「あー…明日絶対目腫れる…」

 ひとしきり泣き尽くして、ようやく落ち着いた頃。ソファに座り込んだ私は、ぐしぐしと目元を拭いながら、情けなく鼻をすすった。黒瀬はティッシュの箱を手に、くすっと笑いながら私に差し出す。

「いいじゃん。腫れたら腫れたで、俺が隠してやるよ」

「隠したら見えなくなるでしょーが」

 ティッシュを受け取りつつ、私は軽く横目で睨む。黒瀬は私の反応を面白がるように、髪に指先を滑らせながら肩をすくめた。

「お前の腫れた目なんて、俺以外に見せる必要ないだろ?」

「……へーへー」

 気恥ずかしくてわざとそっけなく返す。けれど胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 ふと、リビングの置き時計に視線が向く。

「もう…十時なんだ」

「だな。時間経つの早ぇな」

 黒瀬もちらりと時計を見てから、ソファの背にもたれ、ゆっくりと私を見つめた。その視線が妙に真剣で、何かの決断を促すみたいだった。

「で、どうすんだ?今日は帰る?」

 低く落ち着いた声が耳に届く。

「帰る……」

 そう言いかけて、私は小さく息を吸った。

「……って言いたいとこだけど」

 ティッシュを握りしめながら言う声は、ほんの少し震えていた。自分でも気づくほどに。黒瀬は視線を逸らさず首をわずかに傾ける。

「けど?」

 私はチラッと黒瀬を見た。けれどその真っ直ぐな眼差しに耐えきれず、すぐに目を逸らす。視線の先の、床の木目さえやけに鮮明に見えた。

「……黒瀬は、どうしたいの」

 それは自分でも驚くほど小さな声だった。ひと押しされれば簡単に崩れてしまいそうな、か細い糸のような。

 黒瀬の目がわずかに見開かれた。私の問いに彼は短く息を呑んだようにも見えた。…そういえば、こんなふうに私から歩み寄るなんて、今まで一度もなかった気がする。

「……俺に聞いちゃっていいのか」

 黒瀬の声は低く、けれどどこか緊張が混じっている。私は不安定な呼吸を整えるように、浅く小さな呼吸を繰り返す。そしてゆっくりと、迷いがちな瞳で彼を見上げながら小さく頷いた。

 黒瀬はゆっくりと深呼吸した。私を見つめる瞳にいつもの余裕はなく、少しだけ真剣さが滲んでいる。その視線に心臓がひたりと静かに脈打つのを感じた。

「俺は…できることなら、帰したくない」

 低く落ち着いた声が、部屋の静けさに溶ける。

「何もしねぇって約束する。だから…ただ隣にいていいか?」

 分かっていたはずだ。なんとなく、この空気がどこに向かおうとしているかくらい。でも、いざこうして真っ直ぐ言葉にされると、息が詰まった。喉の奥がカラカラに渇く。

 けれど。もう引き下がるつもりはなかった。この場所で、この人の隣で朝を迎える。それが、私が選んだ答えだ。

「……わかった」

 か細い声しか出なかったのが悔しい。でも言えた。その瞬間、黒瀬が息を呑んだのがわかった。きっと意外だったんだろう。今までなら、こんな誘いを素直に受け止めるような私じゃなかったから。

 黒瀬は短く息を吐き、少しだけほっとしたように微笑んだ。

「…ありがとな」

 そしてソファに座り直すと、自分の肩をポンと軽く叩いた。

「じゃあ、ここ、使えよ」

「………は?」

 聞き返すと、黒瀬は涼しい顔で続ける。

「何だよ、は?って。ここ、お前の枕にしていいぞって言ってんだろ」

「へ!?くっ、くっついて寝るの!?」

 思わず肩が跳ねる。いや待って、そこまで言った覚えはない。ただ隣にいる、それだけで…!

 黒瀬は肩を差し出したまま、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。その顔は完全に私の動揺を楽しんでいる。

「ダメか?でも隣にいるって約束したのお前だしな」

「そ、それは……そうだけど…」

 ボンッ、と顔が熱くなるのがわかる。さっき自分に「もう逃げない」って言い聞かせたくせにこの有様だ。情けない。

 黒瀬は肩を差し出したまま、わざと低く囁くように言った。

「俺は、お前のぬくもり感じながら朝を迎えたいだけだ」

「っ……!」

 この男は…本当に……。

 前に二人で飲みに行った時だって、さらっとキザなことを言ってのけたけど…なんでこう、毎回決定打を打ってくるんだ。悔しくて、私は少し眉をひそめ、横目でちらりと彼の顔を盗み見た。

