バーチャル・ゴースト
ユウスケ
第1話 バーチャル・ゴースト
薄暗い渋谷の部屋の片隅で、如月 零はヘッドセットを外した。モニターに映る愛らしいバーチャルアバター「七色 レイ」は、数分前まで満面の笑顔で視聴者と交流していた。しかし、その画面がスリープに切り替わると同時に、彼の表情から全ての感情が消え失せる。
コメント欄には「おつレイ!」という彼女独自の挨拶がずらっと並ぶ。ファンは彼女のことを「癒し系ライバー」と呼ぶが、その声の主である零の心は凍てついた氷のようだった。VTuber「七色レイ」として過ごす時間だけが、彼女が人間でいられる唯一の時間。それ以外の時間、彼女は裏社会で「ゴースト」として恐れられる殺し屋だったのだ。
零はPCの前に座っていた。照明が切れた薄暗い室内で、彼女の視線は彷徨い、ただただなにもない天井を見つめている。
バイブの音がする。傍らにおいていたスマートフォンの控えめな通知音だ。画面に表示されるのは、彼女が所属する裏組織「ギルド」の最高権力ーーー「篠崎 厳(しのざき げん)」の名前だ。
零は、一切の感情を顔に滲ませることなく、その端末を手に取った。スワイプ一つで電話に出る。
「零か」
低く、威圧的な篠崎の声が、鼓膜を震わせた。
「例の件の"保持者"が見つかった。直ちに住所を送る。回収後、迅速に処理をしろ。いいか、失敗は許されないぞ」
その言葉に、零のうちには僅かな躊躇も迷いも産まれない。
「了解マスター。迅速に対処する」
彼女の声は、何の感情もない無機質な声だった。
零にとって、暗殺という行為は呼吸と変わらない。感情、迷い、個人的な思惑...人的な要素すべてを遮断する。彼女はただ、与えられたミッションのために動く、"冷徹な機械"となるのだ。そうして、音もなく対象を始末することから、裏社会では彼女を殺し屋「ゴースト」と恐れられている。
送られてきた住所を確認した零は、即座に立ち上り、真っ黒なパーカーを被る。すると、高層マンションの窓を押し開ける。そこは最上階である60階。その高さは300メートルを超える。
零は、何の躊躇もなく真っ暗な夜の闇へ身を投げ出した。重力に引かれ急速に落下する身体。紫の髪が風で激しく揺れる。すると、彼女は驚異的な身体能力で、落下途中の階の壁や窓枠を足の裏で蹴りつけ、衝撃を殺し、加速を調整する。1階、また1階と建物の側面を駆け下りていく。
そして、隣接する別の低層のマンションの屋上へ、ほとんど音を立てずに着地した。ターゲットの方向めがけ、屋上のコンクリートを次々と飛んでいき、闇夜を影のように標的の住所へと走った。
そして零はターゲットの家の前にたった。それは、何の変哲のない平凡な一軒家。周囲の家々と同じく、窓には穏やかな灯りがともる。
躊躇はない。懐から取り出した極細ワイヤーと特殊なピックを、限界のドアに差し込む。カチリと小さな音を立て、ドアロックが外れた。零は自信の黒いフードを頭に被ると、音もなく家の中に滑り込んだ。
(家の間取りは把握してある。後はターゲットの部屋を見つけるだけだ)
廊下を進み、その一番奥。最も奥まった場所にある扉がリビングである。そこから気配を感じ取った零は、ドアノブにそっと手を指をかけ、一気に開け放った。
視界の表面
広々としたリビングのソファに、ターゲットの男が完全に無防備な上体で寝転がっていた。サイドテーブルには飲みかけのジュースと読みかけの雑誌。そしてテレビが付いていた。零の姿をみたターゲットが思わず声を上げる。
「え?」
男が上半身を起こそうとしたその刹那ーーー零は浅く一呼吸すると、床を蹴った。床が爆発音のような音を立て、対象の男へと一直線に飛び込む。
「う、うわぁ!?」
突然の出来事に声を上げるターゲット。目の前に、黒い影が現れる。いつの間にか零の右手には、特殊合金の青いナイフが握られていた。零は一切の容赦なく、ナイフを男めがけて振り上げた。ナイフが肉を切り裂き、この暗殺は終わり...だと思った。
だが、ターゲットはソファの上で体制を崩しながらも、驚異的な反射神経で素早く横へと転がった。
ヒュッ。
空を切ったナイフの先端が、ターゲットの頭上をわずか数センチで通り過ぎる。
