ノアの箱庭～Noah's Ark Garden～

第一章「死んだ彼女が戻ってきました」

【死んだ彼女が戻ってきました（１）】

　　　第一章「死んだ彼女が戻ってきました」

　大学で講義を受けているときふとスマホを見ると、ＳＮＳにメッセージが届いていた。

　差出人は、同じ学部に通っている瀬野朝香（せのあさか）だ。内容はシンプルで、『この講義が終わったら、一緒にカラオケでもいかない？』というものだ。

　彼女は別の講義場にいるので、この場所にはいない。カラオケか。気乗りしないので、『今日は用事があるんだ』と短く返しておいた。

　もちろん嘘だ。行けたら行くよ、と定型文で返すほうが良心的なんじゃ？　と思える適当さだ。するとすぐさま返信が。

『じゃあいつならいい？』と。

　僕は思わずスマホを放り投げたくなり、しかし講義中なので我慢した。

　ああ、わかっているさ。このままじゃダメなことは。僕を励まそうとして、朝香がカラオケに誘ってくれているのもな。

　わかってはいるが、気持ちを整理する時間がもう少しほしいんだ。

　言い訳をして、心に蓋をして、講義が終わるとそそくさと大学を後にする。出がけに朝香に捕まらないように、注意をしながら。

　暦の上では、夏が始まる日とされる『立夏』をすぎていたが、吹く風は肌寒い。ジャケットのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩いた。

　行き先はどこなのだろう。行く当てなどないが、とりあえず鹿児島中央駅（かごしまちゅうおうえき）を目指した。僕のアパートに帰るためには、電車かバスに乗らなくてはならないのだし。

　僕も、乃蒼も、将来はライターか小説家になりたいという夢を抱き、今の大学の門戸を叩いた。しかし、その片割れがあの日欠けてしまったことで、抜け殻となった僕だけが残されている。

　僕のせいで乃蒼は死んだんだ、という悔恨の嘆きが、心の奥底にずっと居座っている。無力感と罪悪感によって心を蝕まれ、二人で進むはずだった文学の道を放棄している。

　小説を書く気にはもうなれない。

　誰かを好きになることもできない。

　彼女が謳歌するはずだった青春を放棄することで、なんとか罪悪感から目を背けている。

　よくないことだとわかっている。

　まだ大学二年だから、という言い訳は、果たしていつまで保つだろう。

　駅前にある大型書店に入る。欲しい本はこれといってない。入口付近にある新刊コーナーをざっと物色してから、文庫本が並んでいる棚に移った。

　目についた本を片っ端から手に取って、パラパラとページをめくっていく。これかなあ、と普段はあまり読まない恋愛小説を購入することにした。たまにはこういうのも悪くない。

　レジに向かって歩いていく途中で、一人の女性の脇を抜ける。

　ふわっとした、柔らかそうな栗色のショートボブ。十八か十九歳くらいだろうか。背は低い。百五十もなさそうだ。長袖のブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織っていて、ボトムはデニムのスカートだ。特別目を引く外観ではない。だが、僕にとっては違った。

「乃蒼？」

　意識の外側から声が漏れた。その女性の服装が、あの日の乃蒼と同じ物だったから。

　不動産情報誌を、穴が開くほど見ていた視線をその女性が上げる。丸くて大きな瞳。人懐っこそうな表情。顔まで乃蒼に似ている……というか、いくらなんでも似すぎだろう。本人としか思えない。

　いや、そんなはずはないのに。

「え……」

　雑誌を両手に抱いた格好のまま、女性が息を呑んで固まった。

　僕も息を呑んだ。言葉が喉にからんで二の句が継げない。

「立夏（りっか）？」と彼女が言った。

　長濱立夏（ながはまりっか）。それが僕の名前だ。親父は有名人だったが、僕はごく普通の冴えない大学生だ。しかも今は抜け殻だ。僕の名前を知っている人は、大学でもそう多くない。

　なぜ、彼女は僕の名前を知っている？　まさか、本当に乃蒼なのか？

　いや、ありえない。彼女のはずはない。

　乃蒼は去年死んだんだ。僕を守って。

「すみません。人違いでした」

　くるりと背を向けて歩き出す。ところがガシっと肩を鷲づかみにされた。

「立夏でしょ？」

「え、あ、いや……」

　僕は口ごもる。すると彼女は僕の肩から手を離し、両手で僕の手を握った。羞恥心をどこかに置き忘れてきたみたいな彼女の反応に戸惑う。

「私だよ！　乃蒼だよ！」

　その女性は目を潤ませながら言う。

「の……あ……？」

　僕は呆然として彼女の名を呼んだ。

「……本当に……乃蒼……なのか？」

「そうだよ！」

　彼女は目に涙を溜めながら、僕の手を握る力を強める。

「良かった！　知っている人に会えた！　なんだか街の様子も人の様子も違っていて、なんだかおかしいなーと思っていたの」

　まるで子どもみたいに大泣きして、顔をぐしゃぐしゃにして僕にしがみついてくる。

「立夏？」

「あ、いや……」

　そこで一瞬我に返ってしまった。僕は夢を見ているのだろうか。これは現実なのだろうかと。

　いや、今はどちらでもいい。僕も彼女を抱きしめたいと思ってしまったから。何がどうしてこうなっているのかわからないけれど、本当に彼女が乃蒼なのだとしたら、彼女に会いたいと思っていた僕の願いは成就したことになる。

　　　＊