一夜を終えて

 夏の日差しを浴びて、積乱雲が目に痛いほどに輝いている。鴎たちが鳴き交わしながら、群青の空で複雑なダンスを踊っている。紺碧の海原から寄せる潮風が、船着場に隣接して建つ休憩処の軒先にかかる「氷」と染め抜かれた旗を揺らした。田舎の停車場を思わせるような、素朴な作りの建物には『ギルマンハウス』で夜を過ごした宿泊客たちが迎えの船を待ち構えている。

 今、消波ブロックが積み重なる堤防の向こうに、連絡船が姿を現した。

 気の早い客たちが休憩処の長椅子から立ち上がった。各々、スーツケースやボストンバッグを担ぐと、コンクリートを焼く日差しの中へ歩み出ていく。

 まるで、一刻も早く『ギルマンハウス』の建つこの島から立ち去りたいかのようだ。

 蔵人は長椅子に座ったまま、海と、船と、宿泊客とを眺めていた。傍には、旅行カバンとリュックタイプのペットケージがある。その中では、灰色毛皮の大将が保冷剤を抱いて眠っている。

 あの人たちはどんな夜を過ごしたのだろう。

 込み上げるあくびを噛み殺しながら、蔵人は思った。

 まさか、僕たちみたいな目にあった人は居ないだろうけど。

 昨日は船酔いに始まり、午後の間じゅう手首の幻想に付き纏われ、挙句は腕を斬り落とされかけた。あやういところで助かったものの、もう少しで邪な神の生贄になるところだった。そして、あの男の身も凍るような変身と、おぞましい怪物との戦い。脳裏にあの膨れ上がった姿が蘇り、盛夏の空気の中で蔵人はぶるっと背筋を震わせた。

 ソーニャの考えでは、あの男を変えた存在モノは、本当は蔵人に憑こうとしていたのだという。儀式が滞りなく行われていれば、あのような化け物めいた姿ではなく、もっと人間らしい姿でこの世界に顕現していたに違いない。人間の姿になりかわることで場所に制限されず、警戒されず、さらに多くの生贄を手に入れる。そうして世界に邪悪と腐敗を疫病のように広めるのがあれの存在意義なのだ。

 自分の姿をした怪物が、ソーニャをはじめとして多くの人々の命を奪っていたかもしれない。そう思うと、蔵人は改めて戦慄を覚えた。〈黄夫人の手〉のことを気の迷いだなどと片付けず、すぐに相談すれば良かったのに。彼女が気づいてくれて、本当に良かった。

 ふわり、とサンダルウッドの香りがして、長椅子の隣にソーニャが座った。

「レモンと迷ったけど、いちご練乳にしたよ」

 少女の手にあるのは、ハンギョドン柄のプラスチック容器に盛られたかき氷だ。白い氷を毒々しいまでに染めるシロップの赤に、黄みを帯びたコンデンスミルクがたっぷりと掛かっている。休憩処には堤防釣りの客や船待ちの客をあてこんだらしい売店が営業中で、彼女もまんまとその術中にはまっていた。ソーニャが先端の広がったストライプ柄のストローでザクザクとみぞれ状の氷をかき混ぜると、化学的に合成されたいちごの匂いが漂ってきた。