予期せぬ回避...しかし、零の感情は揺るがない。この程度の回避は想定内そのもの。その後勢いを殺すこと亡く、流れるような動作で体制を立て直し、ターゲットが転がって逃げた方向へ視線を送ったその瞬間
「オラッ!」
ターゲットが、起き上がりざま抱えていた大きなクッションを、目眩ましとして零の顔面めがけ投げつけた。
しかし、零は微動だにしない。彼女の手に握られた青いナイフが、高速でクッションを切り裂く。その一瞬の目眩ましに賭けたターゲットは、リビングの隣にある、自分の部屋と思わしき個室へ、転がるように逃げ込む。
零は感情を一切見せず、クッションの破片を無言で払い退け、男が逃げ込んだ部屋へ音もなく滑り込む。
零が足を踏み入れた個室は、電気がついておらず、真っ暗な状態だった。すると、入った瞬間、ドアの後ろに隠れていたターゲットが、零の背後に襲いかかる。その手にはカッターナイフ。ターゲットが手を振り上げ、零の身体を捉えると思われた。
しかし、攻撃が当たる寸前...零の身体はまるで空間が歪んだかのようにその場から消えた。彼女は、振り下ろされたナイフが皮膚を掠めるギリギリの瞬間まで引きつけ、紙一重の差で真横に体を滑らせていたのだ。男の渾身の一撃は、空を斬り、その勢いのまま、個室の壁に深く突き刺さる。
零は流れるように男を部屋のベッド蹴り倒し、体制を立て直す猶予を奪う。
彼女は仰向けになった男の胸の上に、音もなく乗りナイフを胸に押し当てる。
すると、ターゲットが零に問いかける。
「ぐっ...なんでいきなり俺を...」
零は、その無意味な問いに答える必要を感じなかった。彼女の仕事は遂行であり、問答ではないからだ。零は冷たい視線をターゲットに送りながら、その刃を振り上げ、心臓めがけて振り下ろされる。
ターゲットは自分の命が後数秒で終わることを悟ったのだろう。恐怖は絶叫へとは変わらずに、乾いた笑い声となって零になげかけられる。
「ふふ...推しに囲まれて死ねて、俺は幸せだぜ!」
『推し』.........。
この言葉が零を止める。貫くはずの刃の軌道が、彼の皮膚の寸前で停止したのだ。
暗殺には関係ない、でもVTuberである自分に関係がある『推し』という言葉...
零の目が初めて任務とは無関係な動揺を宿し、ターゲットの上から辺りを見渡す。
そして、彼女の視界に飛び込んだのは...。
そこはただの個室ではなかった。
壁一面、棚の上、デスクの端々...視界に入るすべての場所に、自分のV『七色レイ』のグッズが、部屋を取り囲むように飾られていたのだ。
さらに!色とりどりのキーホルダー、特大タペストリー、等身大パネル、目覚まし時計。ありとあらゆる自分グッズが零の視界を埋め尽くした。
零はこの部屋に見覚えがあった。VTuber活動の合間に某投稿サイト『Zwitter』で行うエゴサーチ(自らの名前を検索)していた際に流れてきた、いわゆる『祭壇』ち称される七色レイにグッズで埋め尽くされた部屋の写真。
零は、目の前にターゲットがいるという事実を忘れ、思わずその投稿主のユーザーネームを口に出していた。
「もしかして、『8888(パチパチパチパチ)』氏か!?」
その瞬間、零の口から出たのは、殺し屋『ゴースト』のものではなく、透き通った明るい癒やしの声...『七色レイ』の声だったのだ。
ターゲットの目が、上に乗っている零を捉えたまま丸くなる。
この聞き覚えのある声……毎日、配信越しに自分を癒やし、応援し続けている、唯一無二の、愛しい声。
恐怖は一瞬で吹き飛び、信じがたい驚愕へと変わった。男は息をのむと、震える声で叫んだ。
「その声...え...?もしかして、レイ姉...レイ姉なのか!?」
『レイ姉』――それは、七色レイの熱狂的なリスナー集団『レイリス』たちが、親愛の情を込めて愛用する特別な呼び名だった。
この一言で、二人の間の張り詰めた殺気と疑惑の糸は、一気に断ち切られた。
零の心臓が、まるで故障した機械のように激しく脈打ち始める。
(この人は...!レイリスだ!)
(この人は...!七色レイだ!)
殺人者と獲物。その関係は崩壊し、暗闇の個室の中で、VTuberと熱狂的なファンという、世界で最も奇妙な対面が成立した瞬間だった。
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