第4話:賄賂、怪物、スポットライトの下

サラシン王国北部・あるダンジョンの奥深く

鉄錆の匂いが第一の壁だ。喉を塞ぐほど濃厚で、澱んだ空気は腐敗油のように重い。息を吸うたびに鉄屑を混ぜた泥を飲み込む感覚。ヴィクター・ブラック伯爵の深紅の礼服だけが、この汚濁の中で異彩を放つ。魔法壁灯の揺らめきに、絹が暗い血の光沢を流す。彼の指先には荊棘鳥の紋章を焼き付けた書簡──ヴェランディル護民官派からの冷たい伝言「準備せよ。セリーナ半月後に到達」が挟まれている。

後方で、質素な灰色のメイド服を着た下級女中が首を垂れ、指を死人のように握りしめている。毒蜘蛛の巣に迷い込んだ雛鳥のようだ。

記憶が毒蛇のように噛みつく──三日前の国境哨站「竜牙隘口」の惨状。平均Lv60のサラシン精鋭「竜爪衛士」127体が、何者かの狂暴な力で耕された焦土に、引き裂かれ、腐蝕され、人ならざる形に歪められて転がっていた。その惨劇を引き起こした怪物たちが、今この深淵のような監獄の最下層に眠る。

魔法障壁が不気味な緑色に明滅し、奥の人影をかすかに照らす。黒曜石の壁にもたれかかる影は、闇そのものが形になった慵懶なシルエットだ。

カイリス・シャドウテール (Kylis Shadowtail)。

汚れたマントが痩躯を包み、擦り切れた縁から鈍く光る銀糸が覗く。ふさふさとした狐耳の下で小さな銅鈴が、かすかに「チリン」と鳴る。地の底の死囚牢にいるとは思えぬ無害な三日月形の琥珀の瞳。ヴィクターの視線を感じると、データの奔流を帯びた半透明のシステムパネルが彼の頭上に浮かんだ:

名前:カイリス・シャドウテール(「クリムゾンクロウCrimson Claw」隊長)

Lv:88

職能:盗賊/聖騎士/吟遊詩人

技能:[不可視]

権能:[不可視]

魔法:[不可視]

「自由か、苔の肥料になるか。選べ、小狐」伯爵の声は金属が骨を削るような質感で響く。書簡が灰となって散る。

カイリスがどこからか取り出した滑らかな小石をぽんぽんと放り投げる。「おやおや、伯爵閣下。俺たち、閣下の『竜爪』をまるごと一隊屠ったんですぜ? 放って大丈夫ですか?」軽快な口調は天気の話のようだ。

「だからこそ、お前たちは我が刃にふさわしい」ヴィクターの口元が冷たく吊り上がる。「外で良い芝居が始まる。特別な役者が欲しいんだ。報酬は無罪赦免状と、サラシン金龍貨五万枚だ」指を弾くと、重い金貨が床に転がった。竜の彫刻が幽光に血のような輝きを放つ。

カイリスが小石を握りしめる。狐耳が微かに震えた。「悪くない。でもな──」目尻の笑みの奥に鋭い光が走る。「刃も軋む時はある。硬すぎる骨に喰らいついたら…『隊形再編』もありっすか?」(※戦術的撤退の婉曲表現)

伯爵の冷笑は微動だにしない:「価値がある限りな」

カイリスが闇の奥に振り返り、耳を微かに動かす。

「おーい! 伯爵様がおごってくれるぜ! 欲しいもん言えよー!」

その時、重く粘りつくような引き摺る音が闇から響いた。視界を押し潰さんばかりの巨影が、緑の光芒に踏み込む。

ヴォルク・フェンスウォーン (Voruk Fensworn)。

色すら判別できない襤褸の白袍が山のような躯を包む。左腕と首筋に露出した墨緑色の鱗が冷たい油光を放つ。沈黙した巨岩──だがその分厚い頭蓋骨に嵌め込まれた両眼だけが、沼底で灯された原始的な飢餓の赤い提灯のように燃えていた。指が、鱗と汚泥に覆われた巨大な指が、ゆっくりと確固として、ヴィクターの傍らに立つ──

灰色のスカートを震わせる下級女中を指さした。

空気が凍りつく。女中の顔から血の気が引き、瞳孔が恐怖で開いた。「ぐえっ」喉が締め上げられる音を立てる。

ヴィクターの視線が、ヴォルクの赤い眼と女中の青ざめた顔を冷静に行き来する。商品を評価するように。

「この娘か?」伯爵は雛鳥のようにすがりつく女中を押しのけた。

ヴォルクが短くうなる:「うむ」

「いやです…! 伯爵様お願い! 何もして──!」女中の金切り声が牢獄の沈黙を引き裂く。

ガキィン!!!!!

