Track.001「だからその手を離して」 scene.06
6
被害はなかった。火事の騒ぎで飛び出すとき、横丁の通りとを隔てる正面玄関の鍵をかけ忘れていた。
──そこから、誰かが忍び込もうとしたらしい。
だが、工房の扉は頑丈だった。複雑な機構の施錠に侵入者は諦めたのだろう──それが、ザックの見立てだった。
「もしかして、上に──」
シアンが階段を駆け上がる。
上階に異常はなかった。空気も、家具も、何もかも、普段のまま。誰かが立ち入った形跡はうかがえない。
階下に降りてくると、工房前でザックが煙草をくゆらせ、一服していた。思案顔で視線を扉に向けている。
「ここが狙いだね、最初から」
金属製の薄緑色の扉に手を置き、彼はそうつぶやく。
「ぼや騒ぎも俺たちをおびき出すための放火だった──ってこと?」
「それもあり得ると思うね」
煙草の火が揺れ、煙がシアンの顔をかすめ、ゆったりと正面玄関から路地へと流れる。
その煙の向こうに、リーナが立っていた。腕を軽く胸の前で交差させ、指先は浮かせたまま二人に向ける表情はどこか物憂げだ。
「お取り込みのご様子ですが、よろしゅうございますか?」
形式的な問いかけ。しかし、その沈黙には状況を読む鋭さがあった。
「もちろん。むしろ、姐さんと話したいところだった」
ザックは煙草を指で軽くつまみ上げ、ゆっくりと合図を送る。
「軍の消防部隊の方々が今ごろお出ましで。あの坊や、こっぴどく注意されて……。ふふ、かわいそうでしたわ」
リーナは気の毒そうに微笑みながら、首を左右に小さく振った。
「またあの少年の不注意だったってわけ?」
「いえ、そうではなさそうでしたわ」
リーナの説明によると、少年──ティロが店で雑用中、外の騒ぎに気づき出ていくと、積み上げていた木箱が燃えていた。慌ててバケツを取りに戻り、消火したのだという。木箱の中身は穀物で、火の気があるものではなかったらしい。
「──どう考えてもあの女でしょ? 絶対ここ入るために火を付けた。他に考えらんないでしょ?」
シアンが溜め込んでいるものを吐き出すように捲し立てた。
ザックとリーナが困った表情で顔を見合わせ、しばしの沈黙──
「……あの女性が絡むと途端に感情的になられますわね」
リーナはわずかに唇を歪めて、腕を組んだまま首を傾げた。
「感情的に……なってる?」
シアンは言葉を止め、眉間に皺を寄せて考え込む。
「ああ……そうかもしんない。姐さんがそう思うってことは、そうなんだろう」彼は首を回して緊張をほぐし、ふぅとひと息吐く。「ちょっと外、歩いてくる」
そう言ってリーナの脇をすり抜け、昼なお薄暗い徒花横丁へと出ていく。
「……余計なこと申しましたね」リーナがその後ろ姿を見送りながら呟く。
「そんなことないよ。あいつが勝手にこじれてるだけなんだから」
ザックは、ため息を煙と一緒に吐き出した。
またしばらく沈黙が煙と共に空間を満たす。
「……そういえば姐さん、なんか用事があって来たんじゃ?」
「あら、嫌です。すっかり忘れておりましたわ」おほほ、とリーナが手を口に当てて笑う。
彼女はふと周りを見回し、──周囲に人がいないのを確認して、声をひそめた。
「一つ思い出したことがありまして、ね」
その夜、ザックとシアンは、<ギブン>ではない、徒花横丁でもない、とある酒場にやってきた。シアンは普段あまり持ち歩かない長剣を左腰に吊っている。リーナに持っていくように言われたのだ。店内には、四角い木製のテーブルが三つ、粗末な椅子と共に並んでいる。
二人は入り口から一番近い席に向かい合って座った。
店の奥で、床のブラシがけをしていた子供のような下男がちらっと二人に目をやる。
「……いらっしゃい。二人かい?」
カウンター奥から、陰気な中年の店主が声をかけてくる。
「ええ、二人です」ザックが応じる。「“鳩”を探しています」
店主の顔色がわずかに変わったのをシアンは見逃さなかった。
──鳩?
シアンも実はなんのためにここにやって来て、ザックがこんなことを言っているのかよくわかっていなかった。
気分転換に行った公衆浴場から帰ると、リーナはすでにおらず、ザックに剣持参で付き合ってくれと頼まれたのだ。理由を尋ねれば当然教えてくれただろうが、なんとなく聞けないまま現地まで来てしまった。
「……“鳩”ってあの“鳩”のこと、ですよね?」
「うん、そう。ここでそう言えば紹介してもらえるって聞いたけど、違った?」
──この二人は一体何を言っているんだ?