「………私が言うのもなんだけどさ」

「なんだよ」

 私がごにょごにょと呟くと、黒瀬は少し眉を上げてキョトンとした顔をこちらに向けた。

「……黒瀬は、それでいいわけ…? その……辛くないの? 色々と…」

 最後の方は恥ずかしさで声がどんどん小さくなっていく。自分で言っていて顔から火が出そうだった。それでも、どうしても気になってしまった。

 黒瀬は一瞬目を丸くしてこちらを見た後、ふはっと短く息を漏らすように笑った。

「辛いに決まってんだろ」

 その言葉に思わず胸がちくりとする。でも彼は、そんな私の気持ちを見抜いたかのように柔らかく微笑んだ。

「でもさ、お前の気持ちが決まるまで待つって、もう決めてるから。だから、今はこの距離で十分だ」

 静かな声で、淡々と。けれどその瞳の奥には隠しきれない熱が灯っているのがわかった。

 私は不意に、なんとも言えない感情に胸がざわついた。優しさと、痛みと、愛情が入り混じったような…そんな、複雑な何か。

「………」

 私が何か言いかけて口を閉じると、黒瀬は少し首をかしげながら優しい声で聞いてきた。

「どうした?」

 私はひとつ深呼吸をし、少し震える唇で言葉を紡ぐ。

「……黒瀬が優しいのは、嬉しいけど、やっぱり調子狂う。それに私……意外と優柔不断だし……その……」

 自分でも言い切れないもどかしさに舌打ちしたくなる。深呼吸した意味とは。

 黒瀬は少し目を細めて、肩の力を抜くように息を吐いた。

「だから、全部決めなくていいって言っただろ。優柔不断だろうが何だろうが、俺は全部受け止める。お前が俺の方を見てくれてるなら、それで十分なんだよ」

 穏やかな声。けれどその言葉がなぜか私の胸にチクリと刺さった。何が十分なの。何で、そこで引くの。

「ち、違うの…!」

 思わず少し強い声が出た。黒瀬は驚いたように目を開き、私をじっと見つめる。さっきから黒瀬が「十分」と繰り返すたび、胸がぎゅっと締め付けられる。苦しい。

「だから……ここに来て、急に私のペースに合わせるように引くとか……その……違うっていうか……」

 情けなくも、結局最後はごにょごにょと声が小さくなった。私の気持ちはめちゃくちゃだ。調子を狂わされているのは私なのに、今度は黒瀬が引いたことで、もっとどうしようもなくなっている。

 黒瀬はしばらく黙ったままだった。けれど次の瞬間、ふっと口元を歪め、意地悪く笑った。その笑みには、何かを見抜いたような光が宿っている。

「…もしかして、引かれると寂しいって思った?」

「う……!」

 図星を突かれ、顔が一気に熱を持つ。耳の先まで真っ赤になっていくのが自分でもわかる。反論しようと口を開くが言葉が詰まる。何も言えない。

 黒瀬は少し細めた瞳でじっとこちらを見つめる。その視線が私の心の奥底まで覗き込むようで、喉の奥がぎゅっと詰まった。胸の鼓動が耳元でうるさいくらいに鳴り響く。

「…そっか、じゃあ遠慮しねぇ」

 低く響いたその声は、どこか決意めいていて、私の背中にゾクリとした熱を走らせた。

「えっ…」

 思わず声が漏れる。次の瞬間、黒瀬の指先がそっと私の頬に触れた。それだけで、全身が電流に撃たれたみたいにびくりと震える。彼の掌の温もりが、じわじわと肌の奥まで染み込んでいく。

「逃げるなよ」

 その言葉は、まるで呪文のように私の耳を通り抜け、心臓に直接届いた。

「……うん…」

 それは蚊の鳴くようなか細い返事だった。でも、確かに私の中から出た答えだった。

 黒瀬はその小さな返事にほんの一瞬息を詰め、目元を少しだけ緩めた。そして、低く囁く。

「いい子だ」

 親指が、頬に添えたまま、ゆっくりと私の唇をなぞる。そのわずかな感触だけで、背筋がびくりと跳ねる。

「…いいか?」

 目の前で低く問われる。私は彼の瞳をまともに見られず、小さく頷いた。もう抗う気力なんて残っていない。むしろ、抗う理由などわからなかった。

 黒瀬は吐息がかかるほどの距離でそっと息を整えると、ゆっくりと顔を近づけてきた。触れるか触れないか、そんな繊細な動きで、彼の唇が私に重なる。柔らかく、けれど確かに、私を丸ごと包み込むようなキスだった。触れた瞬間、世界から音が消えたような気がした。思考は真っ白になり、残っているのは彼の温度だけ。


 数秒の永遠が過ぎ、黒瀬がそっと唇を離す。目が合った瞬間、全身がびくりと強張る。恥ずかしさで私はすぐに視線を逸らした。

「………何もしないって言ったのに」

 我ながら可愛げがない言葉だった。けれどそんな皮肉の裏で、顔が熱くてたまらない。

 黒瀬は逸した視線を追いかけることなく、ただ静かに笑っていた。その笑みが、なぜか私の胸の奥にじんわりと温かいものを広げる。

「悪い、我慢できなかった」

 低く穏やかなその声に、心臓がまたひとつ強く鳴った。散々、黒瀬に“我慢”をさせていた。その枷を少しでも外してあげられたのかと思うと、胸の奥にくすぐったいような、甘い感情が芽生えていく。

「…別に……嫌じゃないし」

 情けないほど小さな声だった。自分でも可愛げのない返事だとわかる。でもそれが精一杯だった。

 黒瀬は一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐにゆっくりと口元を歪めて笑った。その笑みには、いつもの余裕と、どこかしら深い決意のようなものが入り混じっていた。