「んー、ちべたい」

 氷とシロップと練乳の混合物を口に含み、ソーニャは満足げに呟いた。その様子を微笑ましく見ていた蔵人に、少女は言った。

「やっぱりクロードも食べたい?」

「えっ?」

「待って、シロップがいっぱいかかったところを……」

「いや、僕は」

「はい、あーん」

 少女の勢いに負け、青年はおずおずと口を開いた。

 唇の隙間に、冷たい氷が差し込まれる。舌がプラスチックストローのつるりとした感触に続いて、練乳とシロップの冷たい甘味を伝えてくる。

「やっぱり、いちご練乳だよね」

「う……うん」

 蔵人は妙につかえながら口の中のものを飲み下した。

 ソーニャはかき氷の頭頂部を少しばかりすくい、ストローを咥えると、ちゅっと口の中に吸い込む。

 しばらくの間、しゃく、しゃくと少女がかき氷を食べる音が続いた。

「……あのねクロード、ごめんなさい」

「どうしたの、急に?」

 唐突な謝罪の言葉に、蔵人は虚を突かれた。

「私が、旅行に誘ったせいで、あなたをあんな目に合わせて」

 ソーニャはかき氷の器を覗き込むように俯いている。

「そんなこと……ソーニャが助けてくれたんじゃないか」

「でも、私が、旅行に誘わなければ、クロードがあんな怖い思いしなくて済んだのに……」

 少女の声はわずかに震えていることに、青年は気づいた。

 この子が責任を感じる必要などないのに。

「君のせいじゃないよ」

「でも––」

「それに、僕らがここに来なかったら、別の誰かが犠牲になってたはずだよ。そうなったら、あの怪物はその人に成り代わって、さらに犠牲者を増やしていたはずだ。それを、僕たちで阻止したんだよ」

「クロード……」

 ソーニャが顔を上げた。いつもは凛々しい眉が今は困ったような尻下がりで、瞳は普段よりわずかに潤みを増していた。

「でも……そう、かなぁ?」

「そうだよ、もちろん。誰でも、ニューイングランド最高の魔女と一緒なわけじゃないからね」

 その言葉に、まだわずかに強張っていた少女の口元が緩んだ。

「そっか。そうだね。だって、それができるのは、クロードだけだもん」

「おわらー」

 椅子に置いたケージの中から、ホイエルの声が聞こえた。起きていたらしい。

 ぎゃりぎゃりと頭でジッパーを無理に押しあけて、橙色の鼻先が覗いた。

「おう、うわん?」

 なぜか不満顔の大猫が、二人の顔をじろりと睨め付ける。

「拗ねないで、ホイエル。クロードはニューイングランド最高の魔女と、って言いたかったの。ね?」

 取りなすようなソーニャの言葉に、蔵人はせきこんで頷いた。

「うん、そう。そうだよ。今回も大活躍だったね。さすがホイエル。感謝してるよ」

「……ふなわー」

 ホイエルは猫目をすがめると、保冷剤付きのペットケージの中に頭を引っ込める。

 その様子に、二人は目を見合わせ、小さく笑い声を漏らした。昨夜の恐怖が、今はもう、夢だったかのように蔵人には思えた。

「うーん、でも、せっかくの旅行だったのになぁ……」

 しゃくしゃくとかき氷を崩しながら、ソーニャが言った。

「楽しい思い出にしたかったのに」

 口ぶりには明るさが戻ったが、その顔には無念の色が滲んでいた。

「家に帰るまでが旅行だよ」

 蔵人は務めて明るく言った。

「せっかくだから、帰りがけに熱海でちょっと観光しないかい?」

「……そう! そうだよね!」

 ソーニャの顔がぱっと明るくなった。まるで夏休みが延長されたのを聞いた小学生のようだ。

「私も、本当はそうしたかったの」

 言ってソーニャは懐からスマートフォンを取り出した。

「実はちょっと調べて、メモしてたんだ。この古民家風のカフェ、評判いいんだって。それに、MOA美術館でしょ、温泉にも入りたいし。ロープウェイも乗りたいし、熱海城は絶対だよね。キングコングとゴジラが壊した所だもん」

「え、でも、そんなに回れるかな?」

 待ってましたとばかりのソーニャに、蔵人はたじたじとなった。駅ナカで海鮮丼でも……と思っていたのだが。

「それじゃ、熱海でもう一泊しちゃおっか?」

「ええっ、それは流石に」

「ホイエルも泊まれるとこ、もう探してあるんだ。クロード、べつにスイートじゃなくても良いよね?」

「ちょ、ちょっと待ちなさい」

「そうそう、さっきネットで調べたんだけど、熱海城の近くに秘宝館もあるんだって」

「いや、その秘宝館は、本当の秘宝館だから……」

「せっかくの旅行だもん、思いっきり楽しまないと、だよね!」

 ソーニャの満面の笑みを見ながら、蔵人は思った。

 やれやれ、秘宝館はもう懲り懲りだよ……。

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