第12話 別れと決断、そして再集結
グレンリヴェットの月影が水路に揺れる頃、カルアたちは再び静かに城下へ戻っていた。タリスカーの案内で向かったのは、夜ごと旅人や兵士が集う隠れ酒場〈月映えの杯〉。そこは、タリスカーが密かに情報の収集と反体制派の連絡拠点として利用する、いささか名の通った場所だった。
酒場の扉を開けると、外見とは裏腹に店内は驚くほど静かだった。常連らしき客たちは一様に顔を伏せ、話し声は抑えられ、まるで亡霊の集会かのようだった。店主の老婆が、目配せだけでタリスカーを認識し、奥の個室へ案内する。
「ここなら耳を盗む者もいない。さあ、これからの話をしよう」
タリスカーの低い声に、カルアたちは丸太の椅子へと腰を下ろした。ランプの弱々しい光が、彼らの疲れた顔をぼんやりと照らし出す。
「まずは……ミズナラ様の件だが」
タリスカーの言葉を遮るように、ルアナが口を開いた。その声は静かで、けれど抗いがたい確信を帯びていた。
「お母様の救出は……もう、必要ありません」
カルアは困惑を浮かべた。
「ルアナ、君はそれでいいのか? あのまま……あのまま、彼女を放っておくなんて――」
「カルア様。私の言葉を信じてください。母は、もう……私たちを認識することはできません」
ルアナは静かに瞼を伏せた。
「魂の半ばが、デュワーズによる“意志の封印”という術式で覆われているのです。その術を解くには、長い時間と、母の内からの“意志の声”が必要になります。ですが……その声はもう、どこにも届いていない」
部屋に重い沈黙が落ちる。ラフロイグが悔しさを押し殺すように拳を握りしめた。ボウモアはただじっと座り、その視線はルアナの伏せられた瞳に注がれていた。カリラの目には濡れたような光が滲んでいたが、あえて視線をそらしている。
カルアは、時間をかけて言葉を選ぶように呟いた。
「……わかった。君がそう言うのなら、俺は信じる。ミズナラ様のことは……今は断念しよう」
「ありがとう、カルア様」
ルアナの声には、深い感謝と、そして拭いきれない哀しみの両方が混じっていた。
「その代わり、もう一つの“可能性”を探しましょう」
タリスカーが話題を切り替えるように、卓上に広げた簡易地図の上を指でなぞった。
「この王都には、私と同じように現政権に不満を抱きながらも声を上げられない貴族たちがいる。騎士団の一部、商会の連中、地方の小侯たち……。だが、彼らは“確かな戦火の先”が見えなければ動かない」
「つまり、俺たちが先に旗を掲げる必要があるってことだな」
カルアが地図に目を落としながら答える。彼の瞳に、再び強い光が宿り始めていた。
「その通りだ。だから私は、各地に密かに使いを放つ。『希望の砦は生きている』とな」
ヒューガルデルが低く唸る。
「……正面からやっても無駄だ。“声”が民に届くには、“行動”がいる。それも、彼らの心に火をつけるような、確固たる行動がな」
「二日だ」
カルアが宣言するように言った。その声には、迷いも躊躇もなかった。
「二日だけ待つ。それ以上は待てない。帝国は動く。銀蒼の砦を守るには、急がねばならない」
王都グレンリヴェットの外れ、青銅の街門を越えた草原の一角に、仮の野営地が築かれていた。夜が明けるごとに、そこに新たな影が増えていく。タリスカーが手配した伝令の効果は想像以上だった。
地方の小侯が従者を連れて現れ、騎士団の分派が夜陰に紛れて到着し、城下の職人たちまでもが荷車に武具を積み、音を立てぬように、そっとその輪に加わっていった。彼らは口々に「希望の砦が生きていると聞いた」と囁き、カルアの前に跪く。
「……見ろよ、カルア。こんなに集まるとは……」
ラフロイグが呆れたように笑う。
「まだこの国に、戦う意思があるってことだな」
ボウモアの言葉に、カルアは静かに頷いた。その数、騎馬を含めておよそ六百。まとまりは未熟だが、覚悟を持って駆けつけた者ばかりだった。
ルアナはその光景を遠くから眺めていた。風に白銀の髪をなびかせながら、そっと呟く。
「希望は、いつも静かに集まり、やがて大きな川になるのです」
そして――。銀蒼の砦へと向けて出発する日。夜明け前のまだ霞む地平線の向こう、六百の影が蹄の音と共にゆっくりと進み始めた。先頭に立つのはカルア。彼の背に、銀と蒼の旗がはためいていた。それは、亡き王の理想を継ぎ、この国を立て直す、未来のために掲げられる旗だった。
風は、確かに変わり始めていた――。
新たな仲間と、新たな力を得たカルア。だが、彼の帰還を待ち受けているのは、安堵だけではなかった。
アガベ帝国は、すでに動き出していた。無敗を誇る伝説の大将軍、アードベックが次に差し向けた将軍はバルブレア。若いながらも冷酷な知略を持つと噂される男。彼の率いる軍は、銀蒼の砦の守護神、老将バルバトスに向けられていた。
それは、銀蒼の砦を揺るがす戦いの、熾烈な序曲だった。
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