「じゃあ次は、“もっと”って言わせてやる」

 その言葉に背筋がゾクッとした。彼の瞳が私をじっと射抜くように見ている。その視線だけで息が詰まりそうになる。

「なんか…黒瀬、余裕ぶっててムカつく…」

 自分のドキドキばかりが滑稽で、思わず拗ねたように呟く。なのに黒瀬は、ククッと笑いながら私の髪に指先を通した。

「そう見えてるなら上等」

 撫でられる髪先がくすぐったくて、気づけばふくれっ面になっていた。黒瀬は私の頬を人差し指でつつき、意地悪そうに笑う。

「その顔も可愛いな」

「~~~~っ」

 ムカつく。本当にムカつく。このままじゃまた私ばかりが振り回されて終わる。せめて一矢報いたい──

 気づけば、私は衝動的に黒瀬の胸元を掴んで引き寄せていた。

「…っ」

 そしてそのままおでこにそっと唇を押し当てる。おでこ、というのが精一杯だった。最後の最後で自分の情けなさに顔が熱くなる。それでも、少しでもいいから黒瀬を動揺させたくて。

 唇を離すと、黒瀬は「は…?」と短く息を呑み、目を見開いて固まっていた。おでこに自分の手を置いたまま私を見つめる彼の姿に、私は心の中でガッツポーズをした。…勝った、これで少しはやり返せ──

 そんなささやかな満足感を覚えたのも束の間だった。

 黒瀬はおでこに触れていた手をゆっくりと下ろし、その視線で私を強く捉える。瞳の奥に宿る熱が、さっきまでの柔らかさを潜ませながらも、鋭く深くなっているのがわかった。

「お前……マジで覚悟できてんだな?」

 低く掠れた声が、部屋の空気を一瞬で変える。

 私は思わずたじろいだ。黒瀬は私の顔を見つめたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。その間一つ一つが、まるで私の心臓を直接叩いているかのようだった。

「もう遅ぇよ。お前、火つけといて逃げられると思うなよ」

 低く、喉の奥で鳴るような声が響く。

「い、いや、あの…」

 咄嗟にソファの端まで後ずさった私を、黒瀬は逃がさなかった。長い腕が私の頭上を塞ぐようにソファの背もたれへ置かれる。その瞬間、狭い空間に閉じ込められた感覚がして息が詰まる。

「…言っとくけど、お前が挑発したんだぞ」

 囁くような声と、頬にかかる彼の熱い吐息。思わずぎゅっと目を瞑る。次の瞬間、頬に、ふわりと軽いキス。柔らかな感触と一瞬の温もりに、体がびくりと震えた。

 恐る恐る目を開けると、黒瀬が私を見下ろしていた。少し苦しそうに眉を寄せながら、息を整えている。

「…ビビらせて悪かった。でも、これでわかっただろ。これ以上俺を煽るな」

 その言葉に胸がギュッと締めつけられる。まだ浅い呼吸のまま、なんとか声を絞り出した。

「こ、怖いわけじゃない…」

 おずおずと視線を合わせる。その先にある黒瀬の瞳が、深く私を覗き込んでいた。

「じゃあなに?」

「な、慣れないだけ……あと、心臓が…もたない…」

 再び視線を逸らす。耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。

 黒瀬は数秒固まった後、ふーっと深く息を吐き出した。

「……お前、ほんと…」

 何かを噛み殺すように苦笑する声。え、なんでため息…?と頭の中で首を傾げる私。その瞬間。顎をすっと掴まれ、強制的に視線を合わせられた。目の前の黒瀬の瞳は、じりじりと熱を増している。

「…煽るなって言ったよな?」

「ひ…っ」

 心臓が悲鳴を上げる。瞳を逸らそうとするが、黒瀬の指先が顎を固定し逃がしてくれない。あれ…やばい…なんか、黒瀬のスイッチ押しちゃった…!?軽くパニックになったその瞬間──


