最終話 『となりの部屋のひみつごと』
――夕方のオフィス
いつも通り仕事を片付け、定時で帰ろうとパソコンをシャットダウンしたとき。
ふと隣のデスクを見ると、入社三年目の山根さんが真っ青な顔で資料に囲まれていた。
思わずはるかは声をかける。
「山根さん、大丈夫?帰れそうですか?」
「……今日中の案件が多すぎて、とても終わりそうになくて」
はるかは一瞬迷ったが、すぐに笑みを浮かべた。
「じゃあ、一緒にやりましょうか」
「え、春日さん…いいんですか?」
二人で分担して進めると、なんとか夜十九時を少し過ぎたころに全て片付いた。
「春日さん……ありがとうございます。本当に助かりました」
半泣きで安堵の笑みを見せる山根さんに、はるかも「お疲れさまでした」と返す。
そのやりとりを見ていた隣の島の二人が、思い切ったように声をかけてきた。
「春日さんって〜、なんか雰囲気変わりましたよね」
「うんうん、前より話しかけやすい気がする」
はるかは少し驚き、けれど頬を赤らめて笑った。
「…そう…ですかね」
その笑顔は、もう無理に作ったものではなかった。
背後から「お疲れさまでした」と声が飛ぶ。
トレンチコートを羽織り、社屋を出る。すっかり外は暗くなり、街灯が広がっていた。
***
ドームツアー千秋楽のステージの翌日に突如Alice*Dollの公式サイトで発表されたその知らせ。
――水瀬ルナ、年内で芸能界引退。
公式サイトに掲載された直筆コメントには、こう綴られていた。
『ここまで歩んでこられたのは、応援してくれたファンのみんなのおかげです。
一つひとつの想いが、わたしの宝物になりました。
これからは、新しいことに挑戦し、
自分自身の人生を歩んでいきたいと思います。
どうかこれからも、みんなの毎日が輝きますように。ありがとう。』
ネットもテレビも騒然となり、SNSのタイムラインは「なぜ」「どうして」の言葉で埋め尽くされていく。
ファンの声、憶測記事、専門家のコメント。
どれもがはるかにとっては虚無なものだった。
そしてあっという間に年末が来てしまい、水瀬ルナは表舞台から姿を消した。
ルナがAlice*Dollからいなくなった後も、世界は淡々と、何事もなかったように回り続けている。
田崎さんにプロポーズを断ったあと、結婚相談所にも「退会します」と伝えた。
しずくと再会した、あのガラス張りのビルに行く理由がなくなった。
あの場所でまた会える気がして、仕事帰りに何度か近くを通ってみたりもした。でも、三度目の偶然はもう訪れなかった。
「もう、ルナにも──しずくちゃんにも会えない」
そんな事実に自分だけが取り残されたような感覚のまま、日々を過ごす。
はるかの胸に残っているのは、ただひとつ――深い空洞だけだった。
***
ある日の夜。
その日も仕事から帰ったはるかは酎ハイと作り置きのおかずと共に、机に向かってペンを走らせる。
万年筆のインクの匂い、紙を擦る音。
その小さな手触りだけが、自分を現実につなぎ止めていた。
書いているのは夢小説。
管理人をしている自分の部屋の隣に、ある日引っ越してきた女の子。
秘密を握られ、少しずつ距離を縮めていく。
その子が実は――アイドル、水瀬ルナだった。
ページをめくるたび、胸の奥がじくじくと疼く。
笑顔も、泣き顔も、拗ねた顔も、全部脳裏に、指先に甦ってくる。
今日、その小説の結末を書き上げた。
お互いに離れて、違う相手と幸せになる――そんな少し切ないビターエンド。
本当は、夢小説の中くらいハッピーエンドで良かったのかもしれない。
でも、それを書く勇気は出なかった。
もしも幸せな結末を描いてしまったら、余計に虚しさが押し寄せてしまう。
だから苦い終わり方にすることでしか、現実を受け止められなかった。
ふぅ、とため息をついてノートを閉じる。
表紙には、半ば自嘲めいてつけたタイトル。灯りがそのタイトルを照らしていた。
***
テレビを観ながらぼーっと一人まどろんでいたその時。
不意に、インターホンが鳴った。
「……はい?」
ガチャリとドアを開けると、その向こうに、小さな影が立ち尽くしていた。
薄暗い廊下の灯りに照らされて、肩が小さく上下している。
震える指先をぎゅっと胸元に握りしめ、視線だけがこちらをまっすぐに射抜いてくる。
乾いた唇が小さく動いた。
息を吸う音。吐く音。
その全部が、夢と現実の境目を曖昧にする。
「……ただいま」
時間が止まったみたいに、胸の奥が熱くなった。
夢に何度も見たあの瞳。