耳をつんざく金属断裂音! カイリスの重枷が粉々に砕け散る! 続いて鋼鉄の牢門の蝶番が怪力で歪み引き千切られる唸り!

女中の絶叫が最高音で途切れ、代わりに水袋が破裂するような鈍く湿った音がした。新鮮で濃厚な血の匂いが牢獄の腐臭を一瞬で圧倒した。

魔法障壁が激しく明滅し、完全に消えた。闇が潮のように押し寄せ、最後の光と音を貪り尽くす。転がる金貨の空虚な「チリン」という音だけが、果てしない静寂の中に消えていった。

ヴェランディル王都・栄光の尖塔(グローリースパイア)

光だけが暴君だ。

「栄光尖塔(グローリースパイア)」の頂に嵌め込まれた巨大プリズムが、真昼の太陽を分解・再構成し、無数の金色の刃と化して「オーレオン」王宮「日冕の間」を貫く。高価な香木と磨き上げられた白石の冷気が混ざり合う。天井には唯一神「ソルス・デウス」が「開拓者」を率い精霊の森を征服する壁画が、神の光が流れ落ちんばかりに鮮烈に描かれていた。

シオン・ブラックソーンは聖なる炉に投げ込まれた塵のようだった。糊で固めた粗末な麻布の「勇者」制服を着て、鏡のような床に立つ。靴の中で足の指がもじもじする。同じ神性の光を浴びる他の六人の「勇者」が縁に並ぶ。巨大な窓の外には、夢幻のようなオーレオン王都──陽光に溶ける黄金の尖塔、象牙色の建築群が雪のように連なり、蟻のように小さな盛装の群衆が散らばる。富と信仰で築かれた、穢れなき聖域だ。

「姿勢を正せ。召喚を待て」ガーヴィン・ドラゴンスパインの声が横で響く。低く平然として、揺るがない。「開拓の竜尾」は背中の大剣「堡塁(バスティオン)」同様、そこに立つだけで無形の威圧の壁を築く。風化した岩のような顔はシオンの気後れを無視し、正面を凝視する。

(マップモデルこの辺は確かに上手いんだが、謁見の間に入る前にロードが必要とかマジかよ…)

シオンは背筋を伸ばし、将来の「仲間」を小心に眺めた。

(こいつらが勇者? 俺の身分が値下がりした気がするぜ。パーティメンバーか? 男が俺以外にいる時点で評価下げたわ。一人ずつ会話して勧誘しないとストーリー進まないのか?)

(話しかけるの超ハードル高い…まあいい、毎日ニートしてた奴は異世界でリア充になる運命だ! 俺の人格の輝きを見せつけて、一人ずつ落としていくぜ!)

カイン・ブライトブレードが中央の最光点を占める。ミスリル細工の甲冑に散りばめられた青玉が、プリズム光線で冷たく貴い輝きを放つ。抜刀のような姿勢で、陽光のような金髪が完璧に束ねられ、優れた顎線を見せている。シオンの怯えた視線を感じて、完璧な頭部を微かに傾け、澄み切った青い瞳が塵を見下ろすように微笑む。計算された上品な笑みだ。

「あ、えっと…シオン・ブラックソーンです」

「ようこそ、シオン・ブラックソーン」竪琴のような声が響く。「ソルスの光が我らを導き、ヴェランディルに勝利の栄光をもたらさんことを」言葉は完璧だが、施しを受けた乞食のような気分にさせた。

(カイン、仲間になる!)

リアナ・ソフトフェザーがカインの斜め後ろに、大樹に寄り添う藤のように立つ。栗色の髪を繊細な蔓銀環で束ね、幾筋かが優しい顔を縁取る。前に組んだ指が力んで白い。

シオンの視線が合うと、純粋で怯えたような笑顔を返し、小さな鼻を微かにひく。「あ、こんにちは、シオンさん…よろしくお願いします」森の泉のような細く澄んだ声だ。

(くっ…既に落ちてやがる。リアナ、仲間になる!)

