Track.002「君がいた夏」 scene.03


 エトゥーナに南から湿り気を含んだ風が吹き始めた頃、ハルアの父が帝都から戻ってきた。彼女を迎えに来たのだ。

 その父から、初めて昼食に誘われた。

 館の広間の長いテーブルには、見たことのない料理がずらりと並んでいた。黒い果実を焼いたものや、魚の形をしているのに肉のような食感のもの──どれも美味しかったが、何でできているのかはさっぱりわからなかった。

 執事フェルナンは壁際に控え、黙ってその様子を見ていた。

「ありがとう、クレイくん。君のおかげでハルアも退屈しなかったようだ」

 ハルアの父が笑顔で言う。僕は小さく頭を下げた。なぜそうしたのかは自分でもわからない。

 ハルアを見ると頬を赤らめて下を向き、黙々とナイフとフォークを動かしていた。

 しばらく銀器の触れ合う渇いた音だけが室内に響いた。

「あの……お父さま」

ハルアが勇気を振り絞って父のほうを見る。父は優しげな視線を返して娘の言葉待った。

「明日、村で収穫祭があります。見に行ってはだめですか?」

 ハルアの父は笑顔のまま小さく頷いてフェルナンを見る。執事は我関せずといった顔でこほんと咳払いをした。

「体調も良さそうだし、行ってみようか。本当は明日出発する予定だったが、一日延期しよう」

 父の言葉を聞いてハルアは心から嬉しそうに微笑み、僕を見た。

 収穫祭には恒例の隣村との模擬剣技の対抗試合が行われる。僕も村の代表として出場する。ハルアに見てもらえる。僕はたまらなく嬉しかった。


 翌日の収穫祭は予定通り昼から村の入り口近くの広場で行われた。広場といってもなだらかなすり鉢状になったただの草むらだ。

 日の高いうちは、その年収穫された春小麦で作ったパンを野菜や豆と一緒に煮込んだスープ、豚や羊肉の焼いたものなどを村中のみんなが作って食べた。

 普段は飲ませてもらえない葡萄酒もこの日だけは僕たちにも少し飲ませてもらえた。だけど美味しいとは思えなかった。

 バグパイプや鍵盤楽器、タンバリンなどの演奏に合わせて村人たちが踊り、騒ぐ。

 いつも険しい顔をしている大人たちもこの日だけは笑顔だった。

 ハルアの父は日除けの布を張って急ごしらえされた特別席で、食事をしながら村の偉い人たちと歓談していた。ハルアもそこにいた。村の仲間たちと一緒に過ごす僕と時々目が合った。

