夏休みの自由研究に異世界旅行記はいかがですか?
葛生 雪人
一、はじまり
八月一日 天気、晴れ(日本)
今日は塾が休みになった。予定が何もなくなったからゆっくりしようと思ったのに、おじさんが突然押しかけてきた。
どこからか、りぃーんりぃーんと高く澄んだ音が聞こえていた。
風鈴か。
風鈴の音が寝起きの頭に響いた。
「今どき、どこの家だよ」
目が開ききらないうちに、枕元のリモコンを手に取って冷房をつける。枕を挟んで反対側に置いたはずのスマホを探り当てると、瞼をこじ開けて画面を確認した。
幾つかの通知。その通知に押し退けられ表示が小さくなった時計を見れば、もう間もなく昼になろうというところだった。
そうとわかると、途端に腹が鳴る。
健渡はぐっと全身で伸びをした。
エアコンからひんやりした空気が吐き出される。襟ぐりがじっとりと湿っていたのに気づいて、我ながらよくまあこの時間まで暑いとも思わずに寝ていられたなと感心した。
毎日暑い日が続いていた。
古いドラマやマンガの中では、夏といえば窓を開け、扇風機の前に陣取り、汗を拭きながらスイカにかぶりつくなんて風景が描かれていた。そういう場面にはブタの形をした容れ物に入った蚊取り線香と、りぃーんと涼やかな音を響かせる風鈴が付きものだった。
しかし健渡は、そんな光景の『本物』に出会ったことがない。
今となっては夏に窓は開けない。
三十五度を超える暑さでは、ちょっと風が吹いたくらいでは涼しくならないし、窓を開けた方が部屋の中が暑くなる。
うだるような暑さの中で聞く風鈴の音は、涼しさよりも苛立ちを連れてくるものだ。
そういう理由で、街中で見かけることはほぼ皆無という風鈴の音が、今鳴っている。……いや、鳴っていた。
「あれ、おかしいな」
健渡が体を起こした頃には、音は消えていた。窓の外を見れば、木の葉をかすかに揺らす程度の風は吹いているようだったから、鳴らなくなったのではないのだろう。片付けてしまったか。それとも、もともと気のせいだったか。もしくは何かの予兆で、自分の耳にだけ届いた音色だったか。――などと、厨二めいたことを考えてみる。
「ま、何でもいいや」
とベッドから立ち上がったところ、下の階で物音がした。ドタン、バタン、と何にも遠慮も配慮もしない人が出す音だった。
「父さんも母さんも、今日は仕事だよな」
今日は平日。健渡にとっては夏休みで、突然塾が休みになったことによって出来た『休日』。
家には自分以外に誰もいないはずだ。
「ドロボウ……なわけないよな。普通もっとこっそり入ってくるだろうし。だとすると――」
思い浮かんだ顔。
階段を駆け上がってくる足音で確信へと変る。
「勘弁してよ…………」
健渡の肩ががっくり落ちたのとほぼ同時、形だけのノックのあと、勢いよくドアが開けられた。
「健渡、異世界行くぞ!」
父の兄である
新介はヘンな大人だった。
四十過ぎて独り身で、仕事は『売れないラノベ作家』だという。それも本人がそう言っているだけで、刊行された本を見せてもらったことはない。ペンネームも教えてくれない。何をしている人なのか、どうやって生きているのか、謎の多い人なのだ。
親族の集まりにはほとんど顔を出さないのに、健渡の家にはよく遊びに来ていて、健渡の両親、つまり彼の弟夫婦とは仲が良いようだった。その仲の良さは家族である健渡でも首を傾げるほどで、どうして伯父さんが我が家の鍵を持っていて自由に出入りできるのか、父が出張中でも当然のように食卓に加わっているのかといつも不思議に思っていた。
その伯父さんが、両親の留守に突然やってきて、『異世界に行くぞ』などと言った。小脇には高価なものが入っていそうな桐の箱を抱えていた。
「健渡。異世界行くぞ」
健渡がウンともスンとも言わなかったので、もう一度言ってみたようだ。四十を過ぎた、無精髭を生やした大の大人が、歪んだフレームの眼鏡の奥でキラキラと瞳を輝かせている。
「行かないよ、そんなもの」
健渡は新介の体を押し退けて一階へと下る。
「どうしてだよ。お前、今夏休みだろ? 夏休みといえば思い出づくりだろ? 思い出づくりといえば旅行だろ? 旅行といえば、異世界だろ!」
言いながらあとをついてくる。
「ふつうは『旅行だろ』で終わるものだから。新介おじさんは、いつも何かがおかしいんだよ。そろそろ自覚した方がいいよ」
「何もおかしくないぞ。異世界旅行なんて普通のことだ。一般常識だ」
「一般常識っていうのとは違うと思うよ」
ため息を吐きながら冷蔵庫から麦茶とヨーグルトを取り出す。「その組み合わせの方がおかしいぜ」と新介が苦い表情を見せるが気にしない。健渡はぐいと麦茶を飲み干してリビングのソファに腰掛けた。
「夏休みの小中学生限定ってやつだろ?」
ぱくりとくわえたスプーン。いつものとは違う甘めのヨーグルトで、健渡はガッカリしてしまう。
「昔は、代金さえ払えば、いつでも誰でも行けたんだけどなあ」
新介は当然のように隣りに座ってふんぞり返った。本気で旅行に行こうとしているようで、脇に下ろした荷物は何日も山にこもる登山家のリュックに似ていた。
昔はいつでも誰でも異世界に行けた、というのは新介の口からよく聞く台詞だった。
何度聞いても難しい話はよくわからなかったが、新介や、健渡の父が生まれる少し前、日本のすごい研究者とやらが異世界に渡る方法を見つけたらしい。
