第32話 散歩
広大な敷地をスヴェンはエミールのリードを握り、淡々と歩みを進める。風が木々を揺らし、遠くには草原が広がる。ここはスヴェンの所有する土地の一部であり、まるで一つの小さな王国のように感じられる。
エミールは四つん這いのまま、スヴェンに引かれてその後を追う。出かける際、手足にはブーツのようなものを履かされた。四足とも同じデザインだったため、四足歩行が強調されるようで嫌だった。彼の腕や脚はすでに疲れ切っている。だが、スヴェンのペースは一向に緩まない。まるでエミールが疲れることなど考えていないかのように、リードを引っ張り続けている。首輪がぐいぐいと食い込んで意識が飛びそうになる。
「ほら、遅れるなよ、エミール」
スヴェンが振り返りもせずに言う。その声は穏やかだが、どこか命令的で冷たさを感じさせる。
エミールは「ワン」と唸るように返事をし、必死にスヴェンのペースに合わせようとする。しかし、四つん這いの姿勢ではどうしても速度が出ない。額には汗が滲み、呼吸も荒くなってきている。
しかし止まってしまえば罰が与えられることなどわかりきっている。
「疲れたか?」
スヴェンがふいに立ち止まり、後ろを振り返る。エミールはその言葉に顔を上げ、息を切らしながら「ワン」と一声だけ応える。
スヴェンは軽く笑みを浮かべる。
「おいおい、まだ半分も来てないぞ。お前がそんなに弱いとは思わなかったな」
と、スヴェンが言い放つ。その言葉にエミールが反論する術はない。
「まあ、頑張れよ。俺のペットとして情けない姿を見せるな」
スヴェンはまたリードを引き、先へと進む。エミールは心の中で何度も愚痴をこぼしながらも、なんとか前に進み続ける。地面の感触がブーツ越しに手のひらに伝わり、草の匂いが鼻腔をくすぐる。だが、その自然の風景も彼には重荷にしか感じられない。
時折、スヴェンは意地悪そうに歩調を速め、エミールがついてこられるか試す。エミールはその度にバランスを崩しそうになるが、必死に踏ん張る。四つん這いの姿勢では視界も限られ、スヴェンの足元だけが映る。そのたびに胸の奥が痛む。
「どうだ、エミール。お前もこの散歩を楽しんでいるか?」
スヴェンは半分振り返り、からかうように声をかける。
エミールは一瞬だけスヴェンの顔を見上げるが、すぐに視線を落とす。腕や膝の筋肉が悲鳴を上げ始め、呼吸も荒く、全身から汗が滴り落ちる。だが、スヴェンの足取りは止まる気配がない。
やがて、エミールの脚がもつれ、バランスを崩し、ついに地面に倒れ込む。瞬間、リードがぐっと張り、エミールの首元が強く引かれる。スヴェンはすぐにその感覚を感じ取り、足を止めて振り返る。
「もうくたびれたのか?」
スヴェンが冷たく声をかける。
エミールは返事をしようとするが咳き込むことしかできない。汗で濡れた前髪を振り払いながら、なんとかして体を起こそうとするが、体は言うことを聞かない。スヴェンの足元に這いつくばるような姿勢のまま、エミールは地面に倒れ伏して、荒い呼吸を繰り返している。
スヴェンは溜息をつき、眉をひそめつつも、どこか意地悪な笑みを浮かべている。
「仕方ねぇな……今日はここまでにしてやるか」
彼は片手でリードをくるくると巻き取りながら、エミールの近くにしゃがみ込み、腕をエミールの腰に回して持ち上げようとする。
「お前、重てぇな……」
スヴェンの腕には力がこもるが、エミールの身長はスヴェンとほぼ同じくらいであり、彼が簡単に持ち上げるにはやや厳しいものがある。
「くっ……全く手間のかかる奴だ」
スヴェンは小声で呟きながら、再度力を込めてエミールを持ち上げる。エミールの背中がスヴェンの腕に当たり、その重さがずしりと感じられる。スヴェンは足元をしっかりと踏ん張りながら、重いエミールを胸に押し当て、力を入れて立ち上がる。
