徒花横丁、「なんでも屋」へようこそ!

桑葉 志遊 (クワバ シユウ)

Track.001「だからその手を離して」 scene.01


 帝都オルニスの朝は、いつだって騒がしい──誰も望んでいないのに、勝手に始まるのが一日の常だ。

 それは、帝都中の街区ごとに立ち並ぶ教会による決まりきった鐘の音だったり、街を行き交う住民の足跡や話し声だったり、露天商が商売の準備をする音だったりするが、この日ばかりはいつもの朝の中にノイズが混じっていた。

 湿った石畳の向こう、徒花横丁の南端──ちょうど壊れかけの石造りのアーチをくぐったあたりから、金属が弾けるような鋭い音と、低く怒鳴る声が、朝の空気を裂いて届いてきた。

 シアンは、どこかから拾われてきたような場違いな豪奢さのある寝椅子に横たわりながらその音を聞いたが、すぐには立ち上がらない。特別なことではない。興味、というものを抱くには、あまりにもこの街は騒がしすぎる。

 静寂の方がむしろ不自然。それが、ここでは常識だった。

「また騒ぎか。飽きないね、この街も」

 ザックがそう言って、卓にあったカップを片手で持ち上げた。彼の作る珈琲は濃すぎるが、その苦味は、酔いと怠惰がまだしぶとく残るこの街の朝によく似合っていた。

 いつ積み上げられたのかもわからない、継ぎ接ぎだらけの石造りの長屋が肩を寄せ合う路地裏。その一角で、彼らは「なんでも屋」を稼業にしていた。「なんでも屋」という名前はいつしか路地に染みついたもので、誰が言い出したかは、もう覚えていない。それは、彼らにとってどうでもいいことだった。

「見に行くか?」

 そう言ったのはザックだったが、それは提案というより、むしろ報告に近かった。

 騒ぎがあるなら、誰もが見に行く。見て、確かめて、そして黙って引き返す。それがこの横丁の流儀である。

 シアンは、すっと、立ち上がった。彼の動作は無駄がなく、静かさの中に、どこか刃のような緊張があった。

 言葉はなかったが、それが返答であり、二人の間には、それ以上のやりとりは必要なかった。


 徒花横丁──帝都の地図にすら正確には載らないこの路地は、記録されないものばかりを抱えていた。

 いつ崩れてもおかしくない石壁が、ぎりぎりのバランスで支え合っている。一日中絶えることのない酔客とアルコール臭。肉を焼く煙とタバコの煙が混じり合い、誰にも読まれず、湿気と汚れで文字を失った紙片が、足元を這うように風に追われていく。猫とネズミは互いに何かを警戒しながら、それでもこの場所に棲みついている。どうやって生計を立てているのか見当もつかない、無数の住人たちも同様だ。

 無数の“徒花”が絡みつき、腐りもせず、咲き誇りもせず、ただ混沌と、濁った安定だけが支配する帝都の路地裏──それが、徒花横丁である。

 この日の騒ぎもまた、クリオザ商店の配達人ティロが「何かを持ち込んだ」のが原因だった。

 それは珍しいことではない。彼は以前にも、同じような問題を何度か起こしている。正確に言えば、彼が原因ではなく、彼が何かを「持ってくること」によって起こる事象である。たとえば先月は、焼き印入りの偽造貨幣をうっかり配達してきた。本人は「石かと思った」と言っていた。

 クリオザ商店──雑貨と酒と薬草を扱う、あるいは、扱っているように見える店だ。その分類には少々曖昧さがあったし、店主自身が気にしている様子もなかった。

 「便利すぎる店」──ややもすると怪しげな雰囲気が漂う店である。ただ、横丁の住人たちは、困ったときにはまずここ、ということになっており、それは、選択肢が少ないからというより、思考を省略する役目として機能していた。

 つまり、選ぶのではなく、慣習的に決まっている、というだけのことだった。

 ティロは小さな荷車を引いていた。中身は布にくるまれていて見えない。だが横丁の連中は、その布の下にこそ問題があることを知っていた。

 荷車が、ただでさえ偏狭な徒花横丁の、さらに細い脇道を抜けかけたときだった。数人の男たちが、路地の陰から突如飛び出し、荷車に目をつけた。脈絡はなかったが、あるいは、それがこの横丁なりの脈絡だったのかもしれない。