シルラ・スティルウォーターが人垣から離れて立つ。氷色の長髪が顔の半分を隠す。

「あの、シオン・ブラックソーンです」

姿勢は棒のように硬い。シオンを無生物を見るような静かな目で一瞥し、再び天井の壁画を見上げる。沈黙が彼女の言語だった。

(シルラ・スティルウォーターって名前だったか。加入扱いでいいや)

ブリジット・アンヴィルが腕を組み、赤褐色の短髪が逆立つ。実用一辺倒の革鎧が、周囲の華やかな甲冑やドレスの中で浮いていた。

「初めまして、シオン・ブラックソーンです」

常に顰めた眉が、シオンを見下ろす。粗末な麻の上着、大きすぎる靴、鍛えられていない貧弱な肩幅…一抹の失望(と困惑?)が目をよぎる。

「ブリジット・アンヴィル」少し嗄れた声で言い放つ。「戦場は遊び場じゃない。肝に銘じろ」すぐに視線を戻し、謁見の間の扉を鋭く見据える。

(棒読みかよ。自分が言ったら確実に死ぬレベルの恥ずかしさだ…ブリジット・アンヴィル、仲間になる!)

レックス・スライフォックスが征服者の浮彫柱にもたれ、骨抜きのようにだらりとしている。深紫のベルベット外套の襟元が開き、絹の裏地が見える。長い指の間で金貨が生き物のように踊り、「チリンチリン」と細く連なる音を立てる。

「シオン・ブラックソーンです」

細い目が狐のようにシオンを舐め回し、毒を含んだ笑みを浮かべる。「おお、『特別な』七人目の勇者様?」わざとらしく言葉を伸ばす。「ブラックソーン…なんとも…『個性的』な苗字だな。その…『質素』な身なりと同じくらい、能力も『驚かせ』てくれよ?」

(誰かに似てる…思い出せない。フラグ回収必須の裏切り者確定。今すぐパーティから蹴りたい)

フェリス・フレイムハートは爆発寸前の炎の塊のようだ。燃える旗のような橙赤の巻き髪が肩にかかる。腰に手を当て、顎を上げている。シオンを見た視線は埃のように素通りし、精巧な鼻翼が嫌悪でひくつく。

「初めまして、シオンです」

「フェリス・フレイムハート。うるさい」シオンの言葉を遮り、金色の扉を見つめる背中だけを向けた。

(ツンデレかよ。テンプレすぎる…でも攻略後のギャップ萌えは確実だ。フェリス・フレイムハート、仲間になる!)

シオンが振り返り、リアナに笑顔を返そうとしたが、引きつった頬が動くだけだった。

(同じセリフ繰り返してNPC化しそうだ…)

「謁見(えっけん)──! ヴェランディルの星辰、尊きレオナ王女殿下、御成(おなり)であります──!」

鐘のような宣告が大広間に鳴り響く。全ての視線が一点に集中する。

重厚な金色の扉が内側に開く。光が主を見つけたように奔流となる。

レオナ・ヴェランディルが光の中を歩む。

純白に金をあしらった裾引きのドレス。歩くたびに星屑が零れ落ちるようだ。陽光が滝のような金髪を撫で、一本一本が溶けた黄金の輝きを放つ。碧眼は聖湖のように澄み、天井の神々の光を映す。月光石で彫られたかのような透き通る肌。全身が優雅で神聖なオーラに包まれ、塵一つない神女の降臨だ。全ての不安と穢れが、この光の前にかき消される。

シオンが息を止めた。眩暈のような畏敬の念に囚われる。

(異世界モノなら王女は攻略対象確定だろ…)

レオナの背後には、忠実な影のように二人が控える:左は無表情で鉄塔のようなガーヴィン・ドラゴンスパイン(いつの間にか侍立していた)。右は清楚な白黒のメイド服を着た若い女性──王女付きの一人だ。

シオンの視線がメイドの横顔を掠めた。その瞬間、霞んだ切り絵のような懐かしさが心を刺す。俯いた睫毛、結ばれた唇…孤児院の灰色の記憶に封印された残像か? 必死に瞬きしても、陽炎のように消えていく。気のせい…だよな? そんな身分の違う者と接点があるはずが──

レオナが優雅に高壇に上がり、巨大な水晶を嵌めた玉座に着く。七人の勇者を見下ろす瞳は、新芽を撫でる春風のようだ。

「ようこそ、神に選ばれし子ら。人の希望の光よ」透き通る声が静謐な大広間に安らぎと共に響く。「諸君にはソルス・デウスより授けられた聖なる使命がある。かつて闇に狙われたこの地で、人類は唯一真神の導きと教会の庇護のもと、勇気と知恵をもって栄光の国を築いた」