シアンはそう思いながら、黙ってやり取りを見守る。
店主が下男のほうを向き、顎で合図を送る。
下男は頷き、モップを立てかけて裏口へ消えた。
「すぐにあいつが呼んで来ますんで。飲み物でもどうぞ」
店主はそう言った。
「じゃあ、麦酒を瓶で二本。念のため、封は開けずに。悪く思わないでくださいね」
ザックの声は静かで、けれどどこか緊張を孕んでいる。
店主は、やれやれという顔をしながら、瓶を二本取り出した。
「鳩」は裏口からそろりと姿を現した
背は高いが線が細い。背筋はまっすぐに見えるが、力は抜けている。脱力したまま、歩いてくる。
年齢は三十代後半──ザックと同じくらいか。髪は肩にかかる程度。黒く、くせ毛。服はくすんだ色でだぼっとしている。どこか掴みどころのない印象。
「こんばんは。“鳩”です」
「鳩」は息を吐き出すようにそう言うと、空いている席に無造作に腰を下ろした。
「やあ、急に呼び出してすまないね」ザックが「鳩」のほうを向いて言う。「俺たちは……徒花横丁のなんでも屋って言ったらわかるかな?」
「ああ……」
「鳩」のその「ああ」はどういう「ああ」なのかシアンには掴みきれなかった。
「誰の紹介です?」
「青いリンゴ……」
「ああ……」今度はさっきより明瞭な「ああ」であった。「彼女ね。元気ですか?」
「うん、元気だよ」
「お店やってるんですよね……俺も行こうと思ってるのに、全然行けてないや」
「鳩」は、ひとりごとのようにぼそぼそとつぶやく。
「あ、マスター、俺も麦酒ちょうだい」
下男が瓶を持ってきて、鳩の前にそっと置いた。
「なんでも屋として、いや、正確にはまだ個人的、だけど」ザックがシアンのほうをちらっと見やってから続ける。「ある依頼を受けて調べてるんだけど、青いリンゴ……にそういう情報はあんたが詳しいって聞いてきた」
「鳩」は瓶を口につけながら話を聞いている。
「……そちらの人は用心棒?」「鳩」はシアンを見もせずに尋ねる。「……相当できそうだね。……で、どんな話?」
ザックが店主と下男に視線を向ける。
「ああ、大丈夫。この店の人はさ。他にお客が来たら、場所変えよう」
「わかった」ザックは小さく頷く。「あと、彼は用心棒じゃない。大事な相棒だ」
「おっと、失礼したね」「鳩」は、ふっと肩の力を抜き、軽く頭を下げた。
「マルケラっていう女を探している」ザックが本題を切り出す。「夜の仕事をしていた女だけど、一週間ほど前から行方が知れない。依頼人は商売仲間」
「鳩」は麦酒の瓶を手に天井を見上げて、しばらく黙す──
「……それって、ダバス地区の話?」
「そう」ザックがにやりと笑う。「さすがだね。情報売ってもらえます?」
「さすがなのは彼女だと思うよ。あの事件を、俺の情報網と絡めてくるなんてさ。なんていうか、もうたぶん、彼女は……わかってるんだろうねぇ」
「鳩」はぼおっとした視線で、店内を見回す。
しばらくして、我に返った「鳩」から具体的な金額の提示があった。ザックは黙って満額を硬貨で机の上にそっと置く。「鳩」はそれを仕舞うこともなく、口を開く。
「結論から言うとさ、帝国軍の諜報部隊の仕業だよ。それも正規じゃなくて、非公式の連中……まあ、裏でちょこちょこやってるやつらだね」
ザックは無言で小さく頷き、先を促す。
「そいつらがさ、先週……くらいかな? ダバス地区の女の子、ふたりさらったって聞いたんだよ。そのうちのひとりがさっき言ってた……なんだっけな?」
「マルケラ」ザックが補足を入れる。
「そうそう、そのマルケラって言ってたな。で、もう一人が……アンジュって言ったかな」
ザックとシアンは、顔を見合わせた。
「鳩」とは店で別れた。
ザックとシアンは徒花横丁への帰路に着いていた。夜風が夏の終わりの気配を感じさせる。通りの街灯が揺れるたび、影が二人の足元に微かに伸びた。
「これで全貌が見えたね」
ザックが小さく呟く。声に含まれるのは、ほんの少しの安堵と、先を思う慎重さ。
「あとは、誰がエンディングまでの台本を書くか、だよね?」
シアンが肩越しに視線を向ける。微かに、口角が緩む。
「お前さん、書いてみる?」