 僕が最近ハルアと仲良くしているのを親友のダバラやナッケイは知っている。でも決して茶化したりしない。彼らのそういうところが特に気に入っていた。

 日が沈む頃、隣村の住人たちが大勢でやってきた。模擬剣技の対抗試合に出場する少年たちと見物人たちだ。

 対抗試合は一年毎にこの村と隣村で交互に開催され、この年は僕の村で開催される年だった。

 この時期は日が沈み出すとあっという間に真っ暗になる。

 篝火が焚かれ、二つの村の住人たちが円になって並ぶ。即席の闘技場ができる。双方の代表者が五人ずつ、その輪の中に入る。それぞれ練習用武具を手に持ち、向かい合う。

 試合は代表が一人ずつ前に出て戦う。降参したら負けというわかりやすいルールだ。

 木でできた練習用とはいえ、大怪我をすることもある危険な戦いだった。

 僕の村は二人負けたが、ダバラとナッケイで連勝した。この年の勝敗は僕次第となった。

 周囲から歓声や応援が湧き上がる。祭りは最高潮を迎えた。

「あちょぉ〜」

 くせっ毛の背の高い少年が木の棒を構えて出てきた。試合が始まったときから大きな声で騒いで目立っていた。僕が一番苦手なタイプだ。

 後にその少年の名はゲインだと知る──

 僕も木剣を構えて前に出る。ハルアが視界に入った。心配そうに手を胸に押し当てて見守っていた。僕は小さく頷く。かっこ悪いところは見られたくないと思った。

「おまえ、強いのか?」ゲインが棒を振り回しながら言った。

 僕は無視する。ゲインはふんと鼻で笑った。

「つまらないやつだな!」

 ゲインが棒を振りかぶって頭を狙って振り下ろしてきた。剣で受け止めたけど、手がじんと痺れた。速くて重い打撃だった。

「お、止めちゃうのね。まぁ、全然本気じゃないんだけどね」

 ゲインが続けざまに攻撃してくるのを僕は剣でなんとか弾き続ける。でも、だんだん手の感覚がなくなってくるのがわかった。汗で柄がすべりそうだった。

「ふん、余裕だな。俺様の圧勝〜」

 ゲインが一度手を止めて大きく振りかぶる。

 この隙を待っていた──僕は素早く踏み込み、がら空きになった胴を狙って横なぎに剣を一閃──

 ゲインの罠だった。わざと胴を狙うよう仕向けたのだ。

 ゲインは振りかぶった棒の持ち手のほうを僕の顔めがけて叩きつけてくる。

 わざと隙を作ったのは気づいていた。だから全力では振らなかった。やっぱり罠だった──体をわずかにすらして避けてから、剣の軌道を胴から足へと変化させる。

 木剣の先がゲインの脛を打った。

「あっ!痛ってぇぇ!」

 ゲインは叫びながら足を押さえて蹲る。

「ぎええぇぇぇ……」

 ゲインは参ったと言うのも忘れて脛を押さえてのたうち回る。

「……僕の勝ち、でいいよね?」

 ゲインはなんとか痛みをこらえて、投げ出してしまっていた棒をつかんで立ち上がる。そして──

「参った。俺の負けだぁ」棒を脇に挟んで一礼しながら言って、がははと笑った。「おまえ、やるじゃん!」

 僕も安堵から笑みがこぼれる。周囲からどっと歓声が上がった。

 ハルアに視線をやると、目尻を押さえながら無理に微笑んでいるように見えた。

 ──涙? なぜ彼女が泣いているのかそのときの僕にはわからなかった。

 

 翌朝、ハルアは帝都に向けて帰っていった。

 別れ際、ハルアはやっぱり泣いていた。僕はなんと声をかけていいかわからず、ただ黙っているしかなかった。

 ハルアの乗った馬車が、緑の丘陵を引き裂くように敷かれた石畳の上を遠ざかっていく。

それを見送る僕も──泣いていた。


「目的地は帝都オルニス──」

 その地名を聞いた瞬間、クレイはふと我に返った。

 ここはスオラの町の有力者プブリウスの邸宅大広間。ひげを長くたくわえた恰幅のいい男が、長い食卓の向こう側に座っている。クレイたち四人はその正面に並んでいた。

 晩夏の光が高窓から差し込み、床に淡い格子の影を置いている。銀器が小さく触れ合う音が、やけに大きく響いていた。香ばしい肉の匂いが、鼻腔を刺激する。

 昨夜、宿場に迎えに来た男は、扉のそばで直立したまま動かない。

 この場の空気に少年時代の記憶を想起され、クレイの心はしばらくここになかった。

 依頼の内容は単純だった。プブリウスの代理人を帝都まで護衛する。それだけ。

「なにかありますよね?」ダバラが布巾で口元を押さえ、視線を主に向けた。

 プブリウスは低く笑った。しかし目は笑っていない。「なぜ、そう思うんだね?」

「この町には傭兵はたくさんいます。それなのに、わざわざ僕たちを呼んだ」ダバラは淡々と返す。

「ああ、まさしくそのとおりだ」主が何度も小さく頷く。「少しばかり厄介な連中に目をつけられているようでね」

 ダバラは黙って続きを待つ。

「わしの代理の者が帝都へ向かう。君らはそれを護る。──条件は一つ。何を運ぶかは問わないことだ」具体的な報酬額が示された。破格だった。

「厄介な連中って?」それまで大人しく食事をしていたゲインが口を挟む。

 主は小さく首を振った。「それは言えん。知らないほうが君らのためだ」

 ダバラが仲間に目線を送る。ナッケイは小さく頷き、ゲインは両手を上げてみせた。

「受けよう」クレイは深く息をつき、表情を引き締める。「ちょうど帝都に用がある」


 プブリウスに泊まるように勧められたがゲインが固辞したため、町の宿場に一泊することになった。

 夜遊びがしたかったようだ。

 ゲインは部屋に荷を下ろすと軽やかに出かけて行った。その晩は宿に戻らず、夜の町を楽しんでいたらしい。

 朝、残った三人が宿の食堂で静かに朝食をとっていると、扉が開き、ゲインが眠そうな顔で戻ってきた。髪はいつも以上に乱れ、目にはまだ昨夜の余韻が残っているようだった。背中からは昨夜の騒ぎが抜け切れていないことが伝わってくる。

 三人は軽く視線を交わし、やれやれといった顔で苦笑する。ゲインはそのまま席に着き、目の前に並んだパンとスープを手に取りながらも、まだ半分は空想の世界にいるようだった。