玉座右側の護民官マルクス・フラウィウス(完璧に恭順で温和な微笑み)と、白金の司教杖を持つ唯一神正教大司教(宗教的狂熱を燃やす目で微かに頷く)を見据える。

「されど、影は決して遠のかなかった」レオナの声に重みが増す。「枯死荒原(Blighted Waste)の瘴気は渦巻き、魔哮山脈(The Howling Peaks)の呻きは日に日に強まる。追放されし憎悪の眼──魔王の宝玉(ハートストーン)が胎動を始めたのだ! 新たな魔王は戦火と破滅を再び地上に注ぎ、我らが家園を呑み、信仰を穢さんとしている!」

身を微かに乗り出す。碧眼に揺るぎない決意が光る。「諸君は、神がヴェランディルに、人類諸国連合に授けた剣にして盾だ! この光の大地に、我らを栄光へ導く唯一神正教に、秩序を護る王権に忠誠を! 諸君の勇気と力が、闇を裂く暁光(れいこう)となるであろう!」

(普段なら絶対スキップする台詞だが、没入して聴くと確かに胸が熱くなるな…)

神聖で熱く、疑いを許さない呼びかけだ。シオンも他の勇者も、背筋を伸ばさずにはいられない。

「さあ、前に進み、神恩の洗礼を受けよ。勇者の力が真に諸君の内に目覚め、闇と戦う礎とならんことを」レオナの声は天の調べ。

司教と王女の導きで、七人の勇者が順に進む。広間中央から純白の水晶基壇が現れ、その上に柔らかく深淵な青白い光を放つ拳大の宝珠が浮かぶ──勇者の涙(ティアーズ・オブ・ヒーロー)だ。

シオンが震える指で宝珠の温かく冷たい表面に触れた瞬間、言い知れぬ奔流が四肢百骸を突き抜けた! 冷たい溶岩と灼熱の清泉が同時に流れ込み、眠っていた細胞が一瞬で覚醒し、引き裂かれ、再構築される! 視界が青白い光に支配され、力が洪水のように湧き上がる。ステータスパネルが意識内で狂ったように更新され、【勇者状態】スキルのアイコンが点灯…俗世の檻から解き放たれた陶酔感。

(やっぱりな…“主人公最強”の異世界小説だぜ。七人もいるのは微妙だが、このチート能力さえあればどこでも無双だ…さらば悲惨ニート人生!)

洗礼が終わり、宝珠の光が収まる。シオンも他の者も、生まれ変わったように軽やかで活力に満ちていた。しかし、魂の奥底に張り付く薄氷のような疲労と束縛感が忍び寄る。

「神恩は授けたり。契約を結ばん」大司教の威厳ある声。高階神官たちが聖なる気配を放つ白い獣皮の巨大巻物を捧げ持つ。

「これぞ『聖なる加護儀式』の契約」レオナの声は優しさを保ちつつ、抗いがたい力を帯びる。「諸君の魂と王国の運命を結びつけ、魔王への征途に揺るがぬ加護を与えるもの。栄光の証にして聖なる責務なり」

巻物が開かれ、神恩を讃え王権を称え勇者の責務を謳う金色の祈祷文が現れる。その核心に、かすかに古い符文で書かれた条項が光る。主祷文に隠され、意図的に霞ませられている。巻物からは、氷水に浸かるような言い知れぬ寒気が漂う。

迷う余地などない。神聖な空気、王女の慈悲深い眼差し、力を得た陶酔感の中、七人の勇者は──高揚するシオンも含め──次々と前に進み、神官の指示で巻物の指定位置に手形を押した。

指が冷たい獣皮に触れた瞬間、魂の奥の寒気が鋭く増す。骨髄に食い込む無形の鎖が束縛し、すぐに消えた。シオンが震え、王女を見上げる。レオナが聖なる微笑みを向ける。天使の祝福のように、心の曇りを一瞬で払った。聖なる力が強すぎたんだろう。

儀式終了。巻物は聖光の中に消える。

「ソルスの光が常に諸君を導かんことを」レオナの声に疲れた優しさが滲む。

一人のメイド──先程王女の側にいた者──が音もなくシオンの前に現れた。恭順に首を垂れ、自分の靴先だけを見つめる。

「シオン・ブラックソーン様」感情を排した平坦な声。「お部屋のご用意ができております。明朝、他の勇者様方と共に『栄光尖塔』地下第一層へ初回実戦適応訓練にお出でください。厳守願います」

シオンが慌てて頷く。再びメイドの俯いた顔を見る。霞のかかった既視感が、風に揺れる蜘蛛の糸のように心を掻く。口を開こうとしたが、千里の壁を築いた恭順の姿勢に言葉を飲み込んだ。

メイドに従い、息詰まるほど壮大な宮殿の回廊を進む。ステンドグラスを通した金色の陽光が床に斑な模様を落とす。残る香木と契約の冷たい束縛感が絡み合う。

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