元英雄の帰路【不定期】

寝転猫

英雄だった者

幌馬車

幌馬車①リヒト

 その男は、古びた幌馬車ほろばしゃの固い木の座席に、どこか居心地が悪そうに身を沈めていた。錆びついた鉄の車輪が、ガタガタと石畳の道を揺らすたびに、男の背中から鈍い軋みが聞こえてくる。彼は、幾多の戦場を駆け抜けてきたであろう屈強な体躯を持つ一方で、まるでこの揺れに慣れていないかのように、時折、ぎこちなく体をこわばらせていた。彼の首筋から腕にかけて刻まれた無数の傷跡は、まるで過去の栄光を物語る勲章のようだったが、その目は遠く、ぼんやりと窓の外の景色を追っているだけだった。


 僕は、そんな男の隣で、ただ静かに本を読んでいた。旅の道連れがたまたま同じ幌馬車に乗り合わせただけの、見ず知らずの二人。話しかける理由もないし、話しかけられることもない。それでも、僕は時々、視線を本から外し、チラリと彼の方に目を向けた。彼の旅路がどこへ向かうのか、想像するだけで、僕の胸は少しだけ高鳴った。


「僕はリヒトと言います、あなたは?」


「ライアスだ」


 聞けば、その男の名は、ライアスというらしい。


 それは、僕が子どもの頃に読んだ、数え切れないほどの冒険譚に登場する英雄と同じ名前だった。伝説の魔王を討伐し、世界に平和をもたらしたとされる、偉大なる剣士。まさか、あの伝説の英雄が、こんな寂れた町の幌馬車に揺られているわけがない。そう思いながらも、僕の好奇心は抑えきれなかった。


「あの……」


 僕は、意を決して声をかけた。


 男はゆっくりと視線を僕に向けた。その瞳は、深みのある琥珀色をしていた。かつての炎のような輝きは失われ、静かな湖の底に沈んだ光のように、穏やかで、しかしどこか虚ろな光をたたえていた。


「もし差し支えなければ、どちらまで行かれるんですか?」


 僕の問いかけに、男は少し驚いたような表情を見せた。そして、かすれた、しかし力強い声で答えた。


「……終点までだ」


 その言葉に、僕は少しがっかりした。終点まで。まるで、彼の旅がもうすぐ終わることを告げているかのようだった。


「そうですか。僕は……ええと、この先の町で降ります。父の用事で」


 僕は嘘をついた。本当は、僕には目的地なんてない。ただ、漠然と旅に出たかっただけだ。このままどこか遠くへ行って、何か特別なものを見つけたい。そんな、幼い頃から抱いていた夢を、僕はまだ捨てきれずにいた。


 男は、僕の嘘を見抜いていたのかもしれない。彼は何も言わなかった。ただ、僕の顔をじっと見つめていた。そのまなざしは、僕の心の奥底に隠された、ちっぽけな憧れをすべて見透かしているようだった。


「君は……旅が好きなのか?」


 男は、唐突に尋ねた。


「はい。子どもの頃から、いつか英雄になる旅に出るのが夢でした」


 僕は正直に答えた。男は、ふっと笑った。それは、ひどく寂しげな笑いだった。


「英雄——そんなものは、小説の中だけの話だ。現実の英雄は、泥と血にまみれて、みっともなく転がり回るだけ」


 男の言葉は、僕の心を刺した。


「でも……あなたは英雄」


 僕は、思い切って尋ねた。男は、再び驚いたような表情を見せた。そして、静かに首を振った。


「違う。俺は、ただの旅人だ、それか人殺しか」


 嘘だ。僕はそう思った。彼の首筋の傷、手のひらの分厚いマメ、そして何よりも、その目に宿る、途方もない孤独。それらは、彼がただの旅人ではないことを雄弁に物語っていた。