スヴェンは少し息を切らしながら、エミールを抱えたまま前を向く。彼の腕には緊張が走り、エミールをしっかりと支え続けるのにかなりの力が必要だ。しかし、スヴェンは意地でもその手を緩めることなく、しっかりとエミールを抱え続ける。
スヴェンはエミールの重さに負けないように、呼吸を整えながらゆっくりと歩き始める。
「次はちゃんと歩けよ……このままじゃ、毎回こうなるからな」
エミールが息を整えていると、ふと過去の記憶がよみがえった。
まだ幼い頃、湖のほとりでの出来事だった。エミールは湖で遊んでいるうちに、突然足を滑らせて深みに落ちてしまった。水中で手足をばたつかせたが、息ができなくなり、もう終わりだと思った。だが、スヴェンの手が救い上げた。温かかった。
あの時も今も、スヴェンの体は温かい。
エミールは小さく笑ってみせた。スヴェンが不機嫌そうに眉をひそめた。
「何を笑ってるんだ。黙っていろ」
スヴェンは吐き捨てるように言い、リードをグッと引く。首元に圧力がかかり、エミールはきゅっと身をすくめた。
エミールはスヴェンの胸に顔を埋めるようにしながら、体力の回復を待つ。リードは彼の首輪にしっかりと繋がれたままで、スヴェンの手に確実に握られている。
◆
翌日の昼、リビングには痛々しいエミールの姿があった。ソファの上に横たわり、顔をしかめ、小さくうめく声が漏れ出す。全身が昨日の散歩のせいで悲鳴を上げていた。
特に腕や膝、太腿が酷く痛む。長距離を無理矢理四つん這いで歩かされたことで筋肉が張り、転んだときの衝撃がまだ残っている。どんな姿勢を取ろうとしても痛みが走り、エミールはぎこちなく呼吸して、だらりと腕を垂らしていた。
「ワン……」
と、声にならない自嘲が漏れる。それしか言えない自分が、情けなくてたまらない。
スヴェンはリビングの隅でスマートフォンを見ながら、ちらりとエミールを一瞥する。その視線には冷たく、いじわるそうな笑みが浮かんでいた。
「どうした? 昨日の散歩がきつかったか?」
エミールは応えたくても、痛みに縛られた体は動かない。スヴェンの問いかけが苛立たしく思えるが、反応する余裕すらなく、ただ息を整えるしかなかった。
「ほんと、情けねえな。ちょっとの運動でそんなになるなんて」
スヴェンのせせら笑いに、エミールは睨み返すが、体の痛みで何もできない。怒りを押し殺し、唇を強く結び、何とか堪える。
スヴェンはそんなエミールを見て目を細め、腕を組みながら言った。
「まあ、今日は大人しくしておけ」
スヴェンはリードを手に取り、その端をソファの近くのテーブルの脚にしっかりと結びつけた。
エミールはリードが固定された瞬間、無意識にそれを確認するように首を引き、テーブルの脚に繋がれたことを実感する。身動きが取れない状況に、苛立ちが胸をよぎったが、体を動かそうとするたびに筋肉痛の痛みが増す。無理に動くこともできず、彼は諦めたように首を垂れてうなだれる。
「今日は特別にここで休んでいていい」
スヴェンはエミールの頭を撫で、ソファにブランケットをかける。
「このくらいはしてやる。だが忘れるな、これはお前がペットだからだ。俺が許さなければ、こんな休みもないんだからな」
とささやき、彼の頬を軽く叩くように触れる。
エミールはその手を避けることもできず、ただわずかに首を動かすだけだ。リードに繋がれた自分の状況が、一層の無力感を感じさせた。
スヴェンの手が離れた後、彼はもう一度小さく「ワン」と鳴き、体を痛みから守るようにソファの上で縮こまる。
スヴェンは一歩後ろに下がり、まるで慈しみを持ったように目を細める。
「まぁ、しっかり休んでおけ。次の散歩では、もっと元気な姿を見せてもらうからな」と笑いながらその場を離れる。エミールは顔をしかめるが、ただ痛みに耐えるため、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
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