 荷物を整え、宿を出た。石畳を踏むたび、残暑の温もりが足裏に伝わる。風は涼しくなりつつあったが、町は行き交う人々の熱気に満ちていた。

 初めて会ったプブリウスの代理人は、人の良さそうな笑みを浮かべつつ、底の読めない目をしていた。

「どうも。コルネリオです」

 丸顔で額が広く、白髪を後ろへ撫でつけている。笑っていないのに、口元だけが微笑んでいた。

「ダバラです。よろしく」

 ダバラが代表して挨拶した後、残りの三人を紹介する。

 コルネリオは静かに頷く。口元の微笑みは絶えない。

「よろしく、皆さん。まあ、気楽に行きましょう」

「気楽に行くのはいいが、くれぐれも気をつけてくれたまえ」そばにいたプブリウスが眉根を寄せる。

「ええ、それはもちろんわかっております、旦那さま」コルネリオが主人に恭しく頭を下げた後、四人に向き直る。「それでは参りましょう。いやぁ、今日も暑くなりそうだ」

 コルネリオはそう言うとすたすたと四人の脇をすり抜けて歩き出した。後には大きく重そうな鞄が残されている。

「鞄、忘れていますよ」ダバラがぼそりと言う。

「えっ? 持っていってくれないの?」コルネリオが立ち止まり振り返る。

「契約にないので」ダバラが淡々と断る。

「それって大事な荷物なんでしょ?」クレイが呆れたように言う。

「いや、大事な物はここに」コルネリオは腰に下げた小さな鞄を手で叩く。「そっちは私の私物です」

 四人は顔を見合わす。

「追加料金でお運びしましょうか? ただし、お安くはないですよぉ〜」ゲインがにこやかに言う。

 コルネリオは四人の顔を見た後、主人の顔に視線を移した。誰も何の反応を示さないのを見てとると、仕方なく鞄を取りに戻る。

「……行きましょうか」彼のテンションはあきらかに下がっていた。


「おい、起きろ」

 クアラがベッドで爆睡するキバをゆする。まったく起きる気配はない。

 薄暗い宿場の一室。酒瓶が床に転がり、アルコールと煙草の匂いが入り混じる。

「起きろっつてんだろ!」

 ウーノがクアラの後ろから怒鳴る。

「……うっせぇ、黙れ、ボケ」キバが酒やけしたしゃがれ声で言う。

「んだとぉ!」

 ウーノがクアラを押し退けて、靴のままキバのベッドに上がる。そして、思い切り脇腹を蹴りつけた。

 キバが脇腹を押さえてウーノを睨みつける。

「やってくれんじゃねえか……」

 ウーノの足をつかんで引っ張る。背中から床に落下する。

 なおもキバがウーノに飛び掛かろうとするのをクアラがベッドに押さえつけて止める。

「痛えなぁ。クソ野郎」

 ウーノが腰を手でさすりながら立ち上がる。

「アヴェイ、手伝えよ」クアラが部屋の隅で剣を黙々と磨いていた長身で細身の男に声をかけた。

「面倒なんだよね、毎朝毎朝」

 アヴェイが磨いていた剣をそっと置いて立ち上がったとき、戸が開いた。隣室に泊まっていた依頼主の使用人が顔を出す。

「何の騒ぎでしょうか? 目標はまもなくこの町を出ます。我々も早く出発したいのですが……」男は恐る恐る中の様子を伺いながら言う。

「……興醒めだ」キバが吐き出すようにぼやく。「やめだやめだ。どいてくれ」

 彼はクアラを押し退けて立ち上がり、ウーノを一瞥する。

「おい、あばら、折れちまったぞ。……借りひとつ。忘れんな」

 

