『窓を開けて』

稲佐オサム

第一章 見えない教室

三月の風は、まだ冬の冷たさを引きずっていた。


 都立第二南中学校の職員室には、朝から妙な緊張感が漂っていた。机の上には紙が増え、パソコンの画面には「Zoom」や「Google Classroom」のアイコンが並ぶ。だが、どの教師の顔も浮かない。マスクの上に眉間の皺が深く刻まれている。


 宮崎瑞希は、マスクの内側でそっとため息をついた。

 前日の夜、教育委員会から通達が届いた。「感染拡大防止のため、当面のあいだ登校を全面停止し、オンライン授業へ移行する」という短い一文。保護者にもまだ情報が行き届いていない。今日のホームルームは、言ってみれば“対面最後の授業”だった。


 教師歴七年目。初めての事態だった。


 「宮崎先生、配布物、こっちの分はまとめておきましたよ」


 同僚の国語教師・石川が、紙の束を差し出してきた。コピー機の温かさが、手にじんと伝わる。


 「ありがとうございます……でも、これも、渡せるかわかりませんね」


 「ほんとですよ。配る相手が、もう来ないかもしれないんですから」


 石川の言葉に、瑞希は小さくうなずいた。

 教室に戻る前に、鞄の中のUSBメモリを確認する。今日の授業用に準備した動画教材とスライド。そして、ホームルームで読む予定だった“お知らせ”の文面――冷たいフォントで「登校の一時停止について」とだけ書かれている。


 (伝わるかな、この言葉で)


 マスクの内側で、もう一度息を吐いた。


 廊下を歩きながら、瑞希は何度も教室のドアに手をかけるタイミングを逃した。

 その先に待っているのは、二十五人の生徒たち。いつもより少し遅れて登校し、教室の空気をどこかよそよそしく切り分けるようにして、各々の席につく。


 生徒の誰一人として、大きな声を出して笑っていなかった。

 教室の空気は、沈黙で濁っていた。



 午前八時四十五分、チャイムが鳴った。


 「……おはようございます。着席してください」


 瑞希の声が、マスク越しに少しだけくぐもって聞こえた。

 生徒たちが椅子を引く音。だが、いくつかの席は空いている。欠席ではない。

 親の判断で自主的に登校を控えている生徒たちだ。


 「今日のホームルームでは、皆さんに大切なお知らせがあります」


 生徒たちの視線が、一斉に前を向く。が、どこかその目は、瑞希の“奥”を見ているようだった。教卓の向こう、あるいはマスクのさらに内側。

 教師と生徒の距離が、急に何メートルも離れたように感じられた。


 「……本日をもって、学校はしばらくの間、休校になります。来週からは、オンラインでの授業が始まります。詳細は、プリントと、学校のウェブサイトに掲載される予定です」


 誰も声を出さなかった。


 ざわつきすら起きない沈黙。

 それは、何も感じていない沈黙ではない。どう受け止めていいか、まだ感情が動いていない沈黙だった。


 「このクラスのGoogle Classroomの登録は済んでいますか? Zoomの使い方は……」


 瑞希は一つずつ、説明を続けた。が、途中で気づく。

 この場にいる生徒たちのほとんどが、画面の向こうで授業を受けるための機材を持っていない。


 「もし、端末の用意が難しいご家庭は、学校から貸与できるタブレットがありますので……」


 そう言いながら、自分がどれほど無力かを思い知る。

 貸与タブレットの台数は限られている。自宅にWi-Fiがない家庭も多い。

 画面越しの授業は、全員にとっての“新しい学び”ではなく、“新しい格差”になるかもしれなかった。



 教室の一番奥の窓が、少しだけ開いていた。

 春の冷たい風が、風鈴のような音を立ててカーテンを揺らしていた。


 誰が開けたのかはわからなかった。

 でも、その風だけが、唯一“言葉”を持っていたように思えた。


 瑞希は、その音を聞きながら、心の中でつぶやいた。


 (届いてくれ、この声が。マスク越しでも、画面越しでもいい。どうか、誰かの心に)

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