「子どもの頃、あなたの物語を読んで、僕は何度も胸を躍らせました。魔王を倒し、世界を救った英雄。僕にとって、あなたは憧れでした」


 僕の言葉に、男は何も答えなかった。ただ、窓の外をじっと見つめている。僕は、自分の言葉が彼を傷つけたのかもしれないと思い、後悔した。


「すみません。変なことを聞いてしまって」


 僕は慌てて謝った。男は、ゆっくりと僕の方を向いた。


「謝るな。……ただ、俺はもう、英雄じゃない」


 彼の声は、ひどく疲れているように聞こえた。


「どういうことですか?」


「俺は、魔王を倒した後、故郷に戻った。平和になった世界で、”普通”に暮らそうと思った。でも、無理だった」


 男は、ぽつりぽつりと話し始めた。まるで、遠い昔の出来事を思い出すかのように。


「英雄として扱われることに、耐えられなかった。俺は、ただ魔王を倒したただけなんだ。守るために。だが、周りの人間は、俺を神のように崇め、祭り上げた。俺の行動のすべてが、美談として語り継がれた」


 男の声には、深い悲しみがこもっていた。


「それで、旅に出たんですか?」


 僕は尋ねた。男は、静かに頷いた。


「ああ。誰も俺を知らない場所で、もう一度、自分を取り戻したかった。でも、それも叶わなかった」


「どうして?」


「俺の心の中には、魔王との最後の戦いが、ずっと残っている。あの時の、血と死臭の匂い、仲間の死、そして……俺が最後の最後に、魔王を倒した時の、あの絶望的なほどの虚しさ。それらが、俺を蝕んでいく」


 男は、言葉を続けた。


「魔王は、ただの悪の権化じゃなかった。彼は、世界が抱える悲しみと苦しみのすべてを、その身に背負っていた。だから、彼は、世界を破壊しようとした。俺は、それを理解できなかった。ただ、目の前に立ちはだかる敵を倒すことしか、考えられなかった」


 僕は、息をのんだ。僕が知っていた英雄の物語とは、全く違う話だった。僕が読んだ本には、魔王はただの邪悪な存在として描かれていた。


「俺は、世界を救ったんじゃない。ただ、世界を破壊しようとした誰かを、殺しただけだ。そして、その殺人の代償は、俺自身が背負うことになった」


 男の言葉は、まるで重い鎖のように、僕の心に絡みついた。僕が憧れていた英雄の姿は、幻だった。そこにいたのは、過去に囚われた、孤独な男だけだった。


 幌馬車は、ガタゴトと音を立てながら、舗装されていない道を走り続けていた。窓の外には、見慣れない風景が広がっている。どこまでも続く荒野と、その先にかすかに見える山脈。僕の心は、かつてないほどに静まり返っていた。


「……あなたの旅は、どこへ向かうんですか?」


 僕は、もう一度尋ねた。


 男は、少しだけ微笑んだ。それは、さっきの寂しげな笑いとは違う、穏やかな笑みだった。


「どこか遠くの場所だ」


「遠くって」


 僕は、驚いて男の顔を見つめた。


 男の言葉には、確固たる決意が感じられた。それは、僕が子どもの頃に憧れた、英雄のそれとは違った。

 哀しく、虚ろな――それなのに力強い意志。


「遠くへ行って、どうするんですか?」


「償いだ」


 男は、静かにそう言った。


 僕の旅は、まだ始まったばかりだ。目的地なんてない。ただ、漠然とした憧れだけを抱いて、僕は旅に出た。でも、この男と出会って、僕の旅の目的は、少しだけ変わった。


 英雄になることじゃない。誰かを救うことでもない。ただ、自分の足で、自分の道を歩くこと。そして、いつか、この男のように、自分の旅に、ちゃんと別れを告げられるように。


 幌馬車は、小さな町に差し掛かった。僕が降りる予定の町だ。男は、僕に静かに言った。


「君は、君の旅を、見つけるといい。誰かの真似をする必要はない。君だけの旅を」


 僕は、深く頷いた。


 幌馬車を降りて、僕は男に深く頭を下げた。


「ありがとうございました。あなたの言葉、一生忘れません」


 男は、ただ微笑んで、僕に手を振った。


 幌馬車は、再び動き出した。僕は、その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。


 彼の旅は、きっとこれから始まり終わる。それは、英雄の物語ではなく、一人の人間として最期を飾るための物語なのかもしれない。


 そして、旅を迷っていたあの頃は僕もまた、彼を見送ると同時に無くなっていた。


 僕の旅は、まだ始まったばかりだ。

 僕は、僕だけの旅を見つける。そして、いつか、この男のように、その旅にちゃんと別れを告げられるように、僕は彼の言葉を胸に刻んだ。

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