第32話(月乃視点)大切な約束

「じゃあ月乃、また明日ね」


 笑顔で手を振って、ひまが帰っていく。明日も会うのに寂しくなって、ひまの背中が見えなくなるまでずっと見ていた。


 明日、私はひまと遊園地に行く。毎日のように出かけている私達だけれど、遊園地に行くのは初めてだ。


「……キス、したんだよね、ひまと」


 呟いて、そっと自分の唇を人差し指でなぞる。唇の感触は忘れていない。忘れていないけれど、今すぐにでもまた確かめたくなってしまう。


 言うつもりなんてなかったのに、今日、気持ちが溢れてしまった。

 どうしてもひまの初めてが欲しくて。

 やっぱり、ひまにとっての特別でいたくて。


 そんな私の我儘を、ひまは受け入れてくれた。


「……どうしよう」


 夜風が吹いて髪を揺らす。頬にあたる髪がほんの少しだけ長くなった気がするのは、ただの勘違いかもしれない。

 玄関の扉を閉めて居間へ戻ると、おかえり、とおばあちゃんが微笑んだ。


 おばあちゃん。

 帰りたくないって言ったら、困る?


 そう聞いていいのかどうかすら、私には分からない。こうして冬休みに家に呼んでくれただけで、おばあちゃんには感謝しなきゃいけないのに。


「月乃。お風呂沸いてるから、入っておいで」

「……うん」





 数年前にリフォームしたという風呂は、築年数のわりに綺麗だ。東京で暮らしていたアパートはユニットバスで湯船なんてなかったから、のんびりお湯につかれるのはありがたい。

 身体を洗った後、湯船につかる。ここへくる前と比べたら、少し太っただろうか。


「……痣、意外に消えないな」


 赤黒くなった脇腹をそっと撫でる。もうほとんど痛みはないけれど、当時のことを思い出して辛くなった。

 脇腹だけじゃない。全身のいたるところに、ちょっとした傷や痣がある。それでも、昔よりはマシになった方だ。


 湯船につかりながら、お母さんのことを考える。嫌い、と単純に言ってしまえないところが悲しい。


 お母さんは世間で言うところの、どうしようもない人だと思う。

 男癖も男運も悪く、酒癖も悪い激情家。

 お母さんはすぐ新しい男の人を好きになるのに、ずっと傍にいる私のことは好きになってくれない。

 それどころか、お母さんは私を恋敵のように扱う。


 中学二年生の最初、新しい父親だと一人の男性を紹介された。銀行に勤めているという男性は真面目でしっかりしていそうで、私は精一杯愛想よく喋った。

 いい人そうだと思ったからだ。この人と上手くいけば、きっとお母さんは幸せになれる。不安定だったお母さんも落ち着く。

 私も———お母さんに愛してもらえる。


 だけどお母さんはその晩、酒を飲んで私を何度も叩いた。人の男に色目を使うな、と叫ぶ母は鬼のように恐ろしくて、母にそんなことを言われたことが辛くて、何度も何度も謝ってしまった。悪いことなんてしていなかったのに。

 母はその男とすぐに別れ、私の髪を切った。


「戻りたくない……」


 浴槽の中で膝を抱える。どう考えても、東京に戻って幸せになれるはずがない。


「はあ……」


 せっかくひまと両想いになれたのに、ただはしゃいではいられないことが苦しい。私のお母さんが普通の人だったら、こんな時に悩まずに済んだのに。


 任せて、とひまは言ってくれた。だけど、ひまにだけ頼るわけにはいかない。

 うじうじ悩んで、ひまを困らせ続けるわけにはいかない。


 私は普通の子じゃない。それはもう、どうあがいたって今さら変えられない。だけどそれを言い訳にする恋はきっとだめだ。


 立ち上がって、浴室を出る。乱暴に髪を拭き、脱衣所に置いてあったスマホに手を伸ばした。


『今帰ったよ! 月乃、今日もゆっくり寝てね!』


 ひまから、スタンプを添えてメッセージが届いていた。毎日会っていても、ひまは頻繁にメッセージを送ってくれるのだ。

 ひまに返事を送る前に、母親とのトーク画面を開く。どれだけ遡っても、温かいメッセージなんて出てこない。


 私は今日、隠しておくはずの想いをひまに伝えてしまった。

 そして、ひまと大切な約束をした。

 大好きな人との、かけがえのない約束。


 守るために、私もちゃんと戦わなきゃ。


『お母さん 大切な話があります。今度、電話してもいいですか?』


 震える手で、なんとか入力できたメッセージ。

 もちろん、すぐに既読がつくなんてことはなかった。

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