小さな世界1 猫又タビの伝説

すずきりょう

猫に願いを

 ガララララ……ガシャン。

 胸まで上がっていたシャッターを開けきって、健一は店の外に出た。

 開店時間にはまだかなり余裕があるが、なんとなく、早朝の空気を吸いたくなったのだ。アーケード街だから外も屋内のようなものだが、天井は白いすりガラスが等間隔ではめ込まれた作りになっているので、中よりは明るく、朝の到来を感じられる。

 向かいの食器屋―いや、瀬戸物屋は、まだシャッターが下りている。

 早朝は子供の姿が目立つ。駅の方へ向かうのもいれば、その逆へ向かうのもいる。あと30分ほど経つとスーツの人が何人かゆき交う。街が活発に動きはじめるのはそのあとだ。

 仁王立ちでぼんやりしていると、左側から声が飛んできた。

「おはよう! どうしたの? 早いじゃない」

 2軒隣の八百屋の奥さん―とらさんだ。健一の倍ほどは生きているだろうに、動きは機敏で若々しい。

 健一も負けじと返事をした。

「おはようございます! 今日のおすすめは何です?」

「キャベツだね。あとで見においで!」

 そう言い残して、とらさんは店内へ入っていった。

 と、そこへ。

「みゃお」

 だし抜けに猫の短く鳴く声がした。

「? どこだ」

 健一は辺りを見回すが、声の主は見当たらない。少しの人とシャッターだけだ。

「みゃお」

 再び声がする。今度はわかった。上だ。

 アーケードの天井には、各店の店名が書かれた看板がぶら下がっている。その支柱にからみつくように灰色と白のまだら猫が乗っかって、こちらをジッと見つめている。

「なーにやってんだ? おまえ」

 腰に手を当てて、健一は尋ねた。

「みゃお」

 つぶらな瞳で、猫はなおも一声鳴いた。

「どうやって上ったんだ?」

「…………」

 健一は肩をすくめて、言った。

「どれ、下ろして―」

 やろうか。そういいかけた瞬間、猫の姿が映像に置き換わった。小さな穴の上の方から、子供たちが自分を見下ろしている。そして、その次の瞬間、視界は元にもどり、猫の姿も消え去ろうとしていた。

「念写か!」

 動物が念力を使うのは、よほどの危機が迫った時だ。中でも、生まれつき特別な力を授かったものだけが、こういう特殊なやり方で助けを呼ぶことができる。

 最初の鳴き声は不意のことで聴き取れなかったが、おそらく「助けて」といっていたのだ。

「どこだ!」

「みゃお」(落ちた)

 短くいい残して、ついに猫は消えてしまった。

「なんだあ? 鍵でもなくしたのか?」

 健一の声を聞きつけて、右隣の果物屋の店主が出てきた。

「おじさん! ちょっとごめん、ちょっと公園にいってくる!」

 健一はそう叫ぶと、一目散に駆け出した。

「お! かけ足か? いってらっしゃい」

 怪我するなよ、という言葉を背に、健一は近所の公園にかけていった。


 公園は、路地裏の角地にある。遊具もなにもない。柵もないから、ボール遊びもできない。所有者が管理を放棄した空き地のため、やむを得ず、商店会が管理している。手入れをしないでいると、雑草が伸び放題になって近隣の迷惑になるし、不法投棄でもされればさらに負担が増すからだ。その代わり、祭りや運動会のときには重宝する。

 その片隅には枯れた井戸があり、以前にも一度猫が落ちたことがある。その時は商店会が資金を出し、板金屋さんが加工して格子状の蓋を作り、かぶせたのだった。しかし、不心得者が数日前に蓋を持ち去ったため、次の商店会会合の議題のひとつに挙げられていた。

(こういうことがあるから、回覧板も馬鹿にできない)

 はたして、公園のすみでは、子どもが2人、井戸をのぞき込んでいた。

 足音に気づき、顔を上げた子どもたちは、健一の姿をみとめて「あっ!」と声を上げた。

「魔法屋のおじさん!」

 健一は片手を挙げ、応じた。

「よう。猫が落ちたって?」

 子どもたちは健一を迎え入れながら、言った。

「そうなんだよ。鳴き声がするから探したら、ここにいたんだ」

「がんばれっていったけど、駄目なんだ。さっき、目をつむっちゃったときは死んじゃったかと思った」

「そうか、ありがとう。どれ」

 報告を受けて井戸をのぞき込むと、たしかに、白っぽいまだら模様の猫が底の石に前足を乗せ、背を伸ばして立っている。念を飛ばした猫とみて間違いなさそうだ。

(ん? 立っている?)

