【アナログレコードお仕事恋愛短編小説】ゴースト・ノートは君のメロディ ~S/N比100%の恋愛方程式~(約18,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:S/N比100%の孤独

 私の世界は、0と1で構成されている。


 喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも。人間のあらゆる複雑で厄介な感情さえも、突き詰めればそれはニューラルネットワーク上を流れる電気信号のパターンに過ぎない。パターンである以上、必ず法則性がある。法則性がある以上、予測が可能だ。私は、そう信じていた。


 奥寺響子、二十七歳。大手音楽配信サービス「MUSE-X」のデータサイエンティスト。


 幼い頃から数字に親しんできた私にとって、世界は美しい数式で説明できるものだった。高校時代、同級生たちがJ-POPやロックに夢中になっている頃、私は統計学の教科書を読みふけっていた。東京理科大学で情報科学を専攻し、修士課程では機械学習を研究した。音楽に興味を持ったのは、それが「人間の感情を数値化できる最適なサンプル」だったからに過ぎない。


 私の仕事は、AIにヒット曲の法則を学習させること。数千万曲の楽曲データと、数億人のリスニングデータを解析し、次のヒットを予測するモデルを構築する。コード進行、BPM、歌詞に使われる単語の共起ネットワーク、そしてリスナーがどの部分で心を動かされ(あるいは飽きて)スキップボタンを押したか。その全てが私の前では等しく、冷徹なデータセットと化す。


 MUSE-Xの本社ビル最上階にある会議室。ガラス張りの壁からは東京の摩天楼が一望できる。私はここで、週に三度は役員たちにプレゼンテーションを行っていた。


「――以上が、次世代ヒット予測AI『MUSE』の分析結果です。結論として、アーティストKΛNΛTΛの新曲が来期のチャートを席巻する確率は92.4%。これはマーケティング費用を30%削減しても、なお維持可能な数値です」


 巨大なモニターには、美しい三次元のグラフが映し出されている。縦軸にヒット確率、横軸に投入予算、奥行きに時間軸を取った立体的な予測モデルだ。色とりどりの点が雲のように浮かび、それぞれが一つの楽曲の運命を示している。


 よどみなく説明する私に、役員たちが満足そうに頷く。特に営業担当の石川取締役は、いつも私のプレゼンを絶賛してくれる。


「奥寺さんの分析のおかげで、うちの利益率は業界平均の1.7倍だ。君のような人材がいてくれて、本当に心強いよ」


 そんな賛辞を受けても、私の心に波は立たない。それは当然の結果であり、私が設計したアルゴリズムが正確に機能しているという証明に過ぎない。


 音楽は、もはや感性や偶然の産物ではない。それはデータによって最適化され、効率的に生産・消費されるべきコンテンツなのだ。私はその世界の敬虔な信者であり、そして有能な設計者だった。


 だから私は、ノイズが嫌いだ。


 予測モデルの精度を乱す不確定要素。合理的な説明のつかない非効率な感情の揺らぎ。S/N比――信号(Signal)対雑音(Noise)比――が限りなく100%に近い、クリーンで完璧な世界。それが私の理想だった。


 私のマンションは、品川区の高層タワーの28階にある。1LDKのモダンな部屋には、必要最小限の家具だけが機能的に配置されている。白いソファ、ガラスのテーブル、そして壁一面を覆うブックシェルフには、統計学と機械学習の専門書が規則正しく並んでいる。


 音響設備も、もちろん最高級のものを揃えていた。デンマーク製のアクティブスピーカー、24bit/192kHzに対応するDAコンバーター、そして音響特性を最適化するための吸音材。しかし、それは音楽を「楽しむ」ためではなく、「分析する」ための道具だった。


 こんな私だから、もちろん、恋愛経験など、あるはずもなかった。


 学生時代、何度か男性に誘われたことはある。しかし、彼らとの会話は決まって論理性を欠いていた。「君と一緒にいると楽しい」「君ともっと時間を過ごしたい」――そんな曖昧で感情的な言葉に、私は適切な応答を見つけることができなかった。


 そんな私の完璧にクリーンな世界に、ある日、とんでもないノイズが混入することになった。


 それは2024年12月の、雪がちらつく寒い午後のことだった。


「奥寺くん、君に特命だ」


 上司の田中部長に呼び出された私は、一枚の企画書を手渡された。部長の執務室は、重厚な木製の家具で統一され、壁には音楽業界の功労者たちとの写真が飾られている。彼は業界歴30年のベテランで、デジタル化の波を乗り越えてきた数少ない役員の一人だった。


『伝説のアーティスト「Ao」、未発表音源アナログレコード化プロジェクト』


「……アナログ、ですか?」


 私は思わず聞き返した。企画書をめくりながら、そこに記載された数字を素早く計算する。制作費、流通費、予想売上――どれを取っても、明らかに赤字プロジェクトだった。


「今さら、ですか? 物理メディアは製造コストも流通コストもかかる、典型的なレガシービジネスです。ROIが到底見合わないかと」


 私はiPadを取り出し、即座に市場分析データを表示させた。


「アナログレコード市場は確かに微増傾向にありますが、それは主に40代以上の懐古趣味によるもの。メインターゲットである10-30代のデジタルネイティブ世代には、物理メディアの購買意欲は統計的に低い数値を示しています」


「Ao」は、数年前に彗星のごとく現れ、たった一枚のアルバムを残して急逝した正体不明の覆面アーティストだ。その音楽は確かに天才のそれだった。メロディーラインは独創的で、歌詞は詩的な美しさを持っていた。しかし、彼の死後、その人気は一部の熱狂的なファンの間で神格化されているに過ぎない。


 私のAI『MUSE』も、彼の商業的成功確率は「12.7%以下」と冷徹な数字を弾き出していた。楽曲の完成度は高いが、現在の音楽トレンドから逸脱しすぎており、大衆受けしない――それが機械学習モデルの結論だった。


「これはビジネスじゃない。カルチャーだ」


 田中部長は、わかったような、わからないようなことを言う。彼はコーヒーカップを手に取り、窓の外の雪景色を眺めながら続けた。


「彼の最後の音源が、奇跡的に見つかったんだ。それを最高の形で世界に届けるのが、業界最大手である我々の使命だ。君のその分析能力で、このプロジェクトを成功に導いてほしい」


「しかし部長、私の専門はデジタル配信の最適化であって、アナログメディアについては……」


「だからこそだ」


 田中部長は私の言葉を遮った。


「君のような若い世代の視点が必要なんだ。それに、データサイエンティストとしての君の能力は、どんな分野にも応用できるはずだ」


 断ることはできなかった。これは業務命令だ。


 私は心の奥で大きな溜息をついた。これから私の完璧な世界が、非効率で不合理なノイズに汚染されていく。その予感だけが、データにも現れない確かな手触りをもって、私の胸に重くのしかかっていた。

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