第28話 その名において
成川は、動揺して足取りがふらつく湯村の歩調に合わせ、駅までゆっくり歩いた。しだいに距離ができると、立ちどまって手を差しのべた。
「おれの腕につかまるか?」
「……けっこうです」
返事をする声も、かすれる始末だ。これから、ずっとさがしていた人物のもとへ行く。湯村の期待と不安はかつてないほど高まり、今にも発作や痙攣が起きそうだった。好きなひとへ逢いに行くことが、こんなにも息苦しい。まるで、水のなかを歩いているような錯覚におちいり、躰じゅうが重たく感じた。
「……もしかして、成川さんは、あの男の子の正体も、知っているンですか? なにもかも……ぜんぶ……始めから……」
券売機で二枚の切符を購入する成川は、「まあな」と、真相をはぐらかす。改札口へ視線を向け、「あのチビは、春馬との約束を破って、おまえに逢いに行っちまったんだ」という。
「ほんとうに、鷹尾さんの指示で、きょうまで、こんな……」
「詮索なら、あとにしろ。なにも、春馬の云いなりになって動いていたわけじゃない。おれも、あのチビも、おまえに興味があった。おまえみたいな純粋なやつを泣かせるのは、愉しかったぜ」
「……失礼なひと」
「惚れかけたくせに」
「だ、誰が、あなたなんか!」
成川との会話で、ふだんの調子がもどりつつあった湯村は、ちょっとした悪意が芽生えた。電車を待つあいだ、周囲に人影が少ないのを確認してから、「もしも」と、小声で話しかけた。
「ぼくが告白していたら、どうするつもりだったんですか……」
「おまえが心変わりするようなやつなら、春馬にはあんなガキはやめておけと云って、かわりに、おれが性欲の処理をしてやったさ」
「ぼくを、なんだと思って……」
「男がほしくてたまらない受け身だろ。これは忠告ではなく警告だが、次は選ぶ相手をまちがえるなよ。最初からおれにしておけば、いまごろは服の下の中身を遠慮なく味わっていた。これでも、自制しているんだ。……キスくらいで満たされるほど、おれは善人じゃないからな」
それでも、悪人とは呼べない。成川は、湯村を
「ぼくは、とんでもない変態だ」
無意識につぶやくと、成川は、笑みをこらえるため唇を歪めた。自覚したところで、どうすることもできない。成川の読みどおり、男のぬくもりがほしくてたまらない湯村は、さまざまな対人関係に臆病となり、おのずと友好的な交流さえ避けてきた。成長段階で生殖行為の基本が身にそなわったとき、すでにじぶん以外の人間を畏れるようになっていた。
成川や水島のような男子青年と、豊かな交流を永続させる自信のない湯村は、彼らの存在に心を乱されながらも、親しみやすさや信頼といった価値を見いだしてゆく。
「……
「あまり卑屈になるなよ。だいたい、常識をふりかざすやつにかぎって、変人だったりする世の中だからな。おまえが変態なのは、べつにめずらしいことじゃない」
思いがけず、成川のことばになぐさめられた湯村は、じわじわと涙が浮かんできた。小さなころからよく泣いてしまう性格だと自覚していたが、涙の理由はそれぞれ異なり、目が腫れるまでとまらないことのほうが多かった。現在も、わだかまりのない日常とは無縁の生活を送っている。些細な事柄に思いなやんでは、気落ちする。どんなに他者とのかかわりを避けても、両親にさえ相談できない体質が恨めしく、父や母との会話は減るいっぽうだ。
成川
いっぽう、誰とでも笑顔で話せる水島は、湯村にとって(はじめての)親友と呼べる存在になった。同性でありながら、湯村が受け身であることを承知したうえで(あるいは納得したうえで)、これまでの友好関係を裏切らない。周囲の人間には理解できない悩みだときめつけていた湯村は、当初、そこまで望んでいなかった関係を、ごく短い時間で築きあげることに成功した水島は、数少ない善人だと断言できた。
「あの、成川さん。鷹尾さんって、どんなひとなんですか?」
その名前を、はじめて口にしたかのような感覚にとらわれる湯村は、のどが渇いてフルーツ牛乳がのみたいと思った。となりにすわる成川は沈黙を保ち、焦らしてからこたえた。
「あいつの感想なんて、恋敵に聞くなよ。今のおれは、その名前を口にするのも不愉快なんだぜ」
「じぶんで名乗ったくせに……」
「誰だって、いちどはべつの人間になりたいと思うときがあるだろう? おれは、湯村のおかげで鷹尾春馬を演じることができた。もう二度と、ほかの誰にも、あいつの名前を語らせない」
成川にとって鷹尾は、大事な友人である。湯村は、ふたりの関係をそう解釈した。
✦つづく
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