 クレイたちは馬屋で馬を受け取った。プブリウスが手配済みだった。

 馬を使えば、スオラからオルニスまでは十日程度の行程である。

 重い荷を鞍に載せるとコルネリオの機嫌は途端によくなった。

「いやぁ、帝都なんて久しぶりだな。皆さんはよく行かれるんですか?」

 コルネリオが並んで進むクレイに話しかける。

「いや、僕たちはオルニスには初めて行きます」クレイが馬上で前を向いたまま答える。

 街道の右手にはオリーブの丘陵の向こうに夕日が浮かんでいた。前にゲイン、後ろにナッケイで挟み、ダバラは少し前を偵察しながら進んでいるはずだ。

「え? 帝都初めて? 大丈夫なんですか? なんか心配になってきたなぁ」コルネリオが不安そうな顔を浮かべる。

「む。失礼だなぁ」クレイが横をちらりと見て、口角を上げる。「帝都には行ったことなくても剣は誰にも負けない」

「それは頼もしいですね。本当なら、ですが」

「あんた、本当に失礼だよね。自覚ない?」

 そんなことを話しながら馬に揺られて進んでいると、街道の脇の草原でダバラがひっそりと待っていた。

「この先に異常はない。少し行ったところに小さな町がある。そこで今夜は泊まろう」

 ダバラの言うとおり、すぐに町に到着した。宿場を見つけると馬留めに馬を繋ぐ。

「すみません。どなたか私の荷物降ろしてもらえませんか? もうくたくたで……」

 コルネリオが馬上から、自分たちの荷物を鞍から解いている四人に言う。

 四人が顔を見合わせる。

「追加料金払う気になったの?」ゲインがにたぁと笑った。


「え? これも俺が持って帰んの?」

 シアンはベロア貼りの真っ赤な椅子を指差して言う。

 帝都オルニスの大動脈──アリアヌス通り沿いの高級家具店である。

「これ、いいよねぇ。ギブンのカウンターに本当に合いそうだ」他人事のようにザックは言う。

「そうでございましょ。一目惚れしてしまいましたわ」リーナがうっとりした目で椅子を見る。

「そんなことより……ほら、よく見てください、これ」シアンが両手に抱えた酒瓶の入った木箱や果物が詰まった布袋を顎で示しながら言う。「これ以上まだ持たす気なんですか?」

「こんなときのために普段お鍛えになられているのでしょう。心強いこと、この上ございませんわ」リーナの顔がいたずら猫のようになる。

「俺が鍛えているのは、こんなときのためじゃないですから」

「まあまあ、そんなこと言わずに、姐さんのために持って帰ってあげようよ」ザックが口を挟む。「なんでも屋でしょ?」

「あんたもそうでしょうが」シアンがぼやく。

「そうだね。よし、俺も手伝う」

 ザックはシアンが持つ木箱から果実酒を二本抜いて両手に持った。

「あ、こら! どうせ持つなら箱ごと持ちなさい」シアンが箱を差し出そうとする。

「おや……」ザックの視線が箱に向く。「ちょっと、そのままそのまま……」

 ザックは果実酒を店の床に置くと購入した椅子を持ち上げて、木箱の空いた箇所に椅子の脚を突っ込んだ。

「ほら! ほらほらほら! ぴったり安定じゃないですか」

 背もたれのほうの両脚を木箱に入れた椅子はそこが定位置だったかのように収まっていた。ただしシアンの視界はほぼ背もたれで遮られる格好だ。

「ひどい……これでギブンまで持ってけと?」シアンが背もたれから顔を覗かせて抗議する。

「お願いしてもよろしくて?」リーナがにっこりと微笑む。

「まったく……とんでもない人だ。追加料金いただきますから」

「追加料金は、元々のお代があって初めて発生するものですわ」リーナが小さく呟く。

「……えっ? なんか言いました?」シアンがまた顔を覗かせる。

「いいえ。なんにも」リーナが口を手で押さえる。「前がお見えにならないでしょうから、あたくしが誘導しますわ。まずはそのままくるっと回って出口に」

 シアンはぶつぶつ言いながらも椅子を抱えたまま店を出る。

 ──その時

「危ない!」ザックがシアンの手を掴む。荷物がぐらっとしたがなんとかシアンが持ちこたえる。

 その直後、石畳に蹄の音が荒々しく響く。晩夏の夕陽が建物の影を長く伸ばし、赤銅色の光の中を数騎が駆け抜けた。その土煙のすぐ後ろ、二つの影が乱暴に追いすがる。

 先に出たのは痩身の騎手。頬にかかる黒髪が夕陽に焼かれ、風に裂けるたび鋭い輪郭を浮かび上がらせる。切れ長の目は獲物を射抜くように鋭く、唇はどこか冷たさを感じさせた。鞍に預ける身体はしなやかで、その存在自体が剣のように、群衆を空気ごと切り裂いていく。

 そのすぐ背後に、圧の塊のような巨躯が続く。逆立つ黒髪が赤銅色に光り、額から流れる汗すら飾りに見せる。顔は長く耳が大きくまさに異相──荒々しい眼差し、笑うとも吠えるともつかぬ口元。その馬の扱いは力任せだが、石畳さえ踏み割るほどの迫力を放っていた。

 大通りの人々は左右に散り、ただ蹄の響きと砂煙だけが帝都の夕暮れを支配する。前を駆ける数騎を追い、二つの影は暴威そのものとなって石畳を切り裂いていった。

「あっぶねえなぁ。気ぃつけろぃ」シアンが聞こえるはずがないことを知りながら、城門へ向けて駆けていくその背中に文句を言う。

「見たか? 最後の二人……」ザックも呆然と見送っていた。「あ、ごめん、見えるわけないか」

「“氷刃”と“雷神” ……」リーナが身を隠していた店内から出てくる。「軍諜報機関の二大巨頭──」

「その名前なら俺も知ってる。今は相当仲が悪いって聞いてたけど」シアンが眉間に皺を寄せる。

「その二人が一緒に行動してるってことは──」ザックとシアンが視線を合わせる。

 何か大事が起こっている──ザックは只ならぬ何かを感じていた。

 仲直りしたのかな──一方のシアンは全然別のことを考えていた。

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