おはよ

中本則夫

1. 新手の当たり屋

 日付が変わるころから降り始めた雪は、ぼんやり眺めているうちにどんどん勢いを増していった。道路も近くの家々も現場監督の車のボンネットも白い雪で覆われていく。

(すごいなー)

 雪の勢いに他人事のように感じ入りながら拓司はふと、妙にヘルメットが重いことに気づき、首を傾けた。


 バサッ、とヘルメットに積もっていた雪が足元に落ちる。

 驚いてよく見ると、両肩にも雪が積もり、足はくるぶしまで雪に埋まっているではないか。

(ひー、雪だるまになってしまう!)

 何度か小さくジャンプして、体に積もった雪をふるい落とした。

 しかし、彼はこの雪の午前2時、立ち続けなければならない。

 現在、道路工事の警備員アルバイトとして、制服とヘルメットを着用して勤務中だ。

 工事のために通行止めを行っているエリアの入り口に彼は立ち、進行して来た車に頭を下げて、赤く光る誘導棒で迂回路を示す。

 大雪が降ろうと、真夏の炎熱にさらされようと、警備員は決められた着任ポイントから動いてはならない。

 拓司はすでに27歳だった。同じ警備員仲間には、お笑い芸人や役者を目指しながらアルバイトとしてこの仕事に就いている者も多いが、彼の場合、将来の夢や、なりたい何かは別に無い。それでも、いま雪だるまにはなりたくない。彼はトントンと何度も小さくジャンプして雪を振るい落としながら、夜の雪の中を生き延びて終業時間である午前5時を迎えた。

 ヘルメットと誘導棒、腕章、安全反射ベストを、使い古したスポーツバッグにつめる。普段着に着替えることはせず、警備会社から貸し出された分厚くて重いコートに身を包んだまま、現場から最寄りの駅に向かう。

 歩きながらスマホで警備会社に勤務終了の連絡をした。雪の中で大変だったろう、と、少しおおげさな感謝とねぎらいの言葉が返ってきた。夜勤を終えた拓司は、このまま眠ることなく、次の日勤の現場に向かうことになっていた。勤務開始は3時間後の午前8時。年度末が近い今、現場の数が多く、警備員の人数も不足している。


 次の現場がある駒込まではJRで向かう。

 山手線の車内に一足踏み込むと、暖房が効いていて暖かい。

(オッホー!あったけ!)

 拓司は内心で感謝の叫びを上げ、いかに体が冷え切っているかを今ようやく知った。

(ありがたい。解凍されていく)

 午前5時半。山手線の車内は満員でこそ無いが、すでに座れる座席は少ない。彼は立ったまま暖房の温もりに身を委ねた。

 眠るわけにはいかないのでしっかり目を開けて、車内を眺める。出勤の人。夜勤明けの人。まだ小学生なのにこの時間から遠方の学校に向かう子供。酔って寝ている人。一晩遊んだ興奮がまだ冷めやらずはしゃいでいる二十代の集団。おはようの人、お疲れ様の人、おやすみの人、まだもう一軒いく人。

 彼は、自分はどの分類か考えた。お疲れ様、と言うにはまだ次の仕事が控えていているし、新たな一日のスタートではなく連勤の合間に過ぎない今はおはようの気分でもない。

 2駅だけ穏やかな時間を過ごして駒込駅で電車を降り、再び早朝の冷気に包まれる。駅のホームから空を見ると、夜の紺色はだいぶ上空に引き上げて、雑多なビル群の上に太陽の前ぶれであるうっすらピンク色の朝焼けが見えた。頬が冷たい。幻想的なピンクの空を見て、詩人なら詩句のひとつも浮かぶのだろう。凡人である拓司の場合は、数秒だけ、その美しさに胸の中で小さな感謝を捧げるに過ぎない。


 次の現場は駅から徒歩20分。7時半までに着けばよいから、今からまだ1時間以上余裕があった。マックでひと休みしよう。

 肩から下げていたスポーツバッグを大きく揺すってホームから駅へ向かう階段を降りようとした時、彼は初めて、階段を駆け上がってくる少女に気づいた。

 発車ベルは鳴り終わり山手線のドアは閉まろうとしている。少女はさらに加速して階段からホームに飛び出そうとした。拓司は体をひねって少女をかわしたはずだったが、スポーツバッグのことを計算していなかった。それは少女も同じで、拓司をかわして電車に駆け込むはずが、スポーツバッグに衝突した。

