現したのだ。

 夷を攘う。以てこれを攘夷論と呼ぶ。

 特に時の天皇が幕府の姿勢を嫌い、これを批判した。元来尊王思想、すなわち天皇を尊ぶ思想が強い水戸藩(現在の茨城県)にて尊王思想と攘夷論が結びつき、瞬く間に日本を席巻したのだった。

 この松下村塾においてもそれは例外ではない。特に徳川家に対しての敵愾心が強いこの藩では尊王攘夷論は歓迎されたのだった。


(確かに外国の圧力は問題だ。ゆくゆくは国益を損なうかもしれない。でも今の日本に外国と戦える力なんてあるのだろうか?)


 市之丞は兵学を修めている。浦賀に来航した黒船の話も人伝いではあるが聞いている。曰く、城の天守のように巨大な船だった、とか。

 それほどの船を作れる国を相手にして、今の日本は勝ちを得ることができるのだろうか。市之丞はぼんやりと考えていた。


「やっぱりこの空気にはまだ圧倒されるかな?」

「久坂さん」


 後ろから長身の男、久坂玄瑞が市之丞に声をかけた。


「……みんな尊王攘夷の論に熱くなっていますね」

「今の時代で最も勢いのある思想だからな。君はこの思想、どう思っている?」


 市之丞はわずかばかり考えた。


「何を以て攘夷とするのか。それを考えています。異国との戦は必然的に守戦になる。異国は遠い地にあり、我々は既に間合いに踏み込まれている」

「ほう」

「黒船を作れる異国の国力が桁違いなのは異論ないと思います。かの国々を相手に日本は消耗戦を強いられることになる……」


 市之丞の論を聞いた玄瑞は破顔した。


「ははは! やはり君は良いな。一歩下がって物を見ることに長けている。兵学の知識も豊富だ。もっと自信を持っていいのではないかな」

「一歩下がって物を見る、ですか」

「ああ、そうだ。大業を成すには熱意が必要だ。しかし視野が狭くなると大きな過ちに繋がることがある」


 玄瑞は塾生たちを眺める。


「彼らの気迫は目を見張るところがあるが、この熱狂がどこへ向かうのか、それには心配がある。かく言う僕も昔は彼らと一緒だった」

「久坂さんがですか? 意外です」


 玄瑞は恥ずかしそうに頭をかく。


「昔、松陰先生に喧嘩を売るような手紙を送ったことがあってね。今思えば若気の至りだった……」

「温厚な久坂さんが……。意外です」


 松下村塾の中でも穏健なところがある玄瑞の意外な過去に市之丞は驚いた。内容を聞くところによると、松下村塾に入る前は急進的な攘夷論者で外国に密航しようとした松陰を国を捨てようとした不埒者だと思っていたそうだ。自身の軽率な考えを懇々と諭され、改心した玄瑞は入塾したのだとか。


「僕は尊王攘夷は目指すべきものだと思うが、そのために無益な死人は出したくない。松陰先生が説く理念はそのようなものじゃないと思うのだ」

「松陰先生の理念……」

「草莽崛起……。民衆が一つになり異国に負けない国を育てなければいけない。先生が仰っていたことだ」


 この時代、偶然か必然か民衆が団結して既存の社会や政府を打倒する事例が多くある。日本に来航したアメリカの独立もこの頃から100年ほど前。ヨーロッパではイタリアの統一運動が若者たちにより成し遂げられている。

 まさに後の世の民主主義に繋がる萌芽である。


「民衆が団結……。それは可能なのでしょうか」


 日本は決して一枚岩ではない。全国に数多の藩が別れ、それらが各々の思惑で動いている。日本という国の中に数百もの大小の国々が存在する状態なのだ。

 さらに日本には明確な身分制度がある。武士は子々孫々まで武士であり、農民は子々孫々まで農民。それが現実だった。


「難しいかもしれない。だがこの考えに僕は感動したんだ。命を賭けて実践するに値する」


 その時、市之允は悟った。根の部分の玄瑞の熱く狂気的な部分を。あくまでそれを理性と知性で抑えているだけなのだと。

 同時にそれだけ熱くなれる生き方に憧れと羨ましさがある。そこまで熱くなれた経験が彼には無いのだ。


「僕の生まれは医者の家系だ。本来は武士なんかじゃない。それでもこの時代に生まれ、松陰先生に出会い国のために働く道を得た。これを無駄にしてはいけないと思うんだ」

「僕は……、僕はまだ自分がどういう道に進めばいいのか、わからないです」


 自分は久坂さんのように賢くなければ、人を率いる器があるわけではない。市之丞は自分がこの塾にいることが不相応に思えた。


「焦る必要はないよ。松陰先生が君の入塾を認めたんだ。それに君には将帥としての才があるように見える」

「将帥の才……」


 とても自分にそのようなものがあるようには思えない。他者に怯え、自分に自信を持てない人間にそのようなものがあるのかとさえ思った。何よりも兵学は戦の学問であり、究極的には人を殺める術でもある。そのような才能は本当に良いものなのかと市之丞は考える。


「僕は、兵学、というよりも戦が良いことには思えないです。どれだけの大義を並べても、戦は殺人であることに違いはない」


 ふむ、と玄瑞は一瞬考えた。その上で市之丞に向き合う。


「確かにそれには一理あるのかもしれない。だが戦いを選択せざるを得ない時もあるのだと思うよ。君の能力は戦いを決断せねばならない時、多くの人を助ける力になるのではないかな」


 玄瑞は懐中から数枚の書状を出した。文字の書体は非常に荒々しい。書き手の激情がそのまま乗っかっているようだ。


「これはかつて僕が松陰先生に送った手紙だ。外国の使者を斬るべしなどと無茶苦茶な事を書いたものだ。それに比べれば君は穏健だ。君は感情に任せて多くの人を死なせるようなことはしないだろう。そういう人間こそ軍の指揮官に相応しいんだ」


 玄瑞の言葉に少し市之丞は前向きになれた気がした。

 

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