『ピロリロリン♪ お風呂が沸きました』


 間の抜けた機械音が、張り詰めていた空気を一瞬で切り裂いた。

「……」

「……」

 二人とも目を丸くして固まる。…そういえば、私が泣いている時にくしゃみが出て、黒瀬が慌ててスイッチを押しに行った気がする。

「……お前」

「な、なによ」

 黒瀬はぷっと吹き出し、額を私の肩に預けるようにして笑いをこらえた。

「いや、タイミングが神がかってんだろ…」

「わ、笑わないでよ!」

 耳まで真っ赤にしながら抗議する私に、黒瀬は肩を震わせて笑った後、少しだけ名残惜しそうに手を離した。

「…助かったな、お前」

 小さく呟かれたその声に、鼓動がまた跳ねた。

「どうする塩見、顔真っ赤なまま風呂入るか?」

「なっ…」

 反射的に声が裏返る。言い返そうとして、ふと“お風呂”という言葉の破壊力に気づき、思わず黙り込む。お風呂…そうか、黒瀬んちで、お風呂……。

「……よく考えたら私、なんにもお泊りの用意してない」

 ぽつりと呟くと、黒瀬は一瞬目を瞬かせたが、すぐに口元を緩め悪戯っぽく笑った。

「安心しろ。歯ブラシもバスタオルも新品で揃えてある。この未来も最初から考えてたしな」

「はっ!?」

 耳まで真っ赤になった。なにこの男、どこまで先読みしてんの!?そのまま固まる私を見て、黒瀬は喉の奥でククッと笑った。

「嘘だよ。普通に俺のストックだ」

「っ、もう!!この状況で冗談やめてよ!!」

 胸の奥がドクドクとうるさい。私はこんなに動揺しているのに、なんでこの人は平然としていられるの。

「じゃあ、き…着替えは…?」

「シャツなら貸す」

「そこは用意してないのかよ…!」

 思わず抗議する。完璧すぎるとムカつくけど、ここまで来たら全部用意してくれてた方がむしろ気が楽だった気がする。

「逆にいいだろ?俺のシャツ一枚で過ごすお前とか、特別感ありすぎじゃね?」

 黒瀬はさらっと言い放ち、ニヤリと笑った。その余裕ぶった顔に思わずジト目になる。

「………男は彼シャツが好きってほんとなのね」

「おう。特にお前が着るなら最強だな」

 さらっと言うな。胸の鼓動がひどくうるさいのをなんとか悟られないよう、私は視線を逸らした。

「せ、せめてハーパンかなんか貸してよ…下履かないのは無理だから!」

 私の声は情けないくらい裏返った。黒瀬は「はいはい」と軽く笑いながら立ち上がり、リビングの奥、おそらく寝室へと向かっていく。

「塩見の貞操はちゃんと守る俺だから安心しろよ」

「ばっっっかじゃないの!!」

“貞操”なんて単語が口から飛び出して、私の顔は一瞬でカッと熱くなる。なんでこいつ、そんな恥ずかしいことしれっと言えるの。

 振り返った黒瀬が、私の真っ赤な顔を見てニヤリと笑った。

「バカで結構。でも、その顔見てると、俺が守らなきゃって本気で思うわ」

「むぅ…」

 私は唇を尖らせてふくれっ面を作る。でも、その言葉が胸の奥でぽかぽかと熱を灯すのを止められない。なんで今さら、こんな風に優しいんだろう。ずるい。

「…先入っちゃっていいの?」

 おずおずと尋ねると、黒瀬は軽く頷いた。その顔にはいつもの意地悪な笑みはもうない。

「ああ、先入れ。タオルと着替えはドアの横に置いとくから、ゆっくり温まってこい」

 その穏やかな声がやけに心地いい。思わず胸の奥がじんわり熱くなる。私は目を伏せて小さく呟く。

「わかった…ありがと」

 蚊の鳴くような声だった。黒瀬はそれ以上何も言わず、私を促すように目線でドアを指した。その視線を辿るように、私は風呂場へ向かう。足元がやけにふわふわしているのは、お湯に入る前から私が変に熱くなっているせいだ。



 脱衣所のドアがカチリと閉まる音がして、静寂が訪れた。黒瀬はしばらくの間、その閉じた扉をじっと見つめていた。

「……ったく」

 低く吐き捨てるような声。けれどその口元には、どこか苦笑いのような、諦めのような、そしてほんの少しの満足を滲ませた笑みが浮かんでいる。

「覚悟できてねぇなら、そんな無防備なとこ見せんなよ…」

 呟いた声は彼自身に向けたものか、それともあの中にいる塩見に向けたものか。

 リビングの灯りが黒瀬の伏せた瞳を淡く照らす。そこには、欲しがる男の鋭さと、何かを手に入れた者の安堵が、奇妙に入り混じっていた。


- - -


 湯船に浸かった瞬間、ちゃぷんと柔らかい音が響く。

 雨に濡れて冷え切っていた体が、じわじわと溶けていくように温まっていく。湯気が立ち込める浴室の中で、私は肩までお湯に沈め、ゆっくりと息を吐き出した。

「はぁ……」

 体の芯まで温まる感覚に、一瞬だけ気が緩む。けれど、すぐに頭の中を支配するのは、さっきの出来事だった。

 ──黒瀬に、キスされた。いや、私がさせたようなものかもしれない。思い出した瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

「~~~っっっ」

 頬が一気に熱を持ち、両手で顔を覆う。湯気で熱いのか、羞恥で熱いのか、もう自分でもわからない。お湯に浸かっているというのに、どこか落ち着かない。むしろ、全身が火照っていくようで、心臓がひどく忙しなく鼓動を打っていた。

 出たら…どんな顔、すればいいんだろう。黒瀬の瞳を真っ直ぐ見られる自信なんてない。考えるたび、湯船の水面がかすかに波立つ。

 結局、のぼせる寸前まで湯船につかり続ける羽目になった。ここから出る勇気が、なかなか湧かなかったからだ。


- - -


 風呂場の扉の横に、新しいバスタオルと、畳んだシャツとハーフパンツを置き終えた黒瀬は、そのままリビングのソファに腰を下ろした。

 指先で、先ほど塩見が使っていたグラスの縁を無意識に撫でる。水がわずかに揺れ、カランと氷が鳴った。

「……本気で覚悟決めたの、俺かもな」

 ぽつりと落ちた独り言は、静まり返った部屋に溶けていく。

 スマホを手に取り、画面を一瞥するが、すぐに伏せて膝の上に戻す。通知も何もないのに、何かに縋りたかった自分に苦笑する。

 ソファに背を預けて天井を見上げる。その瞳に浮かぶのはいつもの余裕の笑みではなかった。切なさと、ほんの少しの痛みが滲む。

「…やっぱ、可愛すぎんだよな」

 低く掠れた声が喉の奥から漏れた。自分の胸に置いた手で、早鐘を打つ鼓動を感じる。あれだけ「待つ」と決めたはずなのに、あの無防備な視線と仕草を思い出すと、喉が渇いて仕方がない。

