第2話 灰色のファインダー②

湯気が、部屋の照明を柔らかく滲ませていた。土鍋の中で、昆布だしが静かに煮立ち、白菜や豆腐がことことと揺れている。部屋に満ちる優しい匂いが、スタジオに漂っていたドライアイスの無機質な匂いを、俺の記憶から追い払ってくれた。


「わ、見て。すごい赤」


栞が、菜箸で持ち上げたカニの脚を、俺の目の前に差し出した。茹で上がった殻は、生命の最後の輝きを放つように、鮮烈な朱色に染まっている。


「撮って」


彼女は、いたずらっぽく笑った。俺は一瞬、戸惑った。仕事用のカメラは、もちろんここにはない。あるのは、いつもポケットに入れているスマートフォンだけだ。完璧な光も、計算された構図もない。ただ、生活の光景があるだけだ。


「スマホでいいの?」

「うん。記念だから」


俺はスマートフォンのカメラを起動し、湯気の向こうに揺れる赤い脚にピントを合わせた。カシャリ、と軽い電子音が鳴る。液晶画面には、栞の白い指と、カニの赤い脚、そして湯気の向こうで微笑む彼女の姿が写っていた。それは、仕事で撮るどんな完璧な写真よりも、ずっと温かくて、ずっと正直な一枚に見えた。ブレやノイズさえもが、その場の空気感を伝えているようだった。


「ありがとう」


栞は満足げに頷くと、脚を自分の皿に取り、黙々と身をほぐし始めた。真剣な眼差しで殻と格闘する彼女の横顔を、俺は黙って見ていた。その細い指先が、器用に殻を割り、中から現れた真っ白な身を、俺の小鉢にそっと入れてくれる。


「はい、どうぞ」

「……ありがとう」


口に含むと、繊細な甘みが、ふわりと胸にほどけていった。心まで、じんわりとぬくもりで満たされていくようだった。俺たちはしばらく、無言でカニを食べ続けた。沈黙は、少しも気まずくなかった。土鍋の煮える音と、時折響く食器の音だけが、部屋に満ちていた。その心地よい沈黙が、日中の喧騒でささくれ立った神経を、優しく撫でてくれるようだった。


食事が終わり、栞が淹れてくれたほうじ茶をすすっている時だった。


「ねえ、湊」

「ん?」

「今度の週末、どこか行かない?」

「どこかって……」

「海、見たいな。冬の、日本海」


栞は、窓の外に広がる東京の夜景を見ながら、ぽつりと言った。彼女の横顔は、ビルの灯りを反射して、どこか遠くを見ているようだった。


「日本海か。どうしてまた急に」

「担当してる作家さんがね、福井の越前海岸出身で。その土地の話をよく聞かせてくれるの。冬の海は、厳しくて、でもすごく綺麗なんだって。『波の花』が咲くんだよ、って」

「波の花……」

「うん。風が強い日に、岩に打ち付けられた波が、白い泡になって、雪みたいに空を舞うの。すごく幻想的らしいよ」


栞の話を聞きながら、俺は、かつて写真集で見た、荒々しい冬の海の風景を思い出していた。モノクロームの世界に、白い波飛沫だけが、激しく命を主張しているような写真。あの写真に、心を動かされた記憶がある。それは、俺が今撮っている「透明感」のある写真とは、対極にある世界だった。


「湊の撮る、冬の海、見てみたいなって」


彼女は、俺の目をまっすぐに見て言った。その瞳の中に、俺が失くしかけていた何かを、見透かされているような気がした。俺の撮る写真。俺が撮りたい写真。その境界線が、いつの間にか曖昧になっていた。栞は、俺に思い出させてくれようとしているのかもしれない。お前が本当に撮りたかったものは、何だったのか、と。


「……行こうか」


気づけば、俺はそう答えていた。自分でも驚くほど、自然な言葉だった。重く垂れ込めていた灰色の雲の隙間から、ほんの少しだけ、光が差し込んだような気がした。


栞は、嬉しそうに微笑んだ。

「ほんと? やった」


その笑顔を見ていると、凍りついていた心の表面が、少しだけ溶けていくのを感じた。冬の海へ行こう。そして、もう一度、自分の心と向き合ってみよう。あの頃のように、ただ撮りたいものを撮るために。俺は、部屋の隅にある防湿庫を、久しぶりに見つめていた。

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