 何がどうからまったのか、少女がバッグにぶつかると同時に、バッグはするりと拓司の肩からはずれ、少女はバッグと共にホームの上で転倒した。拓司のほうはよろめいたものの階段の手すりにつかまって持ちこたえた。

 ドアは閉まり電車は去った。

 その中でスポーツバッグと共に倒れている少女。

 彼は一瞬ぼう然としてしまったが、すぐに少女に駆け寄った。

「あの、大丈夫?」

 少女もまた仰向けになったまましばらくぼう然としていた。声をかけられてハッと我に返り、

「あー、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 高速で3回謝って上半身を起こした。

 拓司は、将来の夢もなりたい何かも無いことに加え、27歳にして女性と手をつないだことすらなかった。こういう時にどうすればいいのか混乱の中で必死に思考しつつ、たぶんそうでなければならないのだろうと思い、起き上がろうとする少女にぎこちなく右手を差し出す。

 少女は差し出された手に気づくと、不審な目でちらっと拓司を見、その手をとらず立ち上がった。

 拓司はとってもらえなかった右手をゆらゆらと引き戻し、なぜかお腹にあてた。じわりと冷や汗が出る。

「け、けがしてないかな」

「すみませんでした!」

 少女は両手をひざに添えて深く頭を下げた。

「あ、きみ、なんか、変わった格好してるね」

「今のは私が悪かった、で、す・・・」

 少女は、業務用のコートに身を包んだ拓司がこわばった笑みを浮かべて自分を見つめていることに気づいた。警戒しながら少女も拓司の様子を観察する。ここまで会話はひとつも噛み合っていない。


 拓司が少女を見て「変わった格好をしてる」と言ったのは間違いではない。少女は確かに変わった格好をしていた。フードがついた黒いハーフローブに黒いスリムパンツ、赤茶色い革のロングブーツ。まるで魔法使いのコスプレだ。

「あっ!」

 少女は小さく叫んだ。振り返って、拓司のスポーツバッグのショルダーベルトとからまるように落ちていた1メートルほどの木の棒を拾い上げる。

 それを両手で持ち、顔に近づけて注意深く観察した。

「あーっ!」

 少女はあらためて叫んだ。

「ひびが入ってる・・・」

 拓司は、何かまずいことになってきたのを感じながら、数歩あるいて自分のバッグを拾い上げた。

 少女は、両手で棒を握りしめ、それをじっと見つめながら固まっていた。

「大事なものなの?」

 おそらくそう声をかけるべき場面だろうと思いつつ、拓司は声をかけた。

「はい。これが無いと私、生きていけません」

「えっ」

 彼は深刻な同情の念がこもるよう注意して一声発した。内心では、どんな棒だよそれにどんな人生だよと突っ込んでいる。

「1000年の間受け継がれてきた、魔法の杖なんです。ああ、許してくださいご先祖様・・・」

 拓司は立ち去るタイミングを逸したことを後悔した。なんやねんこいつ。

 しかし好奇心もくすぐられる。また、もちろん罪悪感もあった。駆け込み乗車しようとしたのは少女が悪いが、朝焼けを見てぼんやりしていなければ回避できたとも思う。

「修理、できないの?おれ、もし、あの、あれだったら弁償するよ」

少女はため息をつきながら魔法使い風のハーフコートをめくり、腰のベルトに杖を差し込んだ。ベルトにその棒のためのホルダーがついているのを拓司は見た。

少女は拓司の顔を見上げた。拓司はやせているが身長は高く180センチを少し超えている。少女とは30センチほどの身長差があった。

「ありがとうございます。んー、弁償は、大丈夫です」

 少女はしばらく考え込んだ。

「あの、弁償する代わり、じゃないですけど・・・ちょっとお願いを聞いてもらえませんか?」

 拓司はいやな汗をかいた。もしかしてこれはやばいやつじゃないか。なんだろう。新種の当たり屋みたいなものか?高額なイルカの絵でも買わされるのか。何かの健康食品をサブスクで契約させられるのか。

 うっすら恐怖を感じ、早くこれを終わらせてマックで落ち着きたいと念じるが、この不思議な少女への好奇心もざわめく。

 何にしても駅のホームでいつまでも寒風にさらされていることはない。どこかで少し話そうということになり、二人は駅前のマックに入った。午前6時ちょうど、まだ客は少ない。


つづく

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