「何もしねぇって言ったけど…正直、自信ねぇわ」

 そう呟く唇に苦笑が浮かぶ。しかし、その瞳の奥には、揺るぎない決意があった。


“それでも、ちゃんと選ばれるまでは、俺は待つ”。


 深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。鼓動を落ち着けようとするように、膝を軽く叩く。

 その時、バスルームの扉から微かに水音が漏れた。黒瀬は自然とそちらに視線を向ける。

 ──もうすぐ、あいつがここから出てくる。

 その黒い瞳に宿る光は、獲物を狙う獣のような鋭さと、大切なものを守ろうとする男の穏やかさが入り混じっていた。


- - -


「………おっきい」

 洗面台の鏡に映るのは、見慣れない自分。黒瀬のシャツを着ただけなのに、どうしてこんなに別人みたいに見えるんだろう。

 細身とはいえ骨格のしっかりした彼のシャツは、私が着ると肩が落ちて、肘まで隠れてしまう。襟元は大きく開き、鎖骨が少し覗いている。…これは、だめだ。なんか色々とだめだ。

「うわ……これ、女子が一番照れるやつじゃん」

 思わず小声でつぶやく。半ば冷静にツッコミながらも、胸の奥がそわそわする。

 丈はお尻が少し隠れるくらい。何も履かないわけにはいかず、ハーフパンツも履いてみたけど…ウエストは紐をこれでもかと締めてもゆるゆる。骨盤でギリギリ引っかかっている感じだ。

「これ、歩いたら落ちない…?いやいや、変なこと考えんな私」

 変に冷静な自分が逆に恥ずかしい。黒瀬が見たら絶対何か言われるだろうな、と想像するだけで顔が熱くなる。

 棚の上に置かれたドライヤーに気づき、背伸びして取る。つま先立ちでやっと届いた。

「お借りしまーす」

 独り言でごまかす。スイッチを入れると、温かい風が髪を撫で、乾かす音がやけに大きく響いた。その音に少し紛れながら、鏡越しに自分と目が合う。

「……この顔、どうすんの」

 頬は赤く、目はどこか落ち着かない。このままリビングに戻ったら、黒瀬にどんな顔で何を言われるんだろう。


 髪を乾かし、ドライヤーを元の場所に戻してからも、私はなかなか脱衣所のドアを開けられずにいた。洗面台の鏡に映る自分の姿。黒瀬のシャツにすっぽり包まれたその姿は、なんだか幼く見えて、どこか頼りなげだった。

「……なんて言えばいいんだろ」

 ドアノブに手をかけては離し、またかけては離す。その繰り返しに、我ながら呆れるくらいいくじなしだと思う。誰かと付き合うのは初めてではない。でも、こんなに緊張したことはあっただろうか。いや、きっと相手が黒瀬だからだ。今まで散々皮肉を言い合ってきた、あの黒瀬。だからこそ、ふと見せる優しさが、反則のように胸に響く。意地で張っていた心の壁が、彼に触れられるたび溶けていくようで、怖い。

「……っ、もう」

 小さく唸るように言いながら、ドアノブをぎゅっと握る。でも結局、また離してしまった。いつまで経っても出口の見えない思考のループから抜け出せず、鏡の前でジッと自分を見つめる時間が続く。

 でも、このままじゃ黒瀬だってお風呂に入れない。雨で濡れて、冷え切っていたはずなのに。

 その事実が、私の背中をぐっと押した。意を決し、ひとつ大きく息を吸い込む。胸いっぱいに空気を溜め、ゆっくり吐き出した後、心の中で小さく「よし」と呟く。

 そして、ついにドアノブを回した。


- - -


 黒瀬は脱衣所のドアが開くわずかな気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。その視線が私を捉えた瞬間、ほんの一瞬だけ瞳がわずかに見開かれる。けれど、すぐに彼の目線は、私が無意識にギュッと握りしめているシャツの裾へと落ち、その口元に柔らかな笑みが浮かんだ。

「……なんだよ、その握り方」

 低く穏やかに笑う声。その言葉に胸がドクンと鳴り、私は堰を切ったように口を開いた。

「おっ、お風呂、お先にいただひまひた…っ」

 噛んだ。盛大に噛んでしまった。緊張しすぎて舌が思うように動かず、全力で「緊張してます!」と全身で主張してしまったかのような自分が情けない。ああもう、穴があったら入りたい。なんでよりによってこんな時に…。

 次の瞬間。黒瀬はその噛みっぷりに一瞬きょとんとし、そして堪えきれずに吹き出した。その笑い声がリビングに響き渡る。低くて、楽しげで、どこか愛おしさの滲む声だった。

「お前、可愛すぎ」

「わ、笑うなぁ…!」

 必死に抗議する声すら、どこか間抜けで。羞恥で顔が熱くなるのを感じながら、私はシャツの裾をさらに握りしめて視線を逸らした。

 黒瀬はひとしきり笑った後、ソファに深く背を預け、片腕を背もたれに広げた。先ほどまでの柔らかな笑みとは違い、その口元にはどこか意地悪そうな笑みが浮かんでいる。

「ほら、こっち来いよ」

 低く甘い声が、部屋の空気をわずかに震わせた。その言葉に、私の体はピシリと固まる。頬に一気に熱が集まり、目の前の黒瀬を直視できずに視線を泳がせた。

「そ…それより、黒瀬もお風呂入れば…?」

 震える声でそう促してみる。しかし黒瀬は余裕の笑みを崩さない。

「今、そんなこと気にしてる場合か?」

 そう言うと、ソファの隣の空いたスペースをトントンと指で叩く。来い、と無言の合図。

「うぅ…」

 心臓が早鐘を打ち、足がすくむ。動けない私を見つめる黒瀬の目は、甘さの奥に危うさを孕んでいた。

「……そんな頑張ってる顔見てるとさ、俺、手ぇ出さない自信なくなる」

 低く掠れるような声が落ちてくる。その言葉が胸の奥に突き刺さった。視線を合わせられず、目を伏せる私。黒瀬からの視線が肌を刺すように痛い。だがそれと同時に、この男は私が座るまでテコでも動かない気だ、と悟った。

 深く深く、深呼吸する。大丈夫……たぶん……何もしないって言ってたし……。

 意を決したわりには、足取りは恐ろしくぎこちない。私はおずおずとソファに近づいた。黒瀬の目が一瞬不敵に光った気がしたが、そんなこと気にする余裕はなかった。露骨に端に座るのはさすがに感じ悪い気がしたので、ほんの少しだけ黒瀬からの距離を取ってソファに腰を下ろす。

 私がようやく腰を下ろした瞬間、黒瀬はわずかに目を細めて微笑んだ。その微笑みは余裕を装いながらも、内側に潜む猛獣が檻の中でじっと息を潜めているような危うさを帯びている。

「…やっと来たな」

 まるで喉の奥で鳴るような声。その声に私の背筋がかすかに震えた。

 黒瀬は少し体を前に倒し、肘を膝に乗せて視線を下げるようにしていたが、ふと私の方に顔を向ける。

「さっきのもそうだけど…お前さ、俺の理性試してんの?」

「へ……?」

 素っ頓狂な声が出た。彼の視線が、私の着ているシャツとハーフパンツをゆっくりと辿る。今の私は黒瀬の目にどのように映っているのだろうか。考えちゃいけない気もするが、黒瀬の視線が肌の上を這うような錯覚に陥るほどの熱がそこにあった。

 そして次の瞬間、不意に黒瀬はソファの背もたれに深くもたれかかり、大きくため息をついた。

「……危ねぇ。マジで一歩間違えたら、今ので抱き寄せるとこだった」

 その声はいつものからかい混じりではなく、深く抑えた真剣なものだった。黒瀬が自分の中で何かと戦っている。それを感じた瞬間、私の心臓の速さがさらに加速する。

「安心しろ、何もしねぇって約束は守る。でもさ…」

 黒瀬はゆっくりと私の顔を見つめ、少し苦しそうに目を細めた。その瞳の奥には、強い欲求と、それを必死に抑え込もうとする葛藤が見え隠れする。

「…隣に座ってるなら、せめてもうちょい近づけ」

 言葉の意味は簡単にわかる。でも、その一歩がどれだけ勇気のいることか。指先に自然と力が入る。けれど、彼がこれほどまでに自分を抑えているのに、これ以上負担をかけるのは酷だとも思った。

「……」

 私は小さく息を吸い、ゆっくりとお尻を半分ほど横にずらして、黒瀬との距離を詰める。だが、まだわずかな隙間があった。

「……その距離感、逆に焦らす気か?」

 声は落ち着いているようで、微かに掠れていた。優しさと苦しさが入り混じった響き。その奥に押し殺した熱が確かに潜んでいる。黒瀬はソファの背にもたれながら、私の膝に置かれた両手をじっと見つめていた。

 ゆっくりと黒瀬の手が伸びる。その指先が私の手に届く寸前、思わず肩がびくりと震える。けれどその直後──黒瀬の手はピタリと止まった。まるで目に見えない何かに引き留められたかのように。

「…ダメだな」

 深い吐息と共に低く漏れる言葉。それは私に向けられたものじゃない。自分自身を戒めるような、どこか切なさを滲ませた呟きだった。

 視線を感じて顔を上げると、黒瀬が真剣な瞳で私を見ている。その目はどこか迷いながらも、奥底で決意を宿している。

「ほんと…お前見てると、“何もしない”って約束が俺にとって一番の試練だわ」

 静かに吐き出されたその声は、冗談めかす余裕は微塵もなかった。

 黒瀬は目を逸らさず、わずかに身を乗り出す。触れてはいないのに、熱を帯びた空気が肌に纏わりつくようで、思わず喉が鳴った。

 心臓が速い。息が苦しい。なんでこんなに速いんだ。黒瀬はいつも試すようなことばかり言うくせに、こんな時だけ妙に抑えていて。……なんだか、ちょっとムカつく。

 だから私は、もうお尻半分分だけそっと横にずれてみた。ゆっくりと重心を移すと、太ももの外側が黒瀬の脚に触れる。服越しなのに、熱がじんわりと伝わってくる。それだけで呼吸が乱れそうになり、必死に胸の上下を抑え込むように深呼吸する。

「……っ」

 意を決して、黒瀬の左肩にそっと頭を乗せた。

 その瞬間、黒瀬の肩が一瞬びくりと揺れた。息をのみ込む音が耳元で微かに聞こえる。

 してやったり、と内心思う。少しは黒瀬も動揺したはずだ。

 でも次の瞬間、私の耳に届いたのは、爆発しそうなほど激しい鼓動だった。まるで私の耳元で大きな太鼓が鳴っているように、黒瀬の心臓が必死に早鐘を打っていた。

「え……」

 思わず声が漏れる。黒瀬はそれを聞いて、少しだけ苦笑いを浮かべた。「バレたか」とでも言いたげに。ゆっくりと息を吐き、肩にある私の頭をずらさないようにそっと顎を引く。視線は落ちたまま、低い声で言った。

「…お前に触れてるだけで、これだ。……俺、どんだけお前に弱いんだよ」

 おかしくなりそうなくらい心臓が速く動いていたのは、私だけじゃなかった。それがわかった瞬間、自分の行動を後悔する。黒瀬は必死に耐えているのに、なんてことをしてしまったんだろう。

 黒瀬の左腕が一瞬私の肩に回りかけて、またすんでのところで止まる。空を切った左腕がクッションに着地し、その手がぎゅっと握りしめられているのが視界の端に入った。いつもの意地悪な黒瀬じゃない。いじらしいほどに私を気遣う黒瀬がそこにいた。そのことが、私の心を深く絆していく。

「……ねぇ、黒瀬」

 静かに呟くと、頭のところでこちらの様子を伺う気配がした。彼の呼吸が一瞬だけ止まったように感じる。

「……何もしないっていうのは……触らないってことじゃないと思うよ…」

 黒瀬の左肩に頭を預けたまま、私は目を瞑って続けた。彼の心臓の音が脳まで直接響くみたいだった。

 黒瀬は私の言葉にピタリと動きを止めた。息が詰まるような静寂の中で、彼の心臓の鼓動が一層強く速くなるのがわかった。ドクン、ドクン、と、まるで目の前で脈打っているようだ。

「……お前さ」

 低く、掠れた声。黒瀬はクッションを握りしめていた手をゆっくり緩め、私の肩へとそっと回した。その動きは宝物を扱うかのように慎重で、指先がかすかに震えていた気がした。ああ、やっと触れてくれた。そんなことを思ってしまう自分がいた。

「…ほんと、俺を壊す気か」

 肩に回された腕が、優しく、しかし確かな力で私を抱き寄せる。強い力ではない。けれど、そこには黒瀬のすべての想いが、苦しみと愛情が、深く詰まっていた。

 黒瀬は私の髪に顔を埋めるようにして、押し殺した声で囁いた。その声は甘く、苦しげで、必死に理性を繋ぎとめている男の本音だった。

「今はこれで勘弁してくれ。もっと欲しくなったら…止められる自信がない」

 黒瀬は私が彼を選ぶまで何もしないと告げた。キスまでしたのに、これでまだ選んだことにはならないのか?と、私は不思議に思った。だけど、よくよく考えると、私から「好き」という言葉を伝えていない気がする。そもそも私は黒瀬が“好き”なのか……?彼の心臓の音を間近で聞きながら、私は自問自答した。

「絶対に落ちないから!」と、啖呵を切っていた私はどこに行ってしまったのだろうか。最初は戸惑いも疑いもした。逃げることばかり考えていた。けれど、黒瀬の優しさと、私を繋ぎ止めようとする必死さに当てられて、私は見事に落ちてしまった。居酒屋の前で高橋さんと睨み合っていた黒瀬の姿がふと頭をよぎる。嘘までついて、それでも私を取られるまいと必死だった黒瀬。あの瞬間、すでにぐらついていた私の心は完全に彼へと傾いていたのだ。

 正直に言えば、恐怖心はある。だけど、それは彼への嫌悪感から来るものではないとはっきりとわかる。きっと、変わってしまうのが怖かったのだ。この関係が変わってしまうこと、自分の気持ちが変わってしまうこと、その全てが。でもどうだろう。今、全身で感じる黒瀬の温もりは、そんな怖いものなのだろうか。


 もういい。さっきの問いに、もう答えは出ていた。


「私……黒瀬のこと、ちゃんと好きよ」

 それは、張り詰めた緊張と、ようやく本心に気づけた穏やかさが混ざり合った声だった。

 黒瀬の呼吸が一瞬止まった。まるで世界から音が消えたかのような静寂の中で、彼の心臓がドクン、と大きく鳴るのが、私の耳にはっきりと聞こえた。

 彼の腕がわずかに強く私を抱き寄せる。それは決して苦しいほどではない。ただ、大切なものを失いたくないと願う力の入り方だった。

「……今、何て…」

 掠れた声は震えている。いつだって余裕を忘れなかった黒瀬。どんな時も人をからかうような笑みを浮かべていた彼は、今、ここにはいない。

 もう一度確認するように、私の耳元で囁く。

「……もう一回、言ってくれ。塩見、頼む…」

 どんな言葉も巧みに操ってきたはずの男が、今はただ、私のその一言に縋っている。


 待たせてごめんね、大丈夫、私──


「黒瀬が好き」


 たったそれだけの言葉が、二人の間に張り詰めていたすべての緊張を溶かしていった。


 その瞬間、黒瀬は完全に息を呑んだ。そしてゆっくり、深く息を吐きながら私をぎゅっと強く抱きしめる。もう微かな震えも隠さず、感情のままに。

「……はぁ、もうダメだ」

 耳元に落ちたその低い声は、喜びと安堵と、ほんの少しの苦しさが入り混じる。

「やっと…やっと聞けた。ずっと、お前からその言葉を奪いたくて…でも、待つって決めて…」

 黒瀬の腕の力がさらに強まる。彼の背中に回した腕で、私も同じくらい強くしがみついた。黒瀬が自分自身をさらけ出しているのがわかる。だから、緊張していることももう無理やり隠す必要はないんだとわかった。わかってしまえば、こんなにも黒瀬の温もりは心地よい。

「塩見、ありがとう。俺を選んでくれて…本当に…」

 言葉を重ねながら、黒瀬の唇が私の髪にそっと触れる。触れるだけの、震えるほど大切にしたキスだった。

 顔を上げると、そこには私の知らない顔をした黒瀬がいた。普段の余裕や強気な表情はどこにもなく、ただひたすらに、安堵と深い愛情に満ちた、少年のような顔をしている。たぶん、私も今までしたことない顔をしているだろう。

 心臓はどくりと鳴ったが、もう逃げようとは思わない。どちらからともなく、ゆっくりと唇が重なった。


- - -


 そのキスは、最初から熱く激しいものではなかった。お互いを確かめるように、そっと、ゆっくりと触れるだけ。けれど、その柔らかな重なりに込められた想いの深さは、言葉では到底測れない。

 黒瀬の手が私の頬に添えられる。親指でそっと肌を撫でながら、ほんのわずかに唇を離した。

「もう逃さねぇから」

 低く、熱を帯びた声が落ちる。言葉より先にまた唇が重なり、今度は先ほどより少しだけ深く、お互いを求めるような温度を持ったキスだった。黒瀬の呼吸がわずかに乱れ、胸の鼓動が二人の間で響く。

「好きだ」

 短く途切れそうな声で呟かれたそれは、これまで何度も口にしていた“軽い好き”ではない。重く、深く、確かに私だけに向けられたものだった。心臓からズキリと鈍痛がする。今までなら咄嗟に逃げていたであろう痛みも、今はとても甘美なものに思えた。

「っはぁ……うん、好きよ…」

 重なった唇の隙間から零れる声。私がその言葉を口にするたびに、黒瀬は苦しそうに、それでも心底愛おしそうに顔を歪めた。

「…もう、どうしようもねぇな、俺」

 黒瀬は目を閉じ、私の額にそっと自分の額を重ねた。乱れた呼吸の合間に囁かれる声は震えていた。理性と感情、そのどちらにも傾ききれない不器用さが、ひどく愛しかった。

「何回でも言って。…もう、頭おかしくなりそうだけど」

 先ほどより深く、迷いのないキスが降ってくる。

「…好きだ、由佳。ずっと、ずっとお前だけ」

 耳元で掠れるように吐息混じりの声が落ちた。それはまるで宣告のように、甘く優しく、私の胸を満たしていった。


 今までの時間を必死で埋めるかのように、私たちは求め合った。気づけば私はソファに押し倒されるような形になり、黒瀬の熱い吐息が耳にかかるたび、体の奥がじんわり疼く。

「……はっ…黒瀬…」

 彼はまだ、どこかで理性を保とうとしていた。私はその背にそっと腕をまわし、柔らかな声で語りかける。

「ねぇ、黒瀬…私、ちゃんと選んだよ」

 黒瀬の首筋に顔を埋めて囁く。

「だから……もう我慢しないで」

 その一言が彼の中の何かを揺らしたのがわかった。私の首筋に落とされた熱い吐息は、これまで抑え続けていたものが一気に決壊する前触れだった。

「……いいのか?」

 低く震える声で問いかける黒瀬。私が小さく頷くと、彼は深く息を吐き、唇を私の耳元に寄せて囁いた。

「…もう止めるなよ」

 次の瞬間、黒瀬は私を包み込むように抱きしめ、唇を再び重ねた。そのキスは深く、激しく、すべてを求める熱を宿していた。ソファの革が微かに軋む音と、二人の荒い呼吸が部屋に満ちていく。もうお互いの距離に、何一つ隔てるものはなかった。


 熱い。苦しい。熱い。熱い。溶けそう。

 角度を変えて何度も重なる唇。触れ合う舌。優しく、でも確実に何かを刻み込むように肌を撫でる黒瀬の手。

 もうどれくらいこうしているだろうか。頭がぼうっとして何も考えられない。

 唇、額、頬、首筋、あらゆるところにキスを降らしながら、黒瀬は私を抱え上げた。自然と彼の首に腕を回す。

 ベッドに降ろされた私の体は、すぐに黒瀬に包まれた。私を見下ろす黒瀬の瞳には、もう余裕も戯れもなく、ただの一人の男の顔になっていた。その瞳には理性の最後の光が宿っていたが、それすらも私の吐息一つで簡単に消えてしまいそうだった。

「……もう、止められねぇ」

 低く掠れた声が私の耳元で熱を持つ。優しさと狂おしさが混ざった唇が首筋を辿り、肩先へと降りていく。

「ずっと、こうしたかった…お前を俺の全部で、めちゃくちゃにしたかった…」

 黒瀬の手がシャツの裾へと忍び、ゆっくりと肌に触れた。その動きは慎重で、しかし欲望を必死で抑え込むように震えていた。

「…大丈夫、絶対痛くしねぇ。だから…全部、俺にくれ」

 その言葉と同時に、黒瀬の瞳から最後の理性が溶け落ちる。

 あとは互いの熱と鼓動だけが、二人を支配していた。

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