 騒ぎを聞きつけたこの横丁の住人たちも駆けつけ、気づけば十人を超える乱闘になっていた。

 ティロは乱闘を一瞥し、あくびを噛み殺した。彼にとっては、これもまた業務の一部だった。運ぶのが仕事、守るのは他人事だと割り切っている。そちらは、同行する多少頼りない用心棒と荒事好きなこの横丁の住人たちに任せておけばいい。

「まぁ……朝から元気でございますね。これからわたくし、寝るところでございますのよ」

 屋台の陰からリーナが顔を出した。艶やかな声とともに、口元にはいつものように笑みを浮かべている。乱闘の喧騒にも怯む様子はなく、その場の空気をむしろ楽しんでいるようだった。

 長いまつ毛が影をつくる顔は、色白ではあるが、不健康さは感じさせない。丸く整えられた髪は、徒花横丁にほんのわずか差し込む朝日すら吸い込むかのように黒い。彼女は、夜のほうが映える顔立ちをしていたが、朝の路地に立つその姿は、それはそれで、どこか現実感を欠いていた。

 着ているのは、客を迎えるには華美すぎず、だが路地に立つには目立ちすぎる──そのどこかちぐはぐなドレスも、彼女の身体にかかれば妙な調和を得ていて、喧騒の中心にいながら、どこか別の時間に属しているようだった。只者ではない、という言葉がしっくりくる。

 乱闘はますます熱を帯びていた。怒声、罵声、そして乾いた笑い声。それらの音が混ざり合い、振動は、まるで気圧の変化のように、空間にしつこく残っていた。

 だが、ふたりの男が現れたとき、その音響にはわずかな変調が生じた。明確な理由はない。ただ、群れの中に、計測不能な要素が紛れたような、そんな違和感だった。

 最初に静けさをもたらしたのは、ザックのほうだった。

 白に近い金髪の男は、その場で足を止めた。肩まで届く髪が、横丁に染みついた湿っぽい風に揺れていた。蒸し暑さを孕んだ、重たい風だった。

 まるで、この日の座席をすでに選び終えていた観客のように、乱闘の展開をただ観察している。

 黒い硝子が嵌った丸眼鏡が、彼の目を隠している。その奥にある意図は読めない。それは、決まっていないようにも見えた。あるいは、本当にまだ決まっていないのかもしれない。

 やや遅れて、もう一人の男が姿を見せた。

 シアンだ。彼は歩いていた。走っても、急いでもいなかった。ただ、歩いていた。それだけのはずだった。にもかかわらず、その静けさが、乱雑に積もった空気を、逆に強張らせた。

 派手な開襟シャツには、赤と黒のまだら模様が、炎のように散っていた。

 袖は短く、胸元のボタンは留められていない。開いた襟元からのぞく上半身は、華奢でありながら、線が締まっていた。

 シャツの裾は、片方だけラフにズボンへ押し込まれており、まるで途中で着替えをやめたような印象すらある。それでも様になっている。

 髪は、肩に触れるか触れないかという曖昧な長さだった。汗に濡れているように見える黒髪だが、実際には乾いていた。

 彫りの深い顔立ちには、どこか野生の気配があった。整っている。だが、作り物のような均整ではなく、あくまで人間味を残した荒削りな美しさだ。

 無精髭はなかったが、もしあっても似合っただろう。頬のあたりの影が、そう思わせた。

 目は、何も見ていないようでいて、たいていのことを見逃さなかった。

 そういう目を持つ人間は、確かに存在する。

 ザックが視線を向ける。シアンは応えない。ただ、その場に“加わる”というより、“引き算する”かのように、喧騒の一部を削っていく。

 乱闘に気づいた男たちが一瞬、動きを止める。それは脅威に対する反射ではなく、理解を超えた存在に対する、本能的な“間”だった。

 リーナはその様子を、屋台の陰から眺めていた。頬に手を当て、小さく微笑む。

「まぁ、今日もお早いことで」

 リーナが、まるで昨日の続きのような声音で、ふたりに声をかけた。

 その声音には、挨拶よりも観察の意味合いが強く含まれていた。彼女は人に話すとき、いつもまず相手の〈状態〉を確認する。

(──ふふ。どうやら、今朝も相変わらずのご様子だこと)

 シアンは答えなかった。というより、聞こえていないようにも見えたし、あえて反応しない選択をしているようにも思えた。

 代わりにザックが、少しだけ肩をすくめて言った。

「姐さん、相変わらずいい席押さえてるな。まさか俺らの出番、待ってたの?」

 リーナは、指先で顎を支えて微笑んだ。

「ええ。幕が上がらない芝居ほど、退屈なものはございませんわ」 

 セリフとは裏腹に、その目は一瞬たりともシアンとザックから外れていなかった。

ザックは、黒い眼鏡の奥でゆっくりと瞬きを一つして、そのまま顔を上げる。リーナと正面から視線を合わせたわけではない。だが、あえて合わせないという演出として、十分すぎる余韻を持っていた。