 健一はその姿を不審に思ったが、とりあえず、気にしないことにした。

「……まあいいか。よし、おじさんが助けるから、もうおまえらは学校に行け」

 子どもたちはホッとした様子で、言った。

「ありがとう、おじさん!」

「ちゃんと助けてね! 遅くなっちゃった、走ろう!」

 口々に言って、子どもたちは走り去った。

「車に気をつけろよ! ありがとな!」

 背中に呼びかけ、再び井戸をのぞき込んだ。猫はつぶらな瞳で「みゃあ」と短く鳴いた。

「ありがとう、じゃねえよ。おまえ、人間の言葉がわかるだろ? そんなに頭がよくて、なぜ落ちた?」

「にゃーん」(まず助けてよ)

 健一は疑問をぶつけたが、猫はおかまいなしのようだ。

「ちぇっ、しょうがないな」

 健一が手を差し伸べると、猫の胴体がふわりと浮かび上がり、数メートルほど上にある健一の腕に収まった。

「そら」

 猫を地面に下ろしてやると、健一は再び仁王立ちになって、猫を見下ろした。

「なんで落ちた?」

「にゃう」(足がすべった)

「嘘つけ!」

 健一は思わず一喝した。

「普通の猫はな、死にそうにでもならなきゃあんなことはできないんだ。おまえはまだピンピンしてるじゃないか」

「にゃう!」(うるさいな! あんただって足すべらすことぐらいあるでしょ!)

「長い!」

 健一は歯噛みしつつ頭をかかえて、猫を睨みつけた。

「もう少しましな嘘をつけよ」

 いわれた猫は顔を洗う仕草をして、ひと声。

「みゃお」

「かわいこぶるな」

「…………」

 猫はだまって目を細めて、ジッとこちらを見つめた。

「なんだ? 本当のことをいう気になったか?」

「にゃーぅ」(あなたを見込んでお願いがあるの。今夜、ここで決闘が行われる。それを止めてほしいの)

 健一は眉間の皺を深くして、腕を組んだ。

「いやだね。おまえがやればいいだろ」

「…………」

 猫は左前足をペロペロと舐めると、再び健一をまん丸の目で見つめ、いった。

「にゃ」(わかった。じゃあ、手伝って。お礼はするから)

「…………」

 健一は「うーん」とうなって、後ろ首をかいた。

「わからんことだらけだ。井戸の蓋をどけたのはおまえだろう。井戸に入るために。あの井戸にはなにがあるんだ? おおかた、決闘だって、無関係じゃないだろう」

「にゃーう」(わたしじゃない。わたしにはあんな重たいもの動かせない)

「いいや、できる。人にやらせれば、な」

「にゃぉ」(怖いこといわないでよ)

 健一は、核心をつかむまであと一歩とばかりにしゃがみこみ、ささやくようにいった。

「いいから、教えろよ。あの井戸はなんだ?」

 猫は考え込むかのように尾をくねらせ―不意に耳を立て、危険を察知したかのように振り向いた。健一はつられてそちらを見やるが、向かいのコインパーキングが見えるだけだ。

「?」

 いぶかるよりも早く、空気が動いた。

 気づいたときにはもう遅い。あっという間に、猫は左手の民家の塀に上り、

「にゃっ」(とにかく、頼んだから!)

 と、ひと声鳴いて姿を消した。

「絶対にいかないぞ!!」

 悔しまぎれに叫んでも、返事はない。

 だれもいなくなった公園を、場違いにさわやかな風が吹き通っていった。

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