第5話 キス
本意でなかったのに、手ごたえをえた
「……い、今……なにをして……」
「だから、キス」平然と云う。
「なんで……?」
「目を
「気のせいです。失礼します!」
交わすことばに迷った湯村は、その場を走り去った。講義を受ける教室の前から三列目の窓ぎわの椅子にすわると、トートバッグに顔を
「信じられない……。男に、あっさりキスするなんて……」
窓ガラスに映るじぶんの顔を見つめ、まぶたをとじる。そんなばかなことをくり返していると、同期生のひとりが「なにやってんの」と、湯村のようすを指摘した。ふだん、挨拶さえ交わさない男子学生だが、拍子抜けするほど馴れ馴れしく話しかけてくる。そのため、背恰好はぼやけた印象だ。
「キスされるときの顔って、どんなだろうと思って……」
「キスなら、湯村は
「え?」
「え? それ、なんの話?」
「……だから、キス」さっきの鷹尾と同じせりふをつぶやく湯村は、カッと頰が
「あんた、こんな甘いものよくのめるな。ブドウ糖がほしくなったのか? ウチの大学の説明会は、むだに話が長くて退屈だしな」
──そのとおりだった。行きたい理由をさがす目的でオープンキャンパスに参加した大学で、湯村は買ったばかりのフルーツ牛乳を奪われて、見ず知らずの男にからかわれた。
「……あのひとは、誰だったんだろう」
もういちど逢いたいと思ういっぽう、構内で姿を見つけても、近づいて声をかける勇気はない。湯村には、ふつうをよそおうことがむずかしいのだ。ほかの誰も、湯村を気にかけなくなると、ようやく意識をまとめる時間が流れていく。
「よう、おはよう!」
いつものように、
「なんかあった?」と訊く。
「……なにも……」
「ならいいけど」
「なんで、そう思ったの?」
「ん~、なんとなく。湯村は、わかりやすいから」
「わかりやすい? ぼくのなにが……」
教員がやってきたので、そこで会話はとだえた。大学の授業は出席が基本だが、出欠管理はあいまいで、休むときの連絡も必要ない場合がほとんどである。年度ごとの
湯村と水島の教室では、学生の出席率が当初の三分の二まで減っていた。空席が目立ちはじめたにもかかわらず、水島は、湯村と肩をならべてすわる。前から三列目の……というよりは、湯村と同じ講義机が彼の定位置といったイメージだ。
「変なやつ」
と、無意識につぶやいた。さいわい、湯村の声は小さかったので、水島は無反応である。同期生のなかで友人と呼べる存在になりつつある存在だが、湯村が望んでえた間柄ではない。水島は、誰にでも気さくに声をかけて話せる性格につき、その他大勢の友好関係に、湯村もふくまれているくらいの認識だ。したがって、鷹尾とキスしたことは、たとえ友人であってもうちあける予定はない。
「湯村って、猫を飼ってたのか」
「飼ってないよ」
「まさか、キャットフードがおやつとか云いだすなよ。湯村って、見た目が猫っぽいし、まんざらでもないけど」
「無添加だけど、さすがに食べないよ。これはバス停にいる迷い猫用……、猫っぽいって、ぼくが?」
「くせっ毛だし、前髪が長くてわかりにくいけど、わりと
「やめてくれ」
昼休憩の食堂で、焼き魚定食を注文した湯村は、小骨を箸で取りのぞく手が、ぴくんっとはねた。わざわざ手間のかかる定食を注文する理由は、食事のあとに発生するおしゃべりタイムを
「湯村ってさ、かわいいよな」
という水島は真顔につき、白米を口へ運ぶ手がとまる。仮に、ほめことばだとしても、いきなり云われても困る。すなおに認めるわけにもいかず、湯村は「しずかにして」と軽くあしらった。うるさいのは、じぶんの心臓の音である。水島にたいして申しわけない気持ちになったが、なにかをきかれても食事に集中した。
✦つづく
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