ザックの目が笑っている。だが、先ほどの「鳩」との対話中の緊張も感じられる。
「ご冗談を」シアンの顔が引きつる。「詩は書けても話は無理」
「だよね。となると──」
「あ、でも、報酬はちゃんといただけるようなお話にしてほしい。これって勝手でしょうか?」
シアンの言葉にザックはくくく、と喉の奥で笑う。
「で、この話は正式に“なんでも屋”として、受けていいんだな?」
ザックの視線は、まっすぐシアンの顔を捉えていた。
シアンは小さく顔を引き締めて、こくんと頷く。背筋を伸ばすが、微かに肩が緊張しているのを自覚する。
「あ、また勝手言いますが、できるだけ、依頼人と俺が絡まない設定、希望します」
「……台本、自分で書きなさい」
ザックの短い一言に、シアンは顔を顰める。
二人の影が夜の帝都の石畳に伸びる。風が二人の間を通り抜け、言葉にしなかった感情まで、ひそやかにさらっていった。
アンジュの心境は、複雑であった。頭と気持ちが整理できず、彼女はこの日仕事を放棄して帰宅していた。
ザックが彼女の仕事場──夜の街角に現れた。依頼を正式に引き受けるという。普通に考えれば喜ばしいことだ。
しかも明日、すべて解決すると言った。報酬の半分を、明日の夕刻、あの酒場──<ギブン>に持って来いという。
一体どうなっているのだろう。アンジュの思考が追いつかない。
彼女は──騙していたのだ。
マルケラを人質に取られ、あの男たちに脅されて、予定通り行動させるはずだった。
そして、しかるべきタイミングで彼らからの指示を受け、マルケラの居場所を伝え、罠にかける。
だが、今回、すべては彼らのほうから動き出した。しかも、すべて解決すると言うのだ。
「すべて」とは何を意味するのか。彼らは何をしようというのか。
依頼人として、アンジュから、ザックの申し出を断ることは当然できない。驚いた顔をしてしまったが、感謝を述べ、明日の夕方、あの店に報酬の半分を持って行くと伝えた。
何が起こるのだろう。
まずはあの男たちに状況を説明し、必要な報酬額を受け取り、必要なら指示を仰ぐつもりだ。
そして何より大事なのは、マルケラの命と安全──あの子は、あたしが守る。
アンジュは、心の中でそう誓う。
ただ、もうひとつ心に引っかかっていることがあった。
あの店で会った三人──無愛想な若い男はさておき、ザックとリーナ──
あの二人とは、少し心を通わせすぎたかもしれなかった。
アンジュは自分の胸を押さえ、深く息をついた。
思考を整理するため、アンジュはゆっくりと目を閉じた。
扉がゆっくり開き、夕刻の橙色が店内の埃混じりの空気に溶け込む。入ってきたのはアンジュだ。
リーナが目だけで合図をする。ザックはカウンターに座ったまま顔だけ向けた。
アンジュはひと呼吸おいて、扉を閉め、つかつかと店内に入ってきて、ザックの隣に座った。
「すべて」彼女は言葉を慎重に選んでいるようであった。「本当にすべて解決するのよね?」
ザックがアンジュの目を見つめる。赤い。泣いたのか、寝不足か。
「……ああ」
十分に間を取ってザックが答える。
アンジュが肩にかけていた革鞄から硬貨の入った布袋を取り出してカウンターに置く。ザックがそれを手に取る。ずしりと重い。中身は確認せず、立ち上がってそのままリーナに手渡す。
「じゃあ、行くよ」
ザックはそのまま扉に向かおうとする。
「待って」アンジュも立ち上がった。「何をしようとしてるの?」
それは思わず口にしてしまった言葉だった。
「何って?」ザックが立ち止まる。「もちろん、依頼に応える。それ以上の説明が必要?」
しばらくの静寂──
ザックが扉へと再び向かおうとしたとき──
「どこまで……」アンジュの声がわずかにかすれる。「どこまであんたたちは知ってるのよ?」
ザックがアンジュを振り返る。
「全部──」
呆然とするアンジュ。
「心配いらない。仕事は果たす。だから、安心して、ここで待ってて」
アンジュは崩れ落ちるように椅子に再び腰を下ろした。
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