第一話 冥府の入り口
——落ちていた。
光も音もない。ただ沈黙だけが重くのしかかっていた。
心の奥に石が沈むように、抗えない浮遊感が体を引きずり込む。
意識が輪郭を取り戻したとき、神崎イサナは硬い地面に倒れていた。
目を開く。そこに広がっていたのは、ほんの数分前までいた京都の街ではない。
——無数の墓石。
石塔が乾いた規則性で並び、冷たい風が石と土と枯れ花の匂いを運んでくる。
喧騒も人影も消え失せ、あるのは死と静寂だけだった。
(こんな場所、京都にあったか……?)
脳裏に「鳥辺野」の名が浮かぶ。かつて死者を送ったという東の墓所。
だが、目の前の光景は違いすぎた。空は血のような赤に染まり、影は呼吸するように蠢いている。
「……冗談だろ」
思わず後ずさったそのとき、墓石の影に白布を纏った存在が立っていた。
風が布をめくり、虚ろな眼窩と白骨の顔がのぞく。
声も出ない。心臓の鼓動だけが耳に響いた。
(……なんだ、これ……)
その瞬間——。
「おい、そこのお前!」
背後から怒声が落ちた。振り返ると、牛の頭を持つ異形。鉄の鎧をまとい、赤い瞳を燃やす巨体。
「生者だな。なぜ地獄にいる」
神崎は言葉を探す間もなく一歩退いた。
「……迷い込んだか。ならば連行する」
「ま、待って、それって……!」
本能が叫んだ。逃げろ、と。
「待てッ!」
怒声を背に、神崎は闇の中を駆け出した。墓石を飛び越え、崩れた石段を滑り降りる。
足音も息も現実感を欠き、夢の中を走っているようだった。
視界の先に川が開ける。
漆黒の水が流れもせず広がっている。
三途の川——その言葉が脳裏をよぎる。
前は渡れない川。後ろには迫る追跡者。逃げ場はない。
そのとき、背後の空間が音もなくねじれた。
光が裂け、空気が反転する。
視界が、黒に飲まれた。
——意識が戻るのは、水面を破って浮上するような感覚だった。
静寂。さっきまでの怒声も、血のような空も消えている。
目を開ける。そこにあったのは、ひとつの巨大な門だった。
黒漆を流したような光沢。歪む文様。
それは異様だが、混沌ではなく「造られた秩序」の匂いを放っていた。
横木に刻まれた古びた金文字。
——冥府庁。
その不穏な響きに神崎は眉をひそめる。
死と制度。霊界と行政。結びついてはいけないものが並んでいる。
(……俺、まだ生きてるよな?)
掌を握る。確かな温度があった。
しかし空気の密度は、明らかにこの世ではない。
門の根元、柱の影に人影があった。
紺の制服を着た青年が、ファイルを枕にスマホをいじっている。
異界の門番——のはずなのに。
姿は、コンビニ前で時間を潰してる大学の友達にそっくりだった。
気づいた瞬間、神崎の緊張がわずかに緩む。
ここが冥府であることを一瞬だけ忘れそうになる。
「……あの、すみません」
声をかけると、青年はびくっと肩を跳ねさせて立ち上がった。
「うわっ……! 誰だよ……って、生きてる!? マジか、マニュアルに載ってねえんだけど!」
「そ、そうなんだよ! 俺だって死んだ覚えはないし、なんでここにいるのか分からないんだってば! ただ追われて、必死で逃げてきただけで……!」
「マジか……いや、でもそんなこと言われても……」
「お願いだ、中に入れてくれよ」
「いやいや、無理だって! ここは“死んだ奴”が来る場所なんだよ。生きてる奴は基本お断り! 前代未聞だっての!」
「……で、でも戻ったら本当に死ぬ! さっきも、牛の頭をした怪物に捕まりかけたし……」
青ざめながら懇願する神崎を見て、青年は頭を掻き、しぶい顔をした。
「あー、もう。わかったわかった。俺、こういうの放っとけない性格なんだよな」
「えっ、入れてくれるの?」
「……お前、なんか昔のダチに似てんだよ。必死な顔とか。だから余計ムカつくけど、なんか無視できねえ」
深いため息をつき、門の取っ手に手をかけた。
「こんなのバレたら、マジで俺の首が飛ぶんだぞ。うちの上司、ガチで怖いんだから」
ぎい、と音が鳴り、門がゆっくりと開いていく。
「……絶対誰にも言うなよ。俺が開けたなんて忘れとけよ」
「……ありがとう。絶対言わない。墓まで持っていく」
「だからその言い回しがフラグ臭いっての!」
押人はあきれ顔で笑った。
「俺は春日押人。ここの門番って言うか守衛のバイトみたいなもんだ。……入れよ」
「押人、くんか。ありがとう! 命の恩人だよ!」
神崎が笑うと、押人は手で追い払う仕草をした。
「ったく……そういうのいいから、早く行けって」
その素っ気ない言葉とは裏腹に、彼の目にはわずかに悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「……中の空気、外より重いぞ。気をつけろ」
その言葉に背中を押されるようにして、神崎は冥府庁の門を踏み越えた。
その一歩が、この世とあの世の境界に広がる制度の迷宮へと繋がっていることを——神崎はまだ知らない。
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