第19話 わたしは暇つぶし

 レッスンを終えたAlice*Dollの控室。

 汗で湿った空気の中、しずくはひとり鏡に向かい、ゆっくりとメイクを落としていた。

 「ルナ」の笑顔が抜けて、疲れきった素の表情が滲み出てくる。


 そんな背後から、ペットボトルの水を片手にしたマイカが軽やかに声をかけてきた。


「ねえ、しず。今日、空いてる?」

「え……」


 不意を突かれて、しずくは振り返る。

 いつもの魔性めいた笑み。答えを選ぶ余地もない。ついその視線に縛られる。

 曖昧に頷くしかできなかった。


***


 夜。かえで荘までの道のりをマイカと並んで歩く。

 秋の夜風が肌寒い。薄暗い電灯がふたりの影を作っていた。


 そのとき、102号室の前に香澄が立っていた。ドアに鍵を差し込もうとしていた手が止まり、こちらを振り返る。


「……あ」


 一瞬視線がぶつかり、しずくは胸の奥がちりつくような気まずさを覚える。

 香澄は何も言わず軽く手を上げる。


 目を逸らし、何もなかったように足を速めた。

 背中に残る視線が、しずくの胸の奥にじんと引っかかっていた。


***


 部屋に入り、ドアが「バタン」と閉まる反響がまだ消えきらないうちに、しずくの背中はシーツに沈められていた。


 強引に重なった唇から、濡れた音が激しく響く。


「……っ、ん、ちょ……マイカ……っ」


 必死の声はすぐに舌で塞がれる。口内で濡れた水音が際限なく響く。


「ちゅ、じゅる……」


 息を吸う間もなく、喉の奥に舌が入ってくる。しずくの細い指がシーツをぎゅっと掴む。


「今日、しずがおとなしく踊ってる姿見てたらさ……ほんと、壊したくなるくらい欲しくなった」


 マイカは挑発するように囁き、舌を絡めながら、わざと大きく吸い上げる。


「ちゅっ、くちゅ、んっ……はぁっ……」


 いやらしい音ばかりが部屋にこだまし、しずくの胸に突き刺さっていく。


 首筋へ唇を移すと、今度は甘噛み。


「ちゅっ……はむ……っ、ん……」


 歯が食い込んで、白い肌に真っ赤な痕が次々と刻まれる。痕の数が増えるたび、しずくの背筋が震えて小さな喘ぎがもれる。


「や、やめ……って……」

「嘘つき。やめてほしくないくせに」


 マイカの唇が重なった瞬間、甘い吐息と共に舌が押し入ってきた。

 濡れた音が口内に満ち、呼吸を奪われる。


「んっ……っ、んん……っ」


 しずくは必死に声を押し殺すが、逃げ場はない。

 絡み合う舌に翻弄されているうちに、マイカの手が下着の中へと滑り込んでいた。

 布越しではなく、直接、敏感な場所を探り当てる。


「……っあ……っ」


 思わず身体が跳ねる。

 シーツを握る指先が震え、爪が食い込む。

 涙で滲む視界の中、マイカの目は余裕そのもので、捕食者のように笑っていた。


「……かわいい。唇も、声も……全部」


 囁きながら、巧みに舌を絡めたまま、指先でさらなる刺激を与えてくる。

 優しく撫でるかと思えば、急に強く抉るように触れて。

 そのたび、しずくの体は勝手に反応し、腰が小さく跳ねる。


「や、やめ……っ、んっ……」


 抗う声はすぐに口づけで塞がれ、むしろその震えすら楽しむように舌で絡め取られる。

翻弄されるしかない。


「……ん、んんっ……っ」


 胸の奥が焼けるように熱くなり、心臓が暴れる。

 マイカの指先と唇が、残酷なまでに甘く、しずくを追い詰めていた。


 しずくの声は震えながらも、快楽に呑まれて掠れていく。

 視界が滲み、涙が零れそうになるほど。


 ――止めたいのに、止まれない。


 ――どれくらい経ったのか。数分か、もっとか。

 時間の感覚がとける。ただ熱と痺れだけが体を支配する。


 絶頂が近づいていた。

 全身の感覚が一点に集まり、胸の奥がじりじりと焼けるように熱を帯びていく。


 爪がシーツを掻く音が「かさり」と微かに響く。しずくの呼吸はもう細切れに途切れがちだった。

 視界の端が白く滲み、頭の中はざわざわと音を立てて崩れていく。

 今にも破裂しそうな鼓動と、押し寄せる波の前で身体が勝手に跳ねる。


 ――もう、壊れちゃいそう


 その瞬間――。



 テーブルに投げ出されたスマホが「ブーッブーッ」と震えた。


 マイカはその音とともに、「やば」と小さい声で呟き、しずくの体からあっさりと身を起こす。


 乱れた髪をかき上げ、何事もなかったかのようにスマホを耳にあてる。


「……もしもし?うん、今から行く」


 声は軽やかで、さっきまでの熱を嘲笑うように明るい。


 まだ余韻の中で浅い呼吸を繰り返すしずくを置き去りに、マイカは服を整えながら鞄を手に持つ。


「ごめん、呼ばれたから。またね」

「…え」

「続きはまた今度」


 ふっと笑いマイカは軽く肩をすくめて玄関に向かう。その足音とドアの閉まる音が、残酷なほどに響いた。


 残されたベッドの上。

 肌に刻まれた赤い痕、乱れた呼吸、震える指先。


 耳の奥にはまだ「ちゅぷっ、くちゅ……」という濡れた音の残響が消えず、胸の奥を抉っていく。


 ――わたしは、ただの暇つぶし。


「……マイカの、ばか」


 胸を締めつける虚しさで、しずくはシーツを掴んで動けなくなっていた。


 ***


 その頃、香澄はアパートの外でタバコをくゆらせていた。


 夜気のなか、ふと玄関のドアが開く音。

 202号室から出てきたマイカの声が漏れ聞こえる。


「うん、すぐ行く。ふふ、いいってば。さっきまで遊んでただけだから」


 軽い調子の声。

 香澄は眉をひそめ、煙を吐き出した。


 ***


 数日後の朝。

 ゴミ捨て場のあたりを、朝日が照らしていた。どこかの部屋から洗濯洗剤の匂いが漂い、カラスの鳴き声が聞こえる。


 しずくがゴミ袋を両手で抱え、足早に歩いていると――。


「おー、しずくちゃんだ。おはよ〜〜」


 大口を開けて、わざとらしいくらい大きなあくびをしながら香澄が現れた。

 寝癖だらけの派手な髪、部屋着のままスリッパで立っている。


「……おはよーございます」


 しずくは俯き加減で小声を返す。


 香澄はふと思い出したように口を開く。


「あ、そうだ」

「?」

「この前一緒だった茶髪のお姉さんってさー……セフレ?」


「……セ……!?ち、ちが……!」


 声が裏返り、ゴミ袋を握る手がぎゅっと震えた。

 頬は瞬く間に赤く染まり、うつむいたまま耳まで真っ赤に火照っていく。


 香澄はケラケラ笑い、目尻を細める。


「アハハ、やっぱ図星だ!そういうの、なんか分かるんだよね〜。あたしも経験あるし」


 肩をすくめる仕草は冗談めいているのに、その眼差しだけはどこか鋭かった。


「……でもさ。ああいうの早めに切らないと、どんどん沼にハマってくよ」

「……」

「しずくちゃん、全然幸せそうな顔してなかったし」


「……しってる……」


 小さく零れた声は、風にさらわれるほど頼りなかった。

 視線が無意識に地面に落ちる。


「ふぅん」


 それ以上は追及せず、香澄はゴミ袋を軽く放り投げる。

 その時、玄関の方から足音がして――。


「あ、ハルだ!おはよ〜ハル♡」


 香澄はぱっと顔を明るくして駆け寄り、迷いなくはるかに抱きついた。


「ちょっとちょっと!今それゴミ触った手でしょ!」

「アハハ!ごめんごめん〜!」


 いつも通りの明るいやり取り。

 その光景を見つめながら、しずくは胸の奥に鋭い棘が刺さったみたいに、ただ立ち尽くすしかなかった。

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