「芝居なら、台本があれば助かるんだけどね。作者の気まぐれで、脇役が殺されることもあるし」

 しゃがれた声は、抑揚がなかった。まるで誰に言うでもなく、空気に語っているようであった。

「そもそも俺は裏方で、照明の当たらない側で生きていたいんだけどね」

 リーナは顎に添えていた指を、静かに唇へ移す。笑いを抑える仕草とも、口外しない何かを抱えるようにも見えた。

「即興劇のほうが、観客の反応は素直ですのよ。たまには裏方さんも舞台に上がってみてもよろしいのじゃございませんか」

 ザックはわずかに唇を歪めた。笑ったのか、あるいは吐き捨てたのか、判別のつかない表情だった。

 乱闘に割って入ったわけではない。シアンとザックは、あくまで〈そこにいた〉だけだった。

 にもかかわらず、それだけで騒動の渦中にいる男たちの動きを鈍らせた。殴りかけた拳は目標をはずれ、振り回された鈍器の軌跡は行き先を見失ったように空を裂いた。

 それは緊張でも、沈黙でもない──<転調>だった。

 一人が、シアンの肩を突こうと、一歩踏み込んだ。

 それは「闘う」というより「自衛」の延長に近い。空気が変わったことで、逆に焦りを生んだのだろう。自分が攻撃の標的にされる前に、何か行動を起こさねばならない──そういう、本能的な反射だ。