少し眠そうなとろんとした、潤んだ瞳が、まっすぐにはるかを見つめていた。
「しずく……ちゃん……!?」
声が震える。
その名前を口にした途端、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
一歩。二歩。
そして小さな体が勢いよく胸元に飛び込んでくる。
甘い香水とシャンプーの混じった匂い。
細い腕が首に絡みつき、熱を帯びた体温が押し寄せてくる。
全身がぐらついて、膝が崩れそうになる。
「………どうしたの、いきなり……」
はるかの問いかけに、しずくは顔を押しつけたまま、小さな声で呟いた。
「……ここにいてもいい?」
鼓動が跳ねる。
潤んだ瞳が、怯えるように、それでもすがるようにはるかを見上げていた。
「…え……ぇえ!?」
「……わたしが帰ってこられる場所は、ここだけだから」
その言葉はあまりにも静かで、でも逃げ場のないほど真っ直ぐで。
はるかは返す言葉を見失ったまま、しずくのぬくもりを抱きしめ返すしかなかった。
あまりにも唐突な言葉に頭が真っ白になる。
そうしてはるかが固まっているうちに、しずくは靴を脱ぎ、自分の家のようにスタスタと部屋へ上がり込んでいく。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って!とりあえず片付けるから、まだ入らないで!」
慌てて部屋を片付けようとするはるか。
けれど、机のところでしずくの足が止まった。
「……これ」
机の上に置いてあるノート。
しずくが表紙のタイトルを読み上げる。
「『となりの部屋のひみつごと』?」
「あ、うわあああああ、それは……っっ!」
はるかの静止をよそに、しずくはベッドに腰を下ろし、勝手にノートを開いてペラペラと読み進めていく。
「ふーん……夢小説。はるかさん、相変わらずだね」
「ああああ!!!ちょっ!!よ……読まないでぇぇ!!」
羞恥で顔が真っ赤になる。
けれど、しずくはにやりと口角を上げ、潤んだ瞳でじっと見つめてきた。
その視線はどこか拗ねていて、でも甘えてすがるようで――胸の奥をぞくりと震わせる。
「……これ、最後がちがうよ」
「え?」
次の瞬間。
しずくが立ち上がり、頬にそっと手を添えてきた。
指先がかすかに震えている。
零れそうな涙が睫毛に光った瞬間、唇が触れ合った。
「ん……っ!?」
不意打ちのキスに、頭が真っ白になる。
触れ合った唇が小さく震えて、甘くて切ない熱が胸の奥に広がった。
そっと唇を離したしずくは、潤んだ瞳のままかすかに笑う。
「離れる?ちがう人と幸せになる?
……そんなの、絶対いやだよ」
声は震えているのに、抗えない魔性の甘さを帯びていた。
しずくははるかの胸に額を押しつけ、小さくすすり泣きながら囁く。
「……はるかさんの隣にいるのは、わたしじゃないとだめ。」
見上げてきた瞳は涙で潤んでいる。
「だから……ずっと一緒にいて?」
泣き笑いのようなその表情に、息が止まる。
胸がきゅっと締めつけられて、堪えていたものが決壊する。
視界が滲んで、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「……うん」
かすれた声が震える。
それでも、言葉にできる答えはひとつしかなかった。
「……これからも、ずっと」
抱きしめ合う力が強くなる。再び唇が重なり、息が混じり合っていく。
「……ほら、あの日の願い事、叶っちゃったね」
くすっと笑いながら、しずくは冗談めかして言った。
はるかの胸に、あの日のプラネタリウムの光景が蘇る。
流れ星に向かって、しずくが小さな声で願っていたこと。
――「はるかさんと、ずっといっしょにいられますように」
思い出した瞬間、胸が熱くなり、自然と柔らかい笑みがこぼれた。
二人の部屋を照らす灯りが静かに揺れ、窓の外へと視線が流れていく。
「かえで荘」の空には、満天の星が瞬いていた。
過去も痛みも、そして願いさえもすべて包み込むように、夜空は果てしなく広がっていた。
***
この物語の結末は、まだ分からない。
私たちが歩んでいく、本物の、未来の物語だから。
切なさも痛みも超えて、ようやく掴んだ幸せの続き。
これから先もずっと、私の物語『となりの部屋のひみつごと』は――しずくちゃんと共にある。
***
『となりの部屋のひみつごと』
おわり
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