その発見を受けた世界の国々は、新大陸を見つけたくらいの感覚で異世界に立ち入り、探索し、そして異世界の人々と交流した。そうしていくうちに、一般人の異世界への渡航が許されるようになり、高額な旅費が必要ではあったが『異世界旅行』というものが可能になった。
「オヤジの会社がでかくなるのがもう少し早かったらなあ」
というのも新介の口癖だ。
新介が中学に上がる頃に異世界への渡航が禁止されることになった。富裕層の中でのブームが終わり儲けにつながらなくなったということもあるが、一番の理由は、『交流しすぎた』ということだった。
異世界にこちらの世界の技術や文化が流入したことで、異世界の異世界らしさは段々薄れていった。
「彼らの文化を蝕んではいけないってことになったんだな。相手のことをちゃんと尊重できてたってことじゃないか」
うんうんと満足そうに頷く。
しかし中学生だった当時の新介は、そうは考えられなかったようだ。
いつかお金を貯めて――と夢見ていたというのに、その夢はあっけなく散ってしまった。そういう人間は少なくなかったようで再開を求める声が多く上がったという。
「それで何年か経って『条件付きで』ってことで渡航が再解禁されたんだけどさ、日本の条件は特に厳しくてよお」
新介は当時を思い出して肩を落とした。
「小中学生、夏休み限定で再解禁。『だけど俺は……』ってやつでしょ」
その悲劇は何度も聞いたよと、健渡は残りわずかとなったヨーグルトをかき込んだ。
異世界への渡航が再解禁となったとき、新介は大学生になっていた。
「だから、夏休みの思い出づくりに異世界に行こうぜ!」
新介は立ち上がる。
「小中学生限定って言ってんじゃん」
暑苦しい新介に対し、健渡はさらっと言う。
「お前、小六とかだったろ」
「中一だから」
「どっちにしろ小中学生だろ?」
ざっくりとした認識だ。
「俺が対象年齢だとしてもおじさんは違うだろ」
「馬鹿だな。保護者は一緒に行けるんだよ」
「保護者として同行できるのは、たしか両親か同居している十八歳以上の家族とかじゃなかった?」
言うと、新介は待ってましたとばかりにニンマリ笑った。
「まさか、」
「三親等以内の親族――つまり『伯父さん』は、お前の父さんの委任状を持っていれば保護者として同行できるんだよ」
ババンと効果音でも付きそうなポージングで一枚の紙切れを広げた。
内容になんて興味はない。一番の関心事は、すでに健渡の父との間で話が通っているということだ。どうして父はこんなにも新介に甘いのかと、健渡は呆れかえってしまう。
「というわけで、今日から一週間ほど、異世界への旅に行くぞ」
言いながら新介は桐箱を机の上に置いた。
「一週間も行くの?」
そんなのごめんだよ、と言うが聞く耳持たず。新介は鼻歌を歌いながら桐箱を開けた。
立派な桐の箱には七つの風鈴が並んでいた。
「それ、何?」
「これは……そうだなあ、切符みたいなもんかな」
上機嫌で眺める風鈴は、健渡の家の食器棚に並んでいるグラスによく似ていた。父が大切にしている切子細工というものだ。
深い海の色。鮮やかな夕陽の色。草原の色に、晴れた空の色。涼しげなサイダーの色もあれば熟れたメロンに似た色もある。その色をより際立たせるように細かに彫られた模様はひとつひとつ違っていた。それは、それぞれの世界を表わしたものだと新介が言った。
「七つも異世界があるってこと?」
「もっともっとあるらしいぞ。とりあえず、今回は七つだ。俺の財力じゃこれが限界だった」
しばらくモヤシだけの生活だと言いながらも、異世界旅行への切符を前にした新介は喜び以外の表情にはならなかった。
「俺、まだ行くって言ってないよ」
「お前の父さんがいいって言ってんだから、行くしかないに決まってんだろ。っていうか、お前、いつから『俺』って言うようになったんだ」
「だいぶ前からだよ。っていうか、それ前も言ってたし」
「そうか?」
やはり表情は変らない。
健渡はふうっと息を吐いた。
父の許可が出ているということは、塾も休んでいいということか。夏休みだというのに毎日何時間も勉強するよりはマシかもしれないが、即答するわけにもいかない。
「危なくないんだよね?」
「各国の政府機関がしっかり管理してる旅行企画らしいからな」
なんとも怪しげな響きで逆に不安になる。
「スマホは使える?」
「それは残念ながら」
「え、それ、何かあったときどうすんの」
「公認ガイドが必ず同行することになってるから大丈夫だよ」
「公認ガイドだからってスマホ使えるわけじゃないんでしょ?」
「お前、最近の子どもの悪いとこだぞ、それ。何でもスマホとネットで何とかしようとして。そんなものなくたって人間なんとか――」
「俺、異世界だからって野宿とか無理だからね。あと、モンスターと戦ったりとか、金稼ぐためにクエストしたりとか、突然どっかの貴族の息子になったりとか」
「…………お前、実は異世界好きだろ」
「全然」
「そうか?」
新介は納得いかない様子だったが、それ以上は追求しなかった。まあいいやと言って、空色の風鈴を手に取った。
「そんなら準備でき次第出発するぞ。最初の行き先はこの異世界だ」
細かく刻まれた紋様が淡く輝いたように見えた。
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