 次の瞬間、その男は、無様に姿勢を崩して石畳に倒れ込んだ。

 男には状況が把握できない。

 なにか仕掛けられたようには見えなかった。シアンは一歩、横にずれただけ。その動きが、すべてのバランスを狂わせた。

 踏み込んだと同時に足首を払われたのか、はたまた自分で転倒したのか、男自身にも判断がつかなかった。

 その直後、二人目が叫び声を上げながら突っ込んできた。男が拳を振り上げた瞬間、その右腕はシアンの手に絡め取られたように外へ押し流された。

 無防備になっていた背後からシアンの右手が、そっと腰に触れた──それだけで、男は軸を失い、無抵抗のまま、仲間の上に崩れ落ちた。 

 三人目は、さすがに慎重だった。

 仲間が二人続けて無抵抗のまま崩れたのを見て、軽率に動けば自分も同じ末路を辿ると理解したのだろう。

 彼はじりじりと距離を詰めながら、シアンの上半身に目を凝らした。武器は──持っていない。自分の握るナイフなら簡単に突き立てることができるように思える。

 シアンは、ただ静かにその視線を受け止めていた。動かない。構えない。呼吸すら乱れない。ただ、男の目を見据えた。

 まるで、憐れむかのような視線だった。

 男の喉は無意識に鳴っていた。

 この距離なら、飛びかかれば倒せるかもしれない──だが、その「かもしれない」が、やけに遠い。

 踏み出せば何かを失う気がした。腕か、脚か、それとも……命そのものか。

 一歩、シアンが踏み出した。

 ただ、それだけだった。拳を握らず、肩を揺らさず、風すら巻き起こさぬ、たった一歩。

 男は咄嗟に下がり、脚がもつれてしりもちをついた。

 握りしめていたナイフの刃先がシアンを向くことは、最後までなかった。

 ナイフは宙を舞い、石畳に乾いた音を立てて落ちた。

 シアンの右足が地を蹴っていた。いつの間にか、その距離にいた。その足は、気配すら残さず、元の場所に戻っていた。

 シアンは、なにも言わない。ただ、その場を動かぬ意志だけが、空気を変えた。

 やがて男は、短く息を吐き、肩を落とした。

 手を上げることもなく、ただ石畳に腰を抜かしたまま動かなくなった。降伏というより、心を折られた敗者だった。

 シアンは何も言わず、ゆっくりと背を向けた。

 その背には、勝利の影もなかった。ただ、何も起きなかったかのように。

 対照的に、ザックの対応はもっと雑だった。

 彼のそばにいた男が、怒鳴り声をあげながら鉄の棒のようなものを振るう。だが、その初動が遅い。

 ザックは黒い眼鏡の奥から無表情でそれを見ていた。

 そして、振り下ろされる直前に、その武器を持つ手首を掴み、ねじる。

 何の演出もない、手続きのような動作だった。

 「カチッ」と関節が軋む音がしたかと思うと、次の瞬間には、男の腕は逆方向に跳ね返り、自分の肩口に鈍器を叩きつけていた。

 制御を失った腕を、痛みが駆け抜ける。呻いた男が膝をつく。

 最後の一人は、そんな様子を見て逃げようとした。が──

 ザックは逃げ腰のその襟首を、まるで宙を舞う紙片を摘むような軽さで掴んだ。

「そんなに急ぐなよ。幕はまだ下りちゃいない」

 耳打ちするような声。

 そのまま、男の背中をそばの石壁に向けて軽く押す。男の膝が抜け、身体はぐにゃりと沈んだ。だが、完全に崩れず、壁にもたれかかるように立ったまま震えていた。

 ザックは男の襟首を手の甲で払うように離し、ポケットから煙草を取り出した。

 火をつけると、黒い眼鏡の奥で炎がちらりと揺れる。

 吸うでもなく、ただ煙をくゆらせる。──そして、小さくため息をついた。

 ほんのわずかに緩んだザックの頬筋を、リーナは見逃さない。

 リーナはゆるく手を叩いた。

「まあ素敵なお芝居だこと。演目名は?」

 リーナがそう言うと、ザックは煙草をくわえ、眉をひとつ上げた。

「即興──演出家もいない」

「ふうん。じゃああたしが名づけてあげようかね」

 リーナもドレスから煙草を抜き出し、くゆらせながらにやりと笑う──「“物言わぬ騎士とその従者”なんてのはどうだい」

「物言わぬ……?」

 ザックは煙草を口の端に寄せたまま、小さく鼻を鳴らした。

「じゃあ、そいつは俺じゃないな」

 ザックは肩をすくめると、それを横に持ち替え、わざとらしく一息つく。濁った煙が、路地の闇にまぎれていく。

 その向こう、シアンがゆっくりと背を向ける。あらゆる気配を拒むように、無言で歩き去ろうとしていた。

「……ふふ。お客さんがいると、急に無口になるんだから」

 リーナは煙草を軽く持ち直し、その火の先をシアンに向けた。

「ほんとは、喉に言葉を詰まらせてる」

 へたり込んだ男──ティロにザックが右手を差し述べて立ち上がらせてやる。

「今日は何が原因?」

 乱闘が収束したあと、ティロは石畳の縁にへたり込んでいた。顔色は悪い。吐く寸前のような顔だったが、言葉のほうが先にこぼれた。

「……ほんと、助かったよ……あいつら、どこから湧いたのか分かんねぇ」

 ザックはしゃがみ込むと、傾いたままの荷車に手をかけた。

「これ、配達?」

「そうだよ、南門の骨董屋まで……いつもは問題ないんだけど」

 ザックが荷台をちらりと覗いた。古布に包まれた小箱がいくつも積まれていた。そのひとつが、転倒の拍子に破れ、中から硬質な金属片が転がり出ている。

親指ほどの大きさ、くすんだ銀色。どこにも刻印はなく、両端に小さな突起がある。

「……何かの部品か? でも、こんな規格は知らないな」

 ザックが拾い上げて指でつまんでさまざまな角度から観察する。この時代に流通している部品には見えなかった。──少なくとも、正規の経路で出回るものではない。

「……この箱、配達分には入ってた?」

「え……?」

 ティロが顔を上げ、数秒、無言でそれを観察し、それから勢いよく首を横に振った。

「いや……こんなの、知らない。俺、こんなの見たことない。これ、骨董屋に渡す品じゃないと思う」

「じゃあ、どうしてここに紛れていた?」

 ザックが静かに言った。問うようでいて、断定するような声だった。ティロは答えなかった。ただ、目を逸らすことなく金属片を見つめていた。

「もしかして、それがさっきのお芝居の切符だったんじゃございませんか?」

 二人のやりとりをすぐそばで眺めていたリーナが覗き込む。

「可能性はある。あるいは、それ以外にも何かがあったか。だがまあ、今は確かめようがないな」

 ザックは石畳に煙草を投げ捨て、足で揉み消した。

 遠くで猫が鳴いた。

「念のため、持ち帰る。あとは、お前の荷車を片付けて帰るんだな」

 ティロは、ゆっくりと頷いた。乱闘には進んで加わりたがるこの横丁の住人たちは片づけには興味がないようで、誰もが持ち場に帰るように散っていった。

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