黒瀬はただの同期だと思ってた

髪川うなじ


「いただきます」

 両手を合わせて、軽く頭を下げる。

 今日の日替わり定食は、サクサクの衣をまとった白身魚のフライ。湯気の立つ味噌汁の香りに、肩の力が抜けていく。味噌汁をひと口すすり、じんわり体が温まる。まだ少し熱いフライに箸を伸ばすと、衣が軽やかな音を立てて割れ、中から真っ白な身がのぞいた。

「ん〜〜、んまっ」

 思わず漏れた声に、背後から聞き慣れた声が降ってきた。

「また一人で食べてんの?」

 振り返ると、やっぱり黒瀬が立っていた。同期として入社し、今も同じ会社で働く彼。部署は違うのに、入社当初から何かと私にちょっかいを出してくる男だ。

「うっさいわね、別にいいでしょ」

 少し尖った声が出る。もはや条件反射みたいなものだ。黒瀬が相手だと、いつもこうなってしまう。

「今日の定食なに?」

 私の言葉をほとんど無視して、黒瀬は当然のように向かいの席に腰を下ろす。そして、ずいと身を乗り出し、私のトレーの上を覗き込んだ。

「魚のフライか」

 品定めするような声。視線がまだ湯気を立てているフライにとまる。

「毎回私の見に来てメニュー把握するのやめてくれない? メニュー表見ればいいでしょ」

 眉間にしわを寄せて抗議すると、黒瀬は鼻で笑った。その表情は、昔から少し人を小馬鹿にしているように見える。

「いいだろ別に。お前一人で寂しそうだから、声かけてやろうと思って」

「寂しくないから」

 ムッとして睨み返すと、黒瀬は愉快そうに口角を上げた。やっぱりこの男、性格が悪い。

「じゃ、俺も頼んでこよ」

 満足げに言い残し、黒瀬は立ち上がった。食券売り場までの足取りは妙に軽やかだ。

 いつもこうだ。勝手に来て、勝手に絡んで、勝手に去っていく。黒瀬秀一郎とは、そういう相手だった。


 私が呆れている間に、黒瀬は私と全く同じ白身魚のフライ定食が乗ったトレーを手に戻ってきた。何の迷いもなく、また私の向かいの席に腰を下ろす。

「……なんで戻ってくるのよ」

 思わず口から出た言葉は、怪訝な響きを帯びていた。

「おひとりさまランチ中のお前に付き合う優しい俺」

 得意げな声に、私は盛大にため息を吐く。

「余計なお世話よ」

「そう言うと思った」

 黒瀬はははっと喉を鳴らし笑い、「いただきます」と手を合わせた。まったく、人が一人で落ち着いて食事をすることも許さないのか、この男は。

「実際、お前いつもここで一人で食ってるじゃん」

 箸をつけながら、黒瀬が当たり前のように言う。その言葉に、カチンとくる。

「友達いない人みたいに言わないでくれる? それがたまたま多いだけだから! 昨日は外で食べたし」

 必死に反論すると、黒瀬の箸の動きがぴたりと止まった。顔を上げた彼の目に、一瞬、怪訝な色が混じる。けれど、それはすぐにいつもの、人をからかうような表情に変わった。

「へえ?誰と?まさか男?」

 ふたつの質問が、立て続けに飛んでくる。その唐突さに、私は一瞬言葉に詰まった。

「…だったらよかったんですけどね。どうせ“おひとりさまランチ”ですよー」

 わざとらしいほど肩をすくめ、そっぽを向いて答えた。さっき黒瀬に言われた言葉をそのまま返してやる。どうせ一人でいるのを見られているんだから、いっそ開き直った方が楽だ。

「なんだよ、結局ひとりじゃん」

「誰とも時間合わなかっただけよ」

 そっけない声で返す。これ以上、この話題を引きずりたくなかった。なのに黒瀬は箸を置き、視線をまっすぐ私に向けてくる。

「俺と行けばよかったのに」

 社食の喧騒の中でも、その声だけは妙にはっきりと耳に届いた。思わず息を飲む。

「……は?」

 今なんて言った?頭がうまく意味を処理できない。いつも軽口を叩く彼から、そんな言葉が出てくるなんて。

「……まあどうせ、『気まずいからやだ』とか言うんだろうけど」

 どこか不満げにそう続ける黒瀬。その言葉に、私の頭にある事実がよぎり、自然と目をそらす。無意識に声のトーンが落ち、言葉を濁した。

「だってそりゃあ…ねぇ…」

「なに、“そりゃあ”って。はっきり言えよ。まさか俺と二人だと意識しちゃうとか?」

 黒瀬の口元は、いつものようにニヤついている。けれど、その瞳の奥は、どこか真剣な光を宿しているように見えた。私の心臓が、小さく跳ねる。

「違う!あんた一応社内の女子から人気だし、二人でランチしてたら視線が痛いっていうか……まあ私にはあんたがそんなに人気あるの謎でしかないけど」

 必死に早口で言い返し、なんとかこの会話をいつもの軽口に引き戻そうとする。

「あーなるほどね」

 黒瀬はわざとらしく、でもどこか納得したような声を出し、再び定食に手を伸ばした。

 なんだか拍子抜けする反応だ。というか人気あることは否定しないのか。やっぱりただの同期としての、いつものちょっかいだったのだろう。私は心の中で小さく、安堵の息を吐いた。

「でもお前が気にする必要ねぇだろ。俺が誰と飯行こうが、誰かに文句言われる筋合いねぇし」

 黒瀬は淡々とそう言い放った。その言い分は、確かに正論だ。でも、それは彼の話であって、私の話ではない。

「黒瀬はそうだろうけどさ、女子は色々あるんです〜」

 わざと語尾を伸ばして、大袈裟に肩をすくめる。女性社員同士の、目に見えない探り合いや嫉妬、噂話の種になることへの面倒くささなんて、彼には一生理解できないだろう。

「あー、めんどくせぇな女子のそういうの」

 黒瀬は心底うんざりしたように、箸先でフライをつついている。

「私だってめんどくさいと思ってるわよ。私と黒瀬なんてなんにもないのに」

 そう、私と彼の間には、何もない。ただの同期で、いつも軽口を叩き合って、私が一方的に振り回されているだけの関係だ。恋愛感情なんて、微塵もない。だからこそ、周りから変な目で見られるのは困る。

 その「なんにもない」という言葉に、黒瀬の箸がぴたりと止まった。顔を上げた彼の瞳が、一瞬だけ、微かに引っかかりを覚えたような色を宿す。

「でもさ、俺はお前と飯行きたいと思ってんのに、なんでそっちの都合ばっか優先してやんなきゃなんねーの」

 社食の喧騒が、一瞬遠くなった気がした。私の耳は、今、何を拾った?

『俺は、お前と飯行きたい』……?

 彼の言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも直接的だった。いつもは人を茶化してばかりの黒瀬が、こんなにストレートな言葉を、私に向かって。

「なに黒瀬、私とご飯行きたいの…?」

 頭の中で、今言われたばかりの彼の言葉が何度も反芻される。まるで、別の誰かが喋っているかのように、私の口から疑問が漏れた。彼の言葉の意味が、理解できそうで、したくなくて。混乱の中で、視線だけは黒瀬の顔に釘付けになった。

 彼は深い溜息をひとつ吐き出す。

「……お前、鈍すぎんだよな、マジで」

 呆れたような、それでいてどこか諦めに似た声だった。

 鈍い? 私が? また私を小馬鹿にしているのか。そう思いかけた瞬間、私は勝手に安堵しそうになる。きっとこれはいつもの軽口だ。そうに決まってる。

「言葉にしなきゃ伝わるもんも伝わりませんよ〜、黒瀬くん?」

 わざとらしい笑顔を作る。軽口の流れに戻そうとしている自分がいる。

 だが、私の余裕は次の黒瀬の言葉であっけなく吹き飛ばされた。

「……お前さぁ、煽ってんの?」

 低く落とされた声。その目に宿る光は、もうからかいの色など微塵もなかった。まるで私を射抜くかのように真っ直ぐで、それは今までに見たことのない、真剣な眼差しだった。

「だったらちゃんと言うわ」

 ごくり、と喉が鳴る音が、社食の喧騒の中でやけに大きく聞こえた。心臓がドクンと大きく脈打つ。嫌な予感がする。この空気は、いつものちょっかいとは明らかに違う。

「俺、お前と二人で飯だって行きたいし、なんならもっと一緒にいたいと思ってるけど?」

 その言葉が私の耳に届いた瞬間、私の思考は完全に停止した。『飯、行きたい』。それはまだ理解できた。でも、……は? え? 何、今、なんて言った?

 脳がその言葉の意味を処理しきれない。これまで積み上げてきた“黒瀬秀一郎”という人間の私の中の定義が、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚に陥った。まさか、そんな、ありえない。

「はい? そこまで言えとは言ってないけど」

「遅ぇよ。もう言っちまったもんは戻んねぇからな」

 黒瀬は私の反応など意に介さず、淡々とした声でそう言った。しかしその目は、涼しい顔とは裏腹に、有無を言わせぬ強さを宿していた。

「で、どうすんの。逃げんの?それとも素直に飯行く?」

 問いかけられたその二択に、私は一瞬言葉を失った。彼の言葉に宿る熱量が、あまりにも強すぎて。頭の中が真っ白になり、うまく呼吸すらできなかった。

 それでも、逃げるなんて選択肢は、今の私にはなかった。逃げたくなかった。いつも彼にからかわれてばかりだけど、ここで引くのはなんだか癪だ。負けず嫌いな一面が、ぐっと顔を出す。

「…黒瀬の奢りならいいよ」

 半ばヤケクソでそう答えた。どうせ「調子乗んな」とか何とか言って断られるだろう、という気持ちと、こんな挑発に乗るのも悔しい、という意地が混じっていた。

「あーもう、言うと思ったわ」

 黒瀬は呆れたように肩をすくめながらも、口元に薄い笑みを浮かべる。どこか、嬉しそうな。

「いいけど、その代わり次はお前が奢れよ?」

「なんで私が奢るのよ」

「その次も二人で行く前提なのよ、わかる?」

 黒瀬は私の言葉を遮るように言い放つ。その言葉に、心臓がまたドクンと跳ねた。その次も…二人で…行く前提…?

「……いや意味わかんないんだけど」

 混乱したまま首をかしげる。彼の言葉の裏にある意味が、まるで掴めない。いや、掴みたくない。かもしれない。

「いいから。意味わかんなくてもそのままでいろ。そのうちわからせてやるから」

 黒瀬はそう言い、ニヤリと笑った。いつもの小馬鹿にしたような笑みとも違う。そこには、自信と挑戦の色が入り混じっていた。そして、その奥に見える真剣な光が、私の胸をざわつかせる。

『わからせてやる』。その言葉が、まるで呪文のように頭の中で繰り返される。一体、何をわからせるというの? その「そのうち」って、いつのこと?

 視界には、さっきまでと変わらない社食の風景が広がる。向かいには、さっきまでと同じ黒瀬がいる。なのに、たった数分の会話で、すべてが違って見えていた。

「なにその含みのある言い方…ムカつくんだけど」

 反射的に言い返す。けれど、声が少し震えていた。ムカつく。本当にムカつく。なのに、彼の提案を断るという選択肢が、なぜか頭から抜け落ちている。

 黒瀬は私の言葉に満足そうに口元を歪めた。その笑みは、小馬鹿にしているようでもあり、何かを見透かしているようでもあった。

「ムカつくけど逃げはしないんだ?……まぁいいや、ムカつくならランチで機嫌取ってやるよ」

「ならデザートまで付けてやるー!」

 意気揚々とそう宣言した。金額が上がる?知るか。甘いものは正義だ。これなら少しは気が晴れるだろう。

「 甘やかされる気満々かよ。いいけど、俺の機嫌も取れよな」

 呆れたように眉を上げる黒瀬。しかしすぐ、ニヤリと口角を吊り上げる。……やっぱり、この男はタダでは終わらない。

「なんで黒瀬のご機嫌取りしなきゃいけないのよ」

 不満をぶつけると、彼はふっと鼻で笑った。

「俺に付き合うってそういうことだろ。……ま、お前なら気づかねぇ内にちゃんとやれてそうだけどな」

「は?意味わかんないし」

 私はただそう返すのが精一杯だった。

 黒瀬の言葉は、まるで宇宙語。普段なら笑い飛ばして終わるのに、今日の彼の言葉はひとつひとつが私の胸に突き刺さり、小さな波紋を広げていく。

「意味わかんなくてもいい。お前はそのまんまで俺の隣にいりゃ、それでいい」

 黒瀬はそう言ってふっと笑った。その表情はいつものからかいとは違い、どこか寂しさと強い決意が入り混じった複雑なものだった。

 私の頭の中はますます混乱する。『隣にいる』って、どういうこと?まるで、私が彼の隣にいることが当然だとでも言われているみたいだ。

「今日の黒瀬、なんか変。意味不明なことばっかり言うし」

 私は無意識に、いつものように茶化す言葉を口にする。変。そうだ、今日の黒瀬はどこかおかしい。

 黒瀬は深々とため息をついた。そのため息には、呆れと、どこか優しさが混じっている気がした。

「変なんじゃなくて、本音漏れてんだよ。いつもは抑えてんの。気づけよ鈍感」

『本音』。その言葉が、私の胸に重く響いた。黒瀬の本音。いつもは抑えていたもの。頭の中のピースが、少しずつ組み合わさっていく。心臓が早鐘を打った。

「鈍感じゃないし!」

 反射的に声を荒げる。何よ、鈍感って。私はちゃんと周りを見てるし、気づいてないわけじゃ──いや。もしかして、それこそが「鈍感」ってこと…?

「………え?鈍感って、どゆこと…?」

 気づき始めた途端、胸の奥がざわざわしてきた。黒瀬はそんな私をじっと見つめる。そして、もう一度「はぁ」とため息をついた。今度は、諦めにも似た、どこか優しいため息だった。

「……ほんとに気づいてねぇんだな」

 彼の目が真っ直ぐに私を捉える。社食の喧騒が遠のき、彼の声だけが、やけにクリアに響いていた。

「……俺、お前のこと好きなんだけど」

 その一言が、私の頭の中で、何度も、何度も反響する。

 好き。…好き?黒瀬が?私のことを?

 社食の喧騒が、まるで誰かがボリュームを下げたかのように遠のく。私の耳に響いているのは、自分の心臓が爆弾のように鳴り響く音だけだった。

「はあ!?」

 思わず、裏返った声が出た。

「はあ!?じゃねーよ。ずっと言わないでいた俺の方がよっぽど『はぁ?』だわ」

「いやいやいやいや、なに言ってんの!?」

 頭の中が真っ白で、口から出るのはそんな言葉ばかり。なんでそんなこと急に言うの。しかも社食のど真ん中で。

「お前が煽ったんだろ。責任取れよ、この告白どうすんだ」

「どうするって、黒瀬が急に変なこと言い出しただけじゃん!!」

 声を荒げる私に、黒瀬は微動だにしない。その瞳は、真剣そのものだ。

「変なことじゃねぇだろ。俺は本気で言ってんの」

「変なことだよ!!だって、あの黒瀬だよ!?」

 私の言葉に、黒瀬の眉がピクリと動いた。

「“あの黒瀬”だからだろ。他の誰にもこんなこと言わねーよ、バカ」

 僅かな苛立ちと、どこか傷ついたような色が彼の顔に浮かんだ。他の誰にも言わない。それは…つまり私だけが特別だと…?

「はあああ…?」

 もはや混乱と呆れが入り混じった意味不明な声が出る。目の前の男が本当に、いつもの黒瀬秀一郎なのか疑わしくなる。

「いいから返事しろ。俺、お前じゃなきゃ嫌なんだけど」

 黒瀬がさらに一歩踏み込んでくる。その真っ直ぐな視線が、私の逃げ道を塞いでいく。息が詰まる。

「いや、そんな急に言われても……てか、タルタルソース飛ばしたんだけど!!黒瀬のせいで!!」

 咄嗟にシャツに飛んだタルタルソースを見つけ、視線を逸らす。必死だった。この状況から逃れたい一心で。

「は?俺の告白よりソース優先かよ」

 呆れた声。でも、少し笑っている。

「シミになったらクリーニング代払ってもらうからね!!」

「いいけど、その代わり次のランチはクリーニングのお礼も込めて俺とデートな。文句はナシな?」

「なんでそうなんの!?」

 私の抗議は、黒瀬には届かない。

「なんでじゃねぇだろ。もう俺の告白、スルーできねぇし」

「今いい感じに話逸したつもりだったのに…」

「甘いな。俺がそう簡単に逸らされるわけねーだろ。……で、答えは?」

 フッと笑う黒瀬。その顔には確信めいた余裕が漂っている。逃げられない。

「だから…急に言われても困るって…」

 消え入りそうな声でどうにか絞り出す。

「じゃあ時間やる。その代わり、俺のこと意識して過ごせ。…覚悟しとけよ、どんどん好きにさせるから」

 ドクン、と心臓が大きく跳ねる。

「好きにさせるから」。それはまるで決定事項みたいな響きで、全身が熱くなる。

「いっ…意味わかんないし!!てか本気で言ってんの!?」

 混乱しすぎて声が裏返る。本気なわけがない。こんな、こんな突然…。

「本気じゃなきゃ、こんなめんどくせぇこと言わねーよ。お前がどんだけ鈍感でも、諦めねぇから安心しろ」

「さっきから人のこと鈍感鈍感って…!」

「事実じゃん」

 また鈍感と言われてカチンとくる。頬が熱い。悔しい。でも、それだけじゃない。

「まぁ、そこが可愛いと思ってるけどな」

「ばっ…!」

 さらりと投げられた「可愛い」に、頭が真っ白になる。可愛い…? あの黒瀬が、私に?顔に集まった熱がさらに広がっていく。

「黒瀬やっぱり変!」

 半ば叫ぶように言い放つ。こんなの、私が知ってる黒瀬じゃない。でも、その瞳はどこまでも真剣で、私の心をかき乱すには十分だった。

「変なんじゃなくて、本性バレただけな」

 黒瀬は相変わらず涼しい顔で言い放った。本性…?この期に及んで、さらっとそんなこと言うなんて。

「だっていっつも小馬鹿にしてくるじゃん…!」

 必死の抗議に、黒瀬はふっと笑った。

「それはお前が可愛くて、ついちょっかい出してただけ」

「はあ…?小学生かよ…」

「あ?じゃあその小学生にドキドキしてんのは誰だよ」

「し、してないし!」

 反射的に声が上ずった。心臓が、うるさいくらいに鳴っているのに。

「嘘つけ。その否定の早さがもう怪しいんだよな」

 図星を突かれたみたいで、顔がさらに熱くなるのがわかる。

「うっさい!黒瀬にドキドキとか…あり得ないし…!」

「へえ〜?じゃあ今なんでそんな必死に否定してんの?顔、赤くなってるけど」

 黒瀬の声が、妙に楽しげに響く。言われて気づく。頬に溜まった熱は、もう隠せるレベルじゃない。

「こ、これは違う!黒瀬がいつもと違うから調子狂うってだけ!」

 精一杯の言い訳を叫ぶ。動揺が隠しきれない。黒瀬はそんな私をじっと見て、またフッと笑った。その表情は、からかいと、どこか愛しさが入り混じったようで、ますます心臓が騒ぎ立つ。

「ふーん。じゃあこれから毎日調子狂わせてやるわ。…慣れるまで付き合えよ」

 黒瀬は満足そうに口角を上げた。その一言に、私の心臓がまたドクンと跳ねる。毎日…?付き合う…?頭の中があっという間にパニックで埋め尽くされる。

「だからなんでそうなんの!?」

「お前が可愛いこと言うからだろ」

 さも当然とばかりに言い放たれ、私はぐっと言葉に詰まった。可愛い…?誰が…?何が…?

「もう逃げんなよ、由佳」

 ──え。

 突然、私の下の名前が呼ばれた。瞬間、体がピシリと硬直する。

「し、下の名前で呼ぶな!!距離縮めようとしてるみたいで…なんか、やだ!!」

「やだってなんだよ。余計呼びたくなるわ、由佳?」

「やめてってば…!」

 名前を繰り返されるたび、胸の奥がじわじわ熱くなる。声が震えているのが自分でもわかる。

「やだ。お前が恥ずかしがるの、もっと見たくなった」

 黒瀬の視線がじっと私を捉えて離さない。その瞳が、からかい半分、真剣半分の色を帯びているせいで、余計に息が詰まる。

「こんのドSキングが……!」

「あー、それ褒め言葉として受け取っとくわ」

「国民いじめて楽しいかー!」

「楽しいけど?だってその国民、俺にだけ必死で反抗してくるんだもんな」

 黒瀬はにやりと笑い、再び箸を手に取る。私はといえば、もはや目の前の定食に集中できるわけもなく。胸の奥で、ドクドクと暴れる心臓の音だけがやけに大きく響いていた。

「だって黒瀬しか、こんなふうに絡んでこないし…」

 小さくぶつぶつと呟く私に、黒瀬は顔を上げて自信満々に言い放った。

「そりゃそうだろ。お前にこんな絡み方できんのは、俺だけだからな」

「なにその自信!いらないんだけど!」

「いらなくても持ってるし。てか、お前が一番それ認めちゃってるじゃん」

 ぐっ…。喉が詰まった。確かに、黒瀬以外にこんな風に絡まれたら、私はきっと無視するか、もっときつく拒絶していたはずだ。

「う……じ、事実を言ったまでです…」

「はいはい、言い訳乙」

 黒瀬は鼻で笑った。口では完全に敵わない。私は不貞腐れて視線を逸らすしかなかった。すると黒瀬は、ふっと笑みを消して、また真剣な顔でこちらを見た。

「でももう遅いな。俺への特別扱い、バレてるから」

「別に特別扱いなんてしてないわよ!それ言うなら黒瀬だって、他の女子には普通に優しくしてんじゃん!」

「お、なにそれ。ヤキモチ?」

「バカなの!?」

 顔が一気に熱くなるのがわかる。必死に否定する私を見て、黒瀬は楽しそうに目を細めた。

「他のやつらには“普通”なだけ。お前には“俺用”だからな、扱いが」

 その言葉と同時に、黒瀬の口元がにやりと吊り上がる。心臓が音を立てて跳ねた。“俺用”…?どういう意味…。

「私には優しくする価値がないってこと…?」

「逆だバカ。お前には“普通の優しさ”なんかじゃ全然足りねぇってことだよ」

「は…?」

 黒瀬の言葉の意味が、うまく理解できない。けれど、その真剣な眼差しは、否応なしに私の心を揺さぶった。

「は?じゃねぇよ。お前だから特別なやり方してんだろ、気づけよ鈍感姫」

「こ、国民から姫に昇格した……って鈍感姫ってなに!?不名誉極まりないんだけど!?」

「はは、じゃあ認めさせてやるよ。“黒瀬様専属の姫”って称号が似合うってな」

 黒瀬は楽しそうに笑った。そんな称号いらない!全力でいらない!

「やめてよ!他の女子達になに言われるか…!」

 周りの視線が一気に私に突き刺さるような気がして身震いする。

「俺が全部守るから気にすんな」

 さらりと、とんでもないことを言いのける黒瀬。守るって、何を? どうやって?私の頭は一瞬でフリーズした。

「意味わかんない!意味わかんないっ!」

「いいよ、今は意味わかんなくても」

 黒瀬はフッと笑い、どこか満足そうに私を見ていた。その目には、からかいの色なんて微塵もなく、決意の強さが滲んでいた。

「なんなのよ…」

 私はもう諦めに近い呆れた声を出すことしかできない。それなのに、胸の奥のドクンドクンという音は全く収まらなかった。

「お前のことが好きで仕方ない同期だよ?」

 黒瀬は、涼しい顔で、しかし真っ直ぐに私の目を射抜くように言った。その一言の破壊力は抜群で、私の頬にさらなる熱がこもる。社食の空気が、彼と私の間だけやけに重く感じられた。

「あんたねぇ…!」

 もう反論の言葉が見つからない。羞恥と混乱で、頭の中が真っ白だった。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。

「……仕事戻る!残り食べといて!」

 ほとんど反射的に叫び、ガタンと音を立てて席を立つ。シャツに飛んだタルタルソースのことなんて、もうどうでもいい。ただ、とにかくここから離れたかった。

「あっ、おい!この量はさすがにきついって!」

「知らない!」

 背後から黒瀬の声が聞こえたが、振り返る余裕もなく私は社食を飛び出した。足早に、まるで追い立てられているかのように、その場を後にした。


 - - -


 定時。今日は珍しく残業もなく、颯爽と帰り支度を整える。

 いつもなら「やっと帰れる…」と安堵のため息をつくところだが、今日の私は違った。午後からの仕事はまるで身が入らず、頭の中では黒瀬の告白の言葉がリフレインし続けていた。

 早く家に帰りたい。一人で今日の出来事を整理したい。


 エレベーターの「開」ボタンを押し、足早に乗り込む。

「げっ…」

 思わず心の声が漏れた。よりによって、そこには黒瀬がいた。今この瞬間、一番会いたくなかった相手が、平然と立っている。

「お前、人の顔見るなりなんて声出してんだよ。失礼なやつだな」

 黒瀬はいつものように、いや、むしろ普段より楽しそうに口元を緩めている。

 失礼とか、あんたにだけは言われたくない。心の中で毒づきながらも、ここで反応したら黒瀬の思うツボだと、私はぐっと堪える。早く扉、閉まって開いて、私だけ先に帰らせて…。そう願いながら、無言で視線を前に向けた。


 ──が。

 フロアを降り、会社の玄関を出て帰り道を歩き始めてもなお、なぜか黒瀬が隣にいる。

「あんたねぇ…いい加減にしなさいよ…」

 思わず疲れたような声が出る。社食での一件で頭はまだ混乱中だ。なのに、こうして隣を歩かれると、心臓が休まる暇がない。

「いやいや、俺もこっちだし」

「それは…わかってるわよ…!」

 黒瀬の住むマンションは、私の帰り道の途中にある。だから、二人で会社を出ることはこれまでも何度かあった。いつもなら特に意識することもなく、たわいもない会話をして歩くだけ。それが私たちだった。深い意味なんて、全くなかった。

 少なくとも、今日までは。

 お昼のあの言葉が、頭をよぎる。もしかして、この“いつもの帰り道”も、彼にとっては意味のある時間だったのだろうか。そう思った途端、勝手にギクシャクしてしまう自分がいた。

「空気読めって言ってんのよ…!」

 私は彼との間に少し距離を取ろうと、半歩横にずれる。

「空気読んだらお前と帰る一択だけど?」

 黒瀬はそんな私の抵抗をさらりと受け流し、ニヤリと笑った。その言葉に、私の足はぴたりと止まった。心臓が、またひときわ大きく跳ねる。

「…好きな子いじめて楽しんでるわけ?」

 自分で自分のことを“好きな子”と言うなんて、正直抵抗があった。でも、気づけば口をついて出てしまった。もし仮に、黒瀬の告白が本気なのだとしたら。なぜ、わざわざ私を困らせるようなことばかりするのか。

「ああ、そうだよ」

 黒瀬は一切の躊躇もなく、あっけらかんと答えた。その潔すぎる返事に、私は言葉を失う。

「でも、いじめてんじゃなくて構ってるだけな。俺なりの愛情表現」

「黒瀬に構ってくれなんてお願いした覚えないわよ…」

 精一杯の反論を返しながら、ふと視線が黒瀬の横顔を捉える。そこには、いつもの軽薄な笑みはなかった。代わりに、どこか真剣で、少し困ったような表情が浮かんでいる。

「俺もお前にハマるつもりなんかなかったし。…まぁもう抜け出せねぇけど」

 その言葉が胸にじわりと広がる。「ハマる」という言葉の重みが、私の心臓をぎゅっと締めつけた。

「ハマるって……いつから…?」

「もうずっと前からだよ。気づいた時には、お前のことばっか考えてた」

 黒瀬は少しだけ遠い目をして、ぼそりと呟いた。その声音は普段の彼からは想像できないほど、静かで、真剣だった。

「なにそれ…ていうかなんで私?」

 混乱の中で、反射的に問い返す。私なんて、どこにでもいる普通の人間だ。なぜ、この男が私に…?

「さぁな。理由なんかいらねぇだろ。好きになったのがお前だった、それだけで十分じゃね?」

「うわー出たその理屈。私はちゃんと理由が欲しいんですー!」

 もうどうにでもなれとばかりに、大声で抗議した。理由がないなんて、そんなの納得できるわけない。頭の中はまだ全く整理がつかず、ぐちゃぐちゃのままだった。

「めんどくせぇ姫だな。でも、そういうとこも好きだから困るんだよ、俺」

「なんなの? 飴と鞭の使い分け師なの?」

「あー、それいいな」

 黒瀬は顎に手を当てて、まるで感心したかのように呟く。

「で?どっちが欲しい?飴?鞭?それとも両方?」

 黒瀬は顔をぐっと近づけ、低い声でからかうように尋ねてきた。その表情は、普段の軽さとは違い、獲物を見定めるような真剣さを帯びている。

「どっちもいらないから!」

 反射的に叫ぶ。こんな選択肢、冗談じゃない。

「はいはい。でも結局どっちも俺からしかもらえねぇんだから、観念しとけ」

「なんかムカつく!」

 顔が熱くなるのを感じながら、睨みつける。すると黒瀬は、ますます面白そうに目を細めた。

「ムカついてる顔も可愛いとか思ってる俺が一番ムカつくわ」

「なにそれ…」

 思考が完全に停止した。「可愛い」という言葉が、また顔の熱を上げる。ムカつくはずなのに、彼の言葉がじわじわと心に染み込んでいく。気づけば、私はもう何も言い返せなかった。

「……というか、黒瀬ってムカつくけどモテるじゃん。ムカつくけど」

「お前、さっきからムカつく連呼しすぎな?」

 呆れたような声に、思わず視線を合わせる。

「モテるとかどうでもいいし。俺が欲しいのはお前だけだしな」

「ぐぬぬ…」

 歯がゆさに、小さく唸る。

「自分で言うのはなんかあれだけど…もっと可愛い子からだって告白されるでしょ?先月も取引先の女の子に告白されてたよね?」

 視線を逸らしながら、つい先日耳にした噂を口にする。私なんかより、ずっと彼に似合う相手がいるはずだ。

「あー…そんなこともあったな。でも断ったから関係ねぇし」

 黒瀬はさらりと言い放ち、肩をすくめた。まるで大したことではないかのように。告白した子が気の毒になる。こいつは本当に相手の気持ちを考えているのだろうか。

「なんか釈然としないな」

 胸の奥のもやもやが、そのまま口を突いて出る。

「しなくていいよ。どうせそのうち俺に落ちてるから安心しろ」

「絶対落ちないし!」

「じゃあ俺に落ちるまで毎日仕掛けるけど文句ないな?」

 黒瀬の瞳が、獲物を捉えたように鋭く光った。その一言に背筋に冷たいものが走る。毎日、仕掛ける?この混乱が、毎日…?

「なんでそうなるの!?」

 悲鳴のような抗議に、黒瀬は鼻で笑った。

「なんでもクソもねぇだろ。俺がそうしたいからだよ」

「待て待て待て、そういう話じゃない!!」

 私は慌てて黒瀬の腕を掴む。冗談じゃない。毎日この調子で付き合わされるなんて、私の精神が持たない。

「いや、もうそういう話になってんだよ。…遅い。俺、お前にスイッチ入ってるから止まんねぇよ?」

 黒瀬は私の手にするりと自分の指を絡めてきた。その熱に思わず手を引こうとするが、彼は逃がしてくれない。

「やだ!!さっきも言ったけど、あんた人気だけはあるんだから!!やっかみ食らうのごめんなんだけど!!」

「“だけ”ってなんだよ、“だけ”って」

 不満そうに眉をひそめる黒瀬。

「だから言っただろ?俺が背負うから、お前は気にすんな。…お前のこと、誰にも渡す気ねぇし」

 その言葉は、まるで命令だった。“誰にも渡さない”なんて。まるで、私が彼のものだとでも言いたげな。

「わ、私に好きな人がいるかどうかとかは関係ないの!?」

 思わず確認するように問いかけてしまう。自分の中に一縷の望みをかけている部分があることに気づき、ドキリとした。

「関係ねぇ。たとえいたとしても、俺がそいつ超えればいい話だろ」

「強…」

 黒瀬は微動だにせず言い放った。その揺るぎない自信に、呆れを通り越してある種の畏怖すら覚える。この男の自信は一体どこから来るのか。

「参った?」

 黒瀬が私の顔を覗き込むように笑う。その挑発的な視線に、また腹が立つ。

「あームカつく…好きな人なんて特にいないのが余計にムカつく」

 そう。私には好きな人がいない。だからこそ、こんな風に強引に来られると、余計に困る。反論の余地がない。

「はは、そりゃ好都合。そんじゃ遠慮はいらないな」

 黒瀬は満足そうに笑った。その笑みには、一切の迷いがなかった。

「だから絶対落ちないってば!」

「はいはい、強がりは今のうちに言っておけ?…それ、落ちるやつが言うセリフだから。楽しみにしてるわ」

 黒瀬はそう言って、私の頭にぽん、と手を置いた。その手つきは意外にも優しくて。私の抵抗とは裏腹に、心臓がまた大きく跳ねる。

“楽しみにしてるわ”。その低く落ち着いた声が、耳の奥で何度も反響し続けた。

「なんでそんな余裕たっぷりなのよ…!」

 熱を持った頭で、それでも睨みつけるように問いかける。

「だって、俺もうお前しか見えてねぇし。…まだ逃げられる気でいんのが可愛いんだよな」

 黒瀬はそう言って、フッと笑った。その瞳は、私以外の何も映していないかのように真っ直ぐで、射抜くような強さがあった。胸がまたざわつく。

「だって…黒瀬と付き合うとか考えたことないし…」

 素直な戸惑いが口をつく。これまで、黒瀬を恋愛対象として意識したことなんて一度もなかった。

「じゃあこれから考えさせてやるよ。俺が本気だって、嫌でもわかるようにな」

「あんたどんだけ鬼メンタルなのよ」

 有無を言わせぬ断言に、呆れて思わずこぼれた声。普通ならもっと諦めるところだろうに。

「お前が相手だと、そうなるらしい」

 黒瀬はどこか嬉しそうに付け加えた。その一言が、また胸をぎゅっと締めつける。

「てかもう認めろよ。俺に心、乱されてんだろ?」

 黒瀬の視線が、私の奥を見透かすように突き刺さる。図星すぎて、思わず視線を逸らした。

「い、いたって平常心よ!」

「その平常心でタルタルソース飛ばしたのお前だよな?」

「うっさい…!」

 ぐさり。完璧に刺さった。何も言い返せない。

「はは、図星つかれて言葉詰まってんじゃん。可愛いなお前」

 黒瀬は愉快そうに笑い、私の頭をくしゃりと撫でた。その手つきは、優しさと、そして有無を言わせない強さが入り混じっている。

「あー!もうほんとムカつく!これで仕事でもミスしたら全部黒瀬のせいだからね!」

 顔を真っ赤にして叫び、私はその場から逃げるように駆け出した。このままじゃ、どうにかなってしまいそうで。

 その背中を見送りながら、黒瀬は小さく呟く。

「上等」

 口元には、満足げな、そしてどこか企むような笑みが浮かんでいた。


 - - -


 昨日は家に帰ってからも、頭の中が黒瀬でいっぱいだった。彼の言葉が、態度が、何度も何度も脳裏を巡る。

 おかげで眠りは浅く、職場でもちょっとしたことで彼のことを思い出してしまい、集中できない。結果、今日はいつもならしないような凡ミスを連発。仕事は滞り、お昼はデスクでパンをかじっただけで済ませ、社食に行く気力さえなかった。

「ほんとにミスった…呪ってやる…」

 疲労困憊でぐったりと項垂れながら会社のエントランスを出る。今日の私は、気力も体力もすっかり底を尽きていた。

 そのとき。

「はは、マジでやらかしたのかよ」

 背後から聞き慣れた声が飛んでくる。振り向くと、まるで他人事のように笑う黒瀬。なんでいるの。よりによって、私の今日一日の不調の元凶が。そして、私のミスを楽しそうに笑っている。

「ほんとに呪う…」

 もはや反論する気力もなく、私は呻くように呟いた。

 黒瀬はまたしれっと隣を歩き出す。どうしてこの男は、ここまで私を振り回すのだろうか。

「……避けられたかと思った」

「え?なに?」

 黒瀬がぼそっと呟いた気がしたけれど、疲れているせいかうまく聞き取れなかった。私が聞き返すと、黒瀬は顔を上げる。

「なんでもねぇよ」

 どこか上機嫌な黒瀬に、思わずジト目になる。なんでそんな嬉しそうなの。私がこんなに疲れてるっていうのに。


 ぶつぶつ文句を言いながらしばらく歩き、交差点に差し掛かる。

「じゃ、私はここで」

 力なく手をあげ、黒瀬に告げる。ここで別れて、今日は一人になりたい。心底そう思った。

「は…?お前どこ行くの」

 黒瀬が怪訝そうに私を見る。私が向かっている方向は、自宅とは逆の飲み屋街だ。

「いや…憂さ晴らしにちょっと飲んで帰ろうかと」

 私は食べることとお酒が大好きだ。まだ水曜日だけど、今日のストレスを一人で酒に流したい。誰にも邪魔されず、美味しいお酒と料理を心ゆくまで楽しみたい。それだけが、今の私に残された唯一の希望だった。

「……俺も行く」

「はあ!?」

 思わず大声が出た。信じられない。なぜこの男は疲労困憊の私にさらに追い打ちをかけるようなことをするのか。

「憂さ晴らし、付き合ってやるよ」

 黒瀬は涼しい顔で、まるで当然とばかりに言い放つ。その口元には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「誰が憂さの原因だと思ってるのよ…!」

 もはや限界だった。疲労と黒瀬への苛立ちで、感情が爆発しそうになる。憂さ晴らしの相手が、その超原因だなんてどんな冗談だ。この男は、私のことをどこまでかき乱せば気が済むんだ。

「だから俺が責任取るっつってんだろ」

 黒瀬は私の怒りなどものともせず、余裕の笑みでそう言い返した。その一言にまた胸がざわつく。

「……黒瀬の奢り?」

 思わず口をついて出た言葉。疲労困憊の頭で、せめて何か一つでも彼のペースを崩せるものはないかと、藁にもすがる思いでひねり出した。

「ランチじゃなくていいのか?」

 黒瀬は私の提案を面白がるように、口元に笑みを浮かべる。まさか、あのお昼の話本気だったのか。けれどよく考えれば、真っ昼間のランチより、飲み屋の方が誰かに見られるリスクは低い。

「………奢りならいいわよ」

 残された体力と、この状況を打開したい気持ちが、私にそう言わせた。どうせなら徹底的に甘やかされてやろう。

「はは、お前ほんと酒好きだな。弱いくせに」

「は!?」

「飲み会とかいっつもすぐ潰れてんじゃん」

 平然と告げる黒瀬。その言葉に悔しさで顔が赤くなる。

「まあいいや、好きなだけ飲ませてやる」

 黒瀬は私の抗議を流しながら、どこか満足げにそう言った。その言葉に、心が少しだけ揺らぐ。“好きなだけ飲ませてくれる”…それは、魅力的だ。

「まじで?」

 半信半疑で聞き返すと、黒瀬はニヤリと口角を上げた。

「その代わり、“次”も約束な」

 また出た。“次”。今日だけで終わらせる気はないという、彼の強い意思の表れだ。

「それは知らない…!」

 即座に否定する。簡単に彼の思惑通りにはなってやらない。




 提灯が連なる小道を抜けると、レトロな雰囲気の居酒屋が見えてきた。

 黒瀬は一切の迷いもなく暖簾をくぐり、私は渋々その後に続く。カウンター席に並び、席に着くや否や、二人揃って生ビールを注文した。

「ああ〜〜なんか今週すっごい疲れたあ…」

 私は大きくため息を吐く。身体中の力が抜けていくようだった。

「だろうな。顔に“限界です”って書いてある」

 ビールが運ばれてくる。

 黒瀬は私の顔をまじまじと見ながら、呆れたようにそう言った。でもその声には、どこか優しさも滲んでいて、また少しだけ胸がざわつく。

「どの口が言うのよ、どの口が」

 私はすかさず睨みつける。この疲労の原因は目の前のこの男なのだ。

「まあまあ、飲めよ」

 黒瀬は自分のジョッキを持ち上げながら私を促す。言われるがままにジョッキを取り、とりあえず“お疲れ様の乾杯”を交わす。キンキンに冷えたビールが喉を通り過ぎる心地よさは、まさに至福。

「ぷはあ〜〜〜っ!こういう時はお酒しか勝たん!」

 思わず大きく息を吐き出す。この一杯のために今日一日頑張ったのだ。

「そのセリフ、完全に酔う気満々だろ。潰れてもいいけど、明日しんどいのお前だからな?」

 黒瀬は口元にニヤリと笑みを浮かべる。その言葉に、私の胸がひそかに跳ねる。潰れる?彼の前で?絶対イヤだ。

「潰れないですー!」

 私は強気に宣言し、笑顔を作る。そしてぐびぐびとビールを煽った。

「ああ〜おいし〜」

 一杯目を早々に空け、その勢いのまま二杯目にハイボールを注文する。喉がカラカラだったのか、今日はいつもよりペースが速い。

「ちょっと顔赤くね?もう酔ってんの?」

 黒瀬が肘をつき、じっとこちらを見ながら言う。わざわざ指摘してくるその意地悪さに、カッと頬が熱くなる。

「空きっ腹で飲んだからよ、まだまだ全然平気!」

 私は少し早口で答えた。まだ酔ってない。絶対に彼の前で醜態なんて晒さない。

「あっそう。…じゃあさ」

 黒瀬がぐいっと身を乗り出す。その距離の近さに、心臓がドクンと跳ねた。彼の視線が、私を絡め取るように深く、鋭い。

「酒で赤いのか、俺で赤いのか、どっち?」

 一瞬で顔がカッと熱くなる。全身に血が上る感覚が、どうしようもなく強烈だった。

「ばっ、ばかやめてよ」

 思わず彼の胸元を押し返す。けれど黒瀬はニヤけたまま。まるで私の反応を楽しんでいるかのようだ。

「酔ってんのかドキドキしてんのか、ハッキリしろっての」

 黒瀬はさらに畳みかけるように低い声で言う。核心を突くその言葉に、心臓がバクバクと跳ねる。

「酔ってもないしドキドキもしてないですー!大将もう一杯!」

 私は黒瀬にべ、と舌を出してから、場の空気を変えたくて大声で注文した。

「はいはい、逃げの追加注文な」

「ぐっ…」

 黒瀬は私の行動を全て見透かしたように呆れた声を出す。言葉に詰まった。まさにその通りだったからだ。

「でも無駄だぞ?酔ったらもっと攻めるから、覚悟しとけ?」

「はぁ!?気持ちよく酔わせろっての!」

 私は半ば悲鳴のように叫ぶ。冗談じゃない。せっかくの憂さ晴らしなのに、これでは気が休まらない。

「気持ちよく酔わせるのは得意だぞ。酒じゃなく俺でな」

「黒瀬あんた…なんかクサいわよ、そのセリフ…」

 思わず顔をしかめ、ジト目で睨む。こんな状況でよくもまあそんなキザなことが言えるものだ。

「はは、言ったあと自分でも思ったわ。…でも、その顔見てるともっと言いたくなる」

 黒瀬は私の反応を面白がるように笑い、ぐいっと顔を近づけてくる。その距離の近さに、心臓がまたドクンと跳ねた。

「だー!もう!近いって!」

 私は反射的に彼の顔を手のひらで押し返す。触れた頬の熱さに、自分の顔まで熱くなるのを感じた。

「お前、ほんと反応可愛すぎ。押しのける手すら俺、好きかもな」

「はあ!?」

 その言葉に思わず手を引っ込める。押し返したのに、黒瀬はニヤけている。まるで私の反応が全て計算済みだったかのように。

「ほんと調子狂うんだけど…」

「わざと。お前がもっと俺のこと考えるように」

 その一言にぐっと息を飲む。わざと…?私をこんなに混乱させて、楽しんでいるのか。そして、私が彼のことを考えていると確信している。

「………憂さ晴らしにならないんだけど」

「そう?俺は楽しいけど」

「そりゃそうでしょうよ…」

 私はもう反論する気力もなく、目の前のハイボールをちびちびと飲んだ。気づけば完全にこの男のペースに巻き込まれている。

 黒瀬が楽しそうにグラスを回す。琥珀色のウイスキーが氷に当たり、カランと小さな音を立てる。

「……黒瀬ってお酒強いの?」

 ふと、口にしていた。私がこんなにも彼にペースを乱されているのに、黒瀬はまるで何事もないかのようにグラスを傾ける。その余裕が、なんだか悔しかった。

「普通?お前みたいにすぐ潰れたりはしない」

「一言余計なんだけど」

 悔しさが込み上げて、思わずグラスをテーブルに置く。またそれか。黒瀬はいつも、私の弱いところを突いてくる。

「なんか悔しい。日本酒たのも」

「おい、無理すんなって」

 黒瀬の声が、ほんのわずかに低くなる。私を心配しているのか、それとも酔った私の相手が面倒なだけなのか。どちらなのかわからなくて胸がざわつく。

「無理なんてしてないです〜」

 強がるように、わざと語尾を伸ばして笑ってみせた。本当は、少しだけ頭がぼんやりしてきている。けれど、ここで弱音を吐くのは負けな気がした。




 一時間後。

 頭がふわふわと軽い。視界の端がじわりと滲む。黒瀬の顔が二重に見えるような気がした。

「大体さ〜〜黒瀬が急に変なこと言い出すから仕事でミスったんじゃん〜〜」

 カウンターに肘をつき、くだを巻く。理性はもう残りわずかだった。

「はいはい、全部俺のせいな」

 黒瀬の声は、どこか諦めを含んでいて、それでも優しい。その優しさが逆に苦しくて、また一口日本酒を煽った。

「そうだ〜黒瀬のせいだ〜」

 頷きながら、ふにゃっと笑う。この笑顔すら自分のものじゃない気がした。

「お前、酔うと口調ゆるゆるで可愛いな」

 その言葉がやけに近く、耳に響く。頬が熱を持ち、胸の奥がきゅっと苦しくなる。だけど、どうしてだろう、悪い気はしない。

「へへ、可愛いって言われちった」

 意識が揺らぎ、視界がぐにゃりと歪む。黒瀬の顔が二重に滲んだ。彼の瞳が、一瞬だけ真剣な色を帯びているように見えた。

「…もう無理すんな。そろそろ帰るぞ」

 低く落ち着いた声が、今までと違う色を帯びて響く。

「やだ〜!まだ飲む〜!大将〜〜」

 ふらつきながら手を上げようとした瞬間、黒瀬がその手を掴む。その手は、ひどく熱い。

「もう十分だろ。これ以上飲んだら本気でおんぶして帰ることになるぞ」

「大丈夫らって〜ちゃんと帰れるから〜」

「それ、大丈夫じゃないやつが言うセリフな。…ほら、俺が送るから素直に甘えとけ」

 舌足らずな声で反論するも、黒瀬には効かない。黒瀬の声が耳元で優しく響く。普段の軽口とは違うそのトーンが、心にじんわり沁みる。

「うんん……」

 大人しく手を下げたが、そのままカウンターに突っ伏す。もう動けない。考える気力も残っていなかった。

 黒瀬が背中に手を置く。その温もりが妙に心地いい。

「おい、寝るなって」

 低く柔らかい声。その優しさに、胸の奥がじわりと温かくなる。

「黒瀬のばかぁ」

 ほとんどうわ言だった。意識が深い闇に引きずられていく。

「はいはい、バカで悪かったな。そのバカに今介抱されてんだぞ」

「んふふ…変なの〜いっつもバカにしてくるくせに〜」

 かすれた笑い声が自分でも情けない。黒瀬の顔が滲んで見えない。けれど、その輪郭だけはやけに頼もしく感じた。

「……バカにしてたんじゃなくて、気引きたかっただけだよ」

 その呟きは、もう私の耳には届かない。

「私はさぁ〜?うらやましかったんだよね〜」

 口が勝手に動く。意識は夢の中に落ちかけている。

「なにが?」

 黒瀬が覗き込むように問う。その声は、信じられないくらい優しくて。

「他の女の子たち…黒瀬は私には優しくないから、私にも優しくしろー!って…思ってた…」

 言葉は途切れ途切れ。意識は夢の中に落ちる寸前。

 黒瀬は小さく苦笑し、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。その手つきは少し乱暴で、それでいて、どうしようもなく優しい。

「どっちがバカだよ…俺がお前にだけ特別な態度してんの、気づけよ」

 黒瀬の声が頭上で小さく響く。だけどその言葉も、もう私の意識には届かない。

「うんん…」

 私は満足そうに息を吐き、そのままカウンターに突っ伏して眠りに落ちた。


 - - -


 塩見がカウンターに突っ伏して、静かな寝息を立て始めた。酔って無防備になったその姿を見て、思わず苦笑が漏れる。

 ──他の奴には、絶対見せない顔だよな。

 さっきの寝言が、頭の奥でリフレインする。

「黒瀬は私には優しくないから、私にも優しくしろー!って…思ってた…」

 本当に、どこまで鈍感なんだ、お前は。俺がどれだけお前だけに構ってきたか。くだらない話題で笑わせたり、わざとからかってみたり。それが「優しくない」なんて、まるで届いてなかったのか。

「どっちがバカだよ…俺がお前にだけ特別な態度してんの、気づけよ」

 無意識に手が伸びて、塩見の髪をくしゃりと撫でる。もうこの声は届かない。だからこそ言える本音だった。

 頬にそっと指先を滑らせる。熱い。酒のせいか、それとも……。それでも柔らかいその感触に、胸の奥がチクリと痛んだ。

「……可愛い寝顔しやがって」

 思わず呟いた声が、やけに掠れて聞こえた。こんな顔、誰にも見せたくない。俺だけが知っていたい。


 会計を済ませる。

 このまま、こいつをどうするか一瞬迷った。タクシーで送る? …それとも、俺の部屋に連れて帰るか。──ダメだ。それはまだ早い。いや、本当は今すぐ隣で寝顔を見ていたい。でも、ここで焦ったら全部終わる。それに明日も仕事がある。

「大将、すまねぇ。こいつちょっと飲みすぎた」

「ああ、大丈夫だよ。お兄さん、しっかりしてて助かるよ」

 大将の言葉に、背筋がほんの少しだけ伸びた。

 塩見の腕を肩に回し、そっと体を支えて立ち上がらせる。ぐったりと重い身体が、完全に俺に体重を預けてきた。かすかに漂うシャンプーの香りが鼻先をくすぐる。

「黒瀬ぇ……」

 不意に、塩見が俺の名前を寝言で呼んだ。普段の強気な声とは全く違う、甘く、柔らかい響き。心臓が喉元までせり上がった。呼吸が一瞬止まる。

「……それは反則だろ」

 思わず零れた声は、低く掠れていた。理性のリミッターが、きしむ音を立てる。

 店を出ると、夜の空気がひやりと頬を撫でた。火照った身体に、その冷たさが少しだけ心地いい。

 歩かせようと肩を貸したが、塩見の足元はおぼつかず、ふらりと体が揺れる。これは…無理だ。

「ったく…」

 小さく息を吐き、俺は塩見を背中に回す。ぐっと膝を曲げて、ゆっくりと彼女の体重を受け止めた。……軽い。思ったよりずっと。

 背中に伝わる温もり、そしてふわりと塩見の匂い。柔らかい感触が、じわじわと俺の理性を焼く。心臓が、さっきからうるさい。

「んん…」

 背中で小さく声が漏れる。塩見の頬が俺の肩に触れ、くすぐったいような、くすぶるような感覚が胸に広がる。

「お前ほんと無防備すぎ。…こんなん俺じゃなきゃ危ねぇっての」

 誰に聞かせるでもなく、低く呟いた。今ここにいるのが俺じゃなかったら…そう考えただけで、喉奥に嫌な熱が込み上げる。

 こんな可愛い寝顔で、こんなに無防備で。もっとも、本人はそれすら気づいていないのだろう。やっぱり、どこまでも鈍感だ。

「たいしょ〜〜も〜いっぱ〜い…」

 塩見がむにゃむにゃと寝言を呟いた。思わず吹き出しそうになる。まだ飲む気かよ。ほんとに酒好きだなこいつ。呆れと、どうしようもない愛しさが胸を満たす。なんでこいつは、こんなに俺をかき乱すんだろう。

 俺は自分のマンションの前を通り過ぎ、塩見の住む方向へ足を進める。背中にいる彼女の温もりが、夜風の冷たさよりずっと強くて、どこか、俺の足を鈍らせるような気がした。


 塩見のマンション前に着いた頃には、夜風も少し落ち着きを見せていた。

 エントランスのオートロックを抜け、無人のエレベーターに乗り込む。密閉された空間に、ほのかに塩見のシャンプーの香りが広がる。その柔らかい匂いに、また胸の奥がチクリと疼いた。

 これ以上は、心臓に悪い。

 なるべく余計なことは考えないようにしていたのに、背中に伝わるぬくもりが、簡単に理性を揺さぶってくる。

「おい、塩見。着いたぞ」

 部屋の前でそっと声をかけ、体を揺すってみる。…返事はない。むにゃむにゃと気持ちよさそうな寝息が聞こえるだけだ。

「……参ったな」

 頭を抱えたくなる。ここで置いていくわけにはいかない。かといって、勝手に部屋に上がるのは、どう考えてもアウトだ。…けど、もうこうするしかねぇだろ。

「…塩見、鍵借りるぞ」

 恐らく届いていないであろう声で、形式的に確認を取る。腕にかけていた塩見の鞄をそっと下ろす。細い肩紐に触れるだけで、心臓がひどくうるさくなる。中を探ると、すぐに目当てのものが見つかった。白いくまのぬいぐるみキーホルダーが付いた鍵。こんな可愛いものを、普段クールぶってるこいつが持ち歩いているのかと思うと、無性に愛しくなる。

 ……バカ。

 小さく息を吐き、鍵を差し込む。カチリとロックが外れる音が、やけに大きく響いた気がした。


 塩見をもう一度背負い直し、そっと玄関に入る。

 部屋の中は、ほのかに甘い香りが漂っていた。フローラル系の柔軟剤だろうか。どこか塩見らしい、柔らかくて優しい匂い。やばい、なんか落ち着かねぇ。

 生活感のある、ごく普通の部屋。けれど、男の俺がこんな場所まで踏み込むのは、本来ならアウトだ。わかってる。それでも、他にどうしろっていうんだ。

「おい、塩見。靴脱ぐぞ」

 背中でぐったりしている塩見に声をかけるが、相変わらず返事はない。完全に寝落ちている。仕方なく、器用に片足ずつ靴を脱がせる。そのとき、無意識に指先が彼女の足首に触れて、心臓がドクンと跳ねた。 何やってんだ俺は。

 気を取り直して、寝室を探す。ドアを開け、ベッドが目に入った瞬間、喉奥に違和感が広がる。この部屋に足を踏み入れるだけで、何か一線を越えてしまいそうな気がした。

 塩見をそっとベッドに下ろす。ぐったりと沈み込む体が、ひどく小さく見えた。思わず、何か抱きしめたくなる衝動に駆られる。

「着いたぞ、塩見」

 声をかけるが、当然返事はない。

「ん〜…」

 モゾモゾと動く彼女。ふと視線が胸元に落ち、わずかに乱れたシャツの隙間が目に入る。瞬間、視線を逸らして大きく息を吐く。……これは見たら終わりだ。

「……これ以上俺を試すな」

 誰に聞かせるでもなく呟き、そっと毛布を引き上げて胸元を隠す。こんな姿、俺以外の誰にも絶対見せるな。抱きしめたくてたまらない。けれど、ここで一歩でも踏み込んだら、もう戻れなくなる気がする。

「えへへ…」

 夢を見ているのか、塩見がふにゃっと笑った。無防備すぎるその笑顔に、心臓がまたひどく跳ねる。

 小さく息を吐き、塩見の額にそっと手を置く。触れた指先がほんのり震えていることに気づく。

「……おやすみ」

 それだけ呟いて、俺はゆっくりと部屋を後にした。


 - - -


「あーー……頭痛い……」

 お昼休みの社食は、いつも以上にガヤガヤとうるさく感じる。その喧騒が、私のこめかみをズキズキと叩いた。テーブルに突っ伏し、頭を抱える。やってしまった。完全に二日酔いだ。

「言わんこっちゃねぇ。飲みすぎだバカ」

 低く響く声に、びくりと肩が跳ねる。顔を上げると、向かいの席で黒瀬がうどんをすすりながら、呆れたような顔を向けていた。…なんでこいつは、あんなに飲んだのに元気そうなんだ。

「うっさい…あんたが強すぎんのよ…」

 私は恨めしそうに睨みつけた。しかし黒瀬は鼻で笑って即座に切り返す。

「俺が強いんじゃなくて、お前が弱すぎなだけな」

 その言葉にまたカチンとくる。が、頭がズキッと痛んでそれ以上反論できない。

「てか、昨日のことちゃんと覚えてんの?」

 黒瀬の声色が、どこか探るようなものに変わった。その視線が、ジリジリと私の皮膚を焦がす。

「えー…?」

 言われて頭を回転させる。覚えているのは黒瀬と飲んでて……起きたら自分の部屋のベッドだった。あれ?その間は?必死に記憶を手繰り寄せようとするが、靄がかかったみたいに全く思い出せない。

「………私どうやって帰ったんだっけ……」

 頭の中はパニック寸前だった。

 黒瀬はわざとらしくため息をついて箸を置いた。その仕草ひとつで、胸が嫌な予感でいっぱいになる。

「…マジで覚えてねぇの?」

「あ、あは……」

 探るような視線が刺さる。私は曖昧に笑いながら、チラッと視線を逸らした。

 黒瀬は呆れたように首を振る。その目はどこか楽しげでもあって、ぞっとする。

「お前、俺におんぶされながら“大将〜”とか寝言言ってたんだけど」

「はあ!?おんぶ!?」

 反射的に声が大きくなり、社食の周囲が一瞬こちらを見た気がする。と同時に、ガン、と頭の奥が鈍く響く。

「っあ〜……頭に響く……」

 頭を押さえて小さく呻く私を見て、黒瀬は喉の奥でくくっと笑った。その声が、いつもより低く柔らかい気がして、胸がざわつく。

「まぁ、ほら飲めよ」

 黒瀬は氷の入ったお冷を差し出してくる。無言で受け取り、チビチビと口に運ぶ。冷たい水が喉を通るたび、心臓が妙に早く脈打つ。

 ──おんぶ…?黒瀬が…?私を…?

 頭の中で、黒瀬の言葉が何度も反復される。じわじわと血の気が引いていく。視界の端で、同僚たちが談笑する様子が見えるのに、まるで自分だけ音のない世界に取り残されたようだった。

「……ん?私、黒瀬に送られたわけ?」

 無意識に口をついて出た言葉に、全身がピシリと固まる。その可能性に、背筋がひやりと冷える感覚がした。

「やっと思い出した?」

 黒瀬は頬杖をつき、口元にゆるく笑みを浮かべていた。その視線は、私の反応を全て見透かしているかのようだ。

「そう、お前をベッドまで運んだの俺だよ」

 その言葉が耳に入った瞬間、頭が真っ白になった。血の気が一気に引く。

「はぁ!?!? べ、べ、ベッドって……あんたまさか…?!」

 頭痛も忘れ、思わず声が裏返る。ありえない。いや、ありえないよね?けれど、脳裏に昨夜の記憶が途切れ途切れに蘇りかけてくる。やたら近くに感じた体温、低く響いた声、揺れる体──

「……」

 黒瀬は一瞬だけ目を丸くし、すぐにニヤリと口角を上げた。そして、わざと意味深な沈黙を落とす。その間が恐ろしいほど長く感じられた。鼓動が耳元でうるさく響く。

「な、なにその間!? えっ、嘘でしょ!? 嘘だって言って!!」

 声が大きくなり、周りの同僚がチラリと視線を寄越す。でもそんなことを気にしている余裕はない。

「なに想像したんだよ」

 黒瀬は楽しげに、そしてどこか底知れない目で私を見ていた。その視線に、背筋がぞわりと冷える。

「え、え…ちがっ、私そんなつもりじゃ──」

 慌てて言い訳をしようとした瞬間、頭の奥で鈍い痛みが走る。でも今はそれすら気にしていられない。

 黒瀬は喉の奥でククッと笑い、わざと顔を近づけてきた。距離が一気に縮まり、息がかかるほど。

「どうだと思う?確認してみるか?」

 その声の低さに、心臓がドクンと跳ねた。私はごくりと唾を飲み込み、震える声で精一杯の罵倒を吐き出す。

「あ、あんたサイテー…」

 黒瀬はニヤリと笑い、ゆっくりと背もたれに寄りかかる。

「サイテーで結構。…そう思ってるのに、なんで顔真っ赤なんだよ?」

「っ……!」

 私は思わず頭を抱えた。記憶はない。けど…もし本当に、そんなことがあったとしたら……。

「うわぁぁ……嘘だぁ……うわぁぁ……」

 うんうん唸りながら、テーブルに突っ伏す。黒瀬はそんな私を見てとうとう吹き出した。そして軽く私の頭をポンポンと叩く。

「安心しろ、何もしてねぇよ」

「………へ?」

 その言葉に、半分泣きそうな顔でゆっくり顔を上げる。黒瀬の瞳が、珍しく真剣だった。

「そんなの、シラフの時にちゃんと欲しがらせてからだろ」

「………」

 頭の奥が、カッと熱くなる。意味を理解するのに一拍遅れ、呼吸が乱れる。

「だから、ちゃんとお前が俺を欲しがるまで待つって言ってんの。…昨日は送っただけだ、安心しろ」

 その一言が、私の胸にずしんと響いた。唇がかすかに震える。

「………ナニモシテナイ?」

「ナニモシテナイ」

 黒瀬は肩をすくめ、ふっと笑う。

 頭の中が少し冷静になり、今朝の記憶がよみがえる。

「……確かに、朝起きた時昨日のスーツ着たままだった…」

「だろ?俺、意外と紳士なんだぜ。…今のところはな」

 黒瀬は再びニヤリと笑い、うどんの汁をすする。その「今のところはな」が、やけに引っかかる。

「…………だったら最初からそう言ってよ」

 私は拗ねたように呟き、眉を寄せる。黒瀬は鼻で笑い、さも当然と言わんばかりに言い放った。

「だってお前、からかうとすぐ顔に出んだもん。可愛いのが悪い」

「趣味悪い…!も〜〜私もご飯買ってくるっ!」

 頭痛はまだ残っていたが、食欲は戻ってきた。もうこれ以上、この男の顔を見ていたら胃が持たない。私は椅子をきしませて立ち上がり、早歩きで食券売り場に向かった。

 背後から、黒瀬の笑い声が小さく聞こえる。振り返りたくなんてなかったのに、視界の端で彼がこちらを見ているのがわかった。

 あの笑みは、まるで「次はもっと追い詰めてやる」と言っているようで、胸がまたざわついた。

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