第一話_金華山の風_二

二:信長と風

数日後──その蝶を、尾張の山で見た少年がいた。三国山か、猿投山か──記録には残っていないが、山の稜線を越えて吹き抜ける風の中で、若き織田信長はふと足を止めた。

信長は鞍の上で身を乗り出すようにして蝶を追った。


「……またか。この蝶、見覚えがある気がする」

そのとき、背後から従者たちの呼ぶ声が山道に響いた。

「殿! お待ちを!」

信長は小さく舌打ちし、馬の腹を蹴った。

「うるさい、来るな!」


馬はひと息に坂道を駆け上がった。枯葉を巻き上げ、石を跳ね飛ばしながら、木々の間を抜けていく。従者たちの姿が見えなくなると、信長は手綱をゆるめて馬を止めた。


「……ふぅ」

従者たちの目をまいたようだ。信長は馬の首筋を軽く撫で、ひとりで山道へ分け入った。枝葉を揺らす風が馬上の髪をほどけさせ、木漏れ日が足もとの岩を淡く照らす。あたりは昼の光と木陰がまだら模様を描いていた。


鞍から飛び降りた彼の袖は少し破れ、野草の実があちこちに絡みついていた。途中でかじりかけた柿が地面に転がり、土の上に甘い匂いを残している。

信長の目の前を、蝶がふわりと横切った。さっき鞍の上から見た蝶と同じ柄だ。青みがかった浅葱色の翅が光を受け、かすかに輝いて見える。高く、そして低く、ゆらゆらと舞いながら山道の上を漂っていた。信長はその姿に、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。


町で鮒売りと喧嘩し、寺で座禅を組まず、城下の者から「うつけ」と囁かれる。信長はそんな周囲の目を意にも介さず、ただ蝶を追って空の彼方を見つめた。

「北の方から来たのか……」

蝶が風に乗って南へと舞っていくのを見送りながら、信長はふと思った。もしかしたら、この蝶は、美濃から来たのではないか──。


美濃。尾張の隣国にして、国人衆が割拠し、一枚岩とは言いがたい国。

斎藤道三は父子の不和、土岐家の衰退、周辺国の圧力という難題を抱えながら、美濃の支配をようやく固めつつあった。だが、その急成長は周囲の国の警戒を招く。尾張でもその動きは注視されていた。


信長の父・織田信秀もまた、内に不満を抱える国人衆や、南の今川との対立、西の三河の松平氏との緊張を抱えながら領国経営に腐心していた。尾張は火種に囲まれた国であり、信秀は絶えず策を練らねばならなかった。


城下にも、美濃情勢にまつわる噂がひそやかに広がっている。

「道三の娘が近隣国に嫁ぐらしい」「いや、斎藤家は内輪揉めで手一杯だ」「いずれ尾張に刃を向けるのではないか」──。


それは幼い信長の耳にも届いていた。

兄の信広はすでに家督を補佐する立場を任じられ、弟の信行も武芸や稽古事に励んでいる。対して信長は、自由奔放な振る舞いゆえに「うつけ」と噂され、家中の者からも半ば見放されていた。


だが、信長は静かに思った。

「俺は俺の目で見たい。噂ではなく、自分の目で」

蝶の行き先よりも、その来し方に心が向いた。蝶は山を越え、国を越え、誰に見られるでもなく飛んできた。


──蝶の向かう先に何があるのか。あるいは、過去に何を越えてきたのか。

信長は蝶がやって来た北の空を見上げた。どこか遠い場所で、誰かがこの蝶を見送っていたのかもしれない。そんな考えが胸をよぎった。

風がひときわ強く吹き、木立の葉がざわめいた。信長は蝶の翅の動きに、何かを託すような気持ちで一歩、山の尾根へと踏み出した。


「三:風を繋ぐ」につづく

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