第5話 キス


 本意でなかったのに、手ごたえをえた湯村ゆむらは呆然とした。力まかせに鷹尾たかおの頰を平手でたたき、指がびりびりと痺れた。



「……い、今……なにをして……」


「だから、キス」平然と云う。


「なんで……?」


「目をつぶったのは、そっちがさきだったと思うが、おれの気のせいか」


「気のせいです。失礼します!」



 交わすことばに迷った湯村は、その場を走り去った。講義を受ける教室の前から三列目の窓ぎわの椅子にすわると、トートバッグに顔をうずめる。混乱していたが、なんとかまちがわずに定位置へ足を運ぶことはできた。鷹尾にキスを許してしまったのは、ふれてもいいと思ったからである。しかし、それは、唇ではない。はじめてのキスは、レモンの味がした。湯村が口腔にふくんでいた、のど飴のせいである。


「信じられない……。男に、あっさりキスするなんて……」


 窓ガラスに映るじぶんの顔を見つめ、まぶたをとじる。そんなばかなことをくり返していると、同期生のひとりが「なにやってんの」と、湯村のようすを指摘した。ふだん、挨拶さえ交わさない男子学生だが、拍子抜けするほど馴れ馴れしく話しかけてくる。そのため、背恰好はぼやけた印象だ。



「キスされるときの顔って、どんなだろうと思って……」 


「キスなら、湯村はする、、ほうじゃないのか」


「え?」


「え? それ、なんの話?」


「……だから、キス」さっきの鷹尾と同じせりふをつぶやく湯村は、カッと頰があかくなった。男が女にキスをする想像をして口をきく同期生は、変な顔をした。ほかの学生から呼び声がかかり、「じゃあな」と淡白に去っていく。会話がかみ合わないのは、いつものことである。誰も、湯村の気持ちなどわからない。おそらく、ただひとりをのぞいては。



「あんた、こんな甘いものよくのめるな。ブドウ糖がほしくなったのか? ウチの大学の説明会は、むだに話が長くて退屈だしな」



 ──そのとおりだった。行きたい理由をさがす目的でオープンキャンパスに参加した大学で、湯村は買ったばかりのフルーツ牛乳を奪われて、見ず知らずの男にからかわれた。


「……あのひとは、誰だったんだろう」


 もういちど逢いたいと思ういっぽう、構内で姿を見つけても、近づいて声をかける勇気はない。湯村には、ふつうをよそおうことがむずかしいのだ。ほかの誰も、湯村を気にかけなくなると、ようやく意識をまとめる時間が流れていく。



「よう、おはよう!」



 いつものように、水島みずしまが遅刻ぎりぎりで席につく。「おはよう」とこたえる湯村の表情はおちついていたはずだが、水島は首をかしげた。


「なんかあった?」と訊く。


「……なにも……」


「ならいいけど」


「なんで、そう思ったの?」


「ん~、なんとなく。湯村は、わかりやすいから」


「わかりやすい? ぼくのなにが……」



 教員がやってきたので、そこで会話はとだえた。大学の授業は出席が基本だが、出欠管理はあいまいで、休むときの連絡も必要ない場合がほとんどである。年度ごとの授業計画シラバス(演習・実習科目)の内容にもよるが、成績評価の基準=出席日数ではないのだ。


 湯村と水島の教室では、学生の出席率が当初の三分の二まで減っていた。空席が目立ちはじめたにもかかわらず、水島は、湯村と肩をならべてすわる。前から三列目の……というよりは、湯村と同じ講義机が彼の定位置といったイメージだ。



「変なやつ」


 

 と、無意識につぶやいた。さいわい、湯村の声は小さかったので、水島は無反応である。同期生のなかで友人と呼べる存在になりつつある存在だが、湯村が望んでえた間柄ではない。水島は、誰にでも気さくに声をかけて話せる性格につき、その他大勢の友好関係に、湯村もふくまれているくらいの認識だ。したがって、鷹尾とキスしたことは、たとえ友人であってもうちあける予定はない。



「湯村って、猫を飼ってたのか」


「飼ってないよ」


「まさか、キャットフードがおやつとか云いだすなよ。湯村って、見た目が猫っぽいし、まんざらでもないけど」


「無添加だけど、さすがに食べないよ。これはバス停にいる迷い猫用……、猫っぽいって、ぼくが?」


「くせっ毛だし、前髪が長くてわかりにくいけど、わりと眼力めぢからあるし(い意味でだよ)、からだの線も細いし、仮装パーティーで、ネコ耳のカチューシャをつけたら似あいそう」


「やめてくれ」



 昼休憩の食堂で、焼き魚定食を注文した湯村は、小骨を箸で取りのぞく手が、ぴくんっとはねた。わざわざ手間のかかる定食を注文する理由は、食事のあとに発生するおしゃべりタイムをはぶくためだったが、さきに丼物を食べ終えた水島は、テーブルにひじをのせ、湯村の顔を、じっと、ながめた。


「湯村ってさ、かわいいよな」


 という水島は真顔につき、白米を口へ運ぶ手がとまる。仮に、ほめことばだとしても、いきなり云われても困る。すなおに認めるわけにもいかず、湯村は「しずかにして」と軽くあしらった。うるさいのは、じぶんの心臓の音である。水島にたいして申しわけない気持ちになったが、なにかをきかれても食事に集中した。



✦つづく

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