第26話 暗闇に沈む口づけ
土曜日の昼下がり。
「ねえ……ちょっと外、出たい」
ソファでうなだれていたしずくが、ぽつりとそう呟いた。
はるかは思わず顔を上げる。弱々しい声の奥に、それでも確かに光が差したのを感じた。
「……いいけど、本当に、大丈夫?」
「大丈夫。マスクして、キャップかぶればへーき。今までだって、だれにもバレなかったし」
上目づかいでそう言うしずくの瞳は、影を残しながらも、子どもみたいな期待を含んでいた。
その表情に、はるかの胸はわずかに温かくなった。
***
――ショッピングモール
中に入った瞬間、しずくは一瞬だけ目を細めた。
蛍光灯の白い光、ひとのざわめき。久しぶりの喧騒に肩をすくめ、睫毛がふるふると震えているのが分かる。
その小さな仕草がはるかの胸を締めつける。
だが次の瞬間――。
しずくの手が自然に伸びてきて、はるかの指を探し当てた。
そして迷いなく恋人繋ぎ。指と指の隙間をすべて埋めるように絡め取ってくる。
「……っ」
はるかの耳まで一気に熱くなる。周囲の目が気になって仕方がない。
けれどしずくは気にも留めない。絡めた指先を艶っぽく撫で、指の先で小さくくすぐる。
「はるかさんの手、あったかい」
「ちょ、ちょっと……!こういうの、外では……!」
「いいじゃん。いまどき、女の子同士で手ぐらいつないでもおかしくないよ」
さらっと吐かれる言葉に、はるかは何も言えず喉を詰まらせた。
しずくははるかを横目で見て、悪戯っぽく笑った。
***
ショッピングモールの一角にある小さなカフェに入った。
店内は静かで、甘いパンケーキの匂いが漂っている。
はるかは周囲を気にしてソワソワと落ち着かない。
一方のしずくは、カップのストローを唇でくわえたまま、上目づかいで囁いた。
「ねえ、あーんしてよ」
「ばっ……!な、なに言ってるの、しないよ…!」
思わず声が裏返り、はるかは顔を両手で覆った。耳まで真っ赤だ。
「えー…。はるかさんはわたしのこときらいなんだ」
「……ち、違うけど…、はあ…もう、分かったから」
フォークの先に、小さく切ったチーズケーキ。
はるかが震える手で差し出すと、しずくはゆっくりと唇を開いた。
「……あーん」
わざと囁くように小さな声。
潤んだ瞳がまっすぐに射抜いてきて、はるかの心臓が跳ねる。
フォークの先端が触れた瞬間――しずくの舌が、わずかに金属をなぞった。
それは偶然にしてはあまりにも艶めかしく、はるかは一瞬息を止める。
「……ん」
ケーキを口に含んだしずくは、瞳を細めて甘く吐息をもらす。
頬がほんのり染まり、唇の端にクリームの白が残った。
「……おいし」
わざとらしく舌先でそのクリームをぺろりと舐め取る仕草。
はるかの視界が揺れて、耳まで一気に熱を帯びた。
その視線を感じ、しずくは小首をかしげる。その仕草は子どもみたいに無邪気なのに、どこか魔性の匂いをまとっていた。
「……はるかさんに食べさせてもらうと、もっとおいしい」
囁くように言って、甘えるように笑う。
その笑顔が、少し目を腫らした涙の跡を残したままなのがまた、はるかの胸を締めつけた。
「……もう一口」
細い指がはるかの手をちょんとつつき、唇を少し開いて待つ。
その「ねだる」仕草があまりにも可愛く、あまりにもエロティックで――はるかは抗えなかった。
「……ほんと、もう……」
ため息まじりにフォークを差し出すと、しずくは嬉しそうに目を細めて、また口を開いた。
頬杖をつきながらうっとりと微笑むしずくの顔に、はるかはまともに目を向けられなかった。
***
「ねえ、映画観たい」
そう言われて向かったのは、今話題のラブストーリーが上映されている映画館だった。
しずくが指差したポスターには、若手俳優と人気モデルの顔。
「え、誰これ……?」
はるかは思わず声が漏れる。
「今めっちゃバズってる人だよ。毎日のようにテレビ出てる」
「……全然知らない…。うわー、私ほんと世の中についていけてないな……」
「世代の壁?ってやつかな」
「さりげなくグサッと刺さること言わないでぇ…」
「ふふっ」
しずくは小悪魔みたいに目を細めて笑った。
***
二人はポップコーン片手に、一番後ろの席を選んで暗闇に沈んだ。
しずくはすぐに肩を寄せ、こてんと頭をもたせかけてくる。
ただそれだけで、はるかの胸は耳の奥で鳴り響くように早鐘を打った。
(ち、近い……!映画に集中しなきゃ……)
けれど、指先を探るように触れてくる。
やがて絡め取られ、恋人繋ぎにされる。
そのまま指の股を、ゆっくりと撫でられる。
「……っ、し、しずくちゃん……それ……なんかゾワっとするから……」
吐息が震え、声が掠れる。
横目をやれば、マスク姿のしずくが無言でスクリーンを見つめている。
はるかは映画ではなく――隣の横顔に、目を奪われていた。
伏せた長い睫毛。
マスクのすぐ上からのぞく涙ぼくろ。
眠たげなのに、光を含んで艶やかな瞳。
そのすべてに、心臓を掴まれてしまう。
つい視線を注いでしまった瞬間、ぱっと目が合った。
慌てて逸らす。耳まで熱くなるのが自分でも分かる。
――映画はクライマックスに差しかかっている。
しずくがはるかの耳元へ顔を寄せる。
「……キス、したくなってきちゃった」
囁き。
熱い吐息を感じとり、思わず身体が跳ねた。
「っ……だ、ダメだよ……こんなところで……!」
必死に囁き返す顎を、しずくの指先がそっと掴む。
マスクを顎までずらし、唇を近づけて――。
――ちゅ。
一度、二度。
音を立てないように、短く、けれど確かに重ねてくる。
「ん……っ……」
吐息が混じり合い、暗闇に溶ける。
映画のセリフや音楽なんて、もう耳に入らない。
はるかの身体は硬直しながらも、逃げられなかった。
手は熱を帯び、しずくの背へと吸い寄せられていく。
しずくは唇を離すたび、わずかに笑って耳元で囁く。
「すき……すき……ふふ、こんな赤い顔してるはるかさんもすき。
息してるだけで、かわいい」
その声と吐息に、はるかの理性は音を立てて崩れていった。
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