となりの部屋のひみつごと【完】

灰庭たま

第一章 秘密のはじまり

第1話 推し活OLと、隣の部屋の彼女

 春日はるかは、完璧な社員だった。


「部長、資料こちらに置いておきます」


 そう言って差し出した資料を、上司がちらと見て、目を見開く。


「……もう?早いね。しかも、めちゃくちゃ見やすい。さすが春日さんだなぁ」


 提出の締切は三日後。

 それを軽々と前倒しするだけでなく、内容も過不足なく整理され、グラフも配色も的確。報連相も怠らない。無駄口も叩かない。


 ──なのに、同僚たちからの評価は結構低い。


「ね、春日さんって何考えてるかわかんなくない?」

「うん。ミスしないし、仕事も早いけど……ちょっと冷たいというか、壁あるよね」

「そうそう、なんか話しかけにくい〜」


 隣の島から聞こえた声。

 昔から口数が少なく表情に出すのも苦手。だからよくこんな風に言われてきた。慣れているはずなのにその度に少し傷つく。


 何も聞こえていないふりをして、今日も「お疲れ様でした」と小さい声で言い放ち定時で席を立つ。


 外は、ほんのり肌寒い春の夜風。

 夕暮れの光が消えて、街が静かにネオンに染まりはじめる。


 アパートへ向かう帰り道、ピンとしていたはるかの背筋はだんだんと緩んでいく。



 ──ここからが、本当の自分。


 自宅のドアを閉めた瞬間、表情がふっと和らぐ。



 靴を脱ぎ捨てスーツを椅子にかけて、リビングの一角──"ルナちゃん祭壇"の前に、まっすぐ進む。小走りで。


 推しの地下アイドル、《Alice*Doll》のエース・水瀬ルナの等身大タペストリーが、今日も変わらぬ笑顔で迎えてくれる。


「ただいまぁ、ルナちゃん……っっ」


 甘い声を出しながらひとりでニヤケつつ、床に正座する。そしてルナちゃんを拝む。


 春日はるか(27)、表では真面目なOL。


 だが、裏では地下アイドルの重課金オタク。夢小説作者で、狂ったように自担に貢いでいる。


 これは重症だ。わかってる。

 でもいい。誰にもバレなければ、誰にも見られなければ、セーフなのだ。


 仕事終わりのルーティンは決まっている。


 お風呂に入り、冷蔵庫の缶チューハイと作り置きのおかずを食べ、そして──夢小説の続きを書く。


 万年筆を手に持ち、お気に入りのノートに、自分とルナちゃんが「偶然出会い、恋に落ちる」世界を書き綴る。


『……今日、わたしの誕生日だって、覚えててくれたんだ』

『ねえ、はるかさん、今日くらい、甘えてもいい?』


 読みながら、自分で書いたセリフに目頭が熱くなる。

 思わず声が漏れる。


「……ぬふふふ。……ほんとにルナちゃん尊い……しあわせ…」


 うずくまりながら、ノートの文章を見つめてにへら、と笑う。

 目の端では、アクスタのルナちゃんが見つめ返してくる。


 この部屋には冷たい現実も、気を遣う人間関係も、何もない。ただ、"水瀬ルナとの理想の世界"だけが広がっている。


 この世界の中だけで生きていきたい──本気で、そう思ってしまう時がある。

 でも社会で生きる以上、それは叶わない。


 だからこそ、誰にも干渉されず、この推しとふたりの世界を守れる今の暮らしは、はるかにとって完璧なものだった。



 ──そう、が隣に引っ越してくるまでは。



***

 アパートの管理人になったのは、祖母が亡くなってからだ。


 築四十年の木造アパート「かえで荘」。部屋数は六つ。


 職場から徒歩十数分。実家の母に「職場近いんだから住んでついでに管理してくれない?」と頼まれ、はるかはその201号室に住み込みで暮らしている。


 今日は一人、アパートに入居者が来る日だ。


***


 夕方。入居者との待ち合わせの時間。

 部屋を出ると薄暗がりの中、階段の脇、小さな影がひとつ、しゃがみ込んでいた。


 古びた外灯に照らされるその姿は、なんだか儚いように見えた。


 くすんだ色のパーカー。ふわりと肩にかかる無造作な黒髪は、蛍光灯の光を反射してやわらかく風に揺れている。

 肌は白く、小柄な体がより小さく見えた。


 ――小さいな。20センチくらい、私と身長差あるな。そんなことをぼんやり考えた。


 気配に気づいたのか、彼女がこちらをゆっくり見上げた。


 とろんとした眠たげな目。

 感情の読めない、やけに静かな視線。


「……あの、入居者の方ですか?」


 はるかが声をかけると、彼女はこくりと小さく頷いた。


「じゃあ、隣ですね。私は201号室に住んでて、アパートの大家です。」

「そうなんだ……お世話になります……」


 彼女がぺこっと、小さく頭を下げたそのとき。

 視線が、ふいに鋭さを帯びた。


 まっすぐに、こちらを覗き込むように見つめて――


「……ふふ、やっぱり、そうだ」

「え?」

「ううん、なんでもない。……かお、覚えるの得意だから」

「?」


 淡々とした口調。でも、その目だけは、何かを突き刺すように揺らがない。


「春日はるかです」

「……しずく、です」

「しずくちゃん、ね。これ、鍵渡しとくね。分からないことあったらいつでも聞いてください」

「うん……よろしく、おねーさん」


 ふっと笑って鍵を受け取ると、しずくは静かに202号室に入っていった。


 名前しか知らない。会話もほんのわずか。

 なのに、妙に気になる。妙に引っかかる。


 ――ふわふわした髪、掴みどころのない声、そして、

 ぼんやりとした、でもどこか見透かしてくるような目。


 ただの隣人。そう思っていた。

 いや、確実にそうだった。この時は。


 それが、あんなにも自分の心をかき乱す存在になるなんて――

 そのときのはるかは